卑怯な大人の攻防戦 ‐後編‐
慌しく駆けずり回ったこの数日間。
また一人で泣いてはいないだろうか、拘束しているとはいえ同じ建物内にシュイがいることに怯えてはいないだろうか、別の構成員が彼女に接触しはしないだろうか、と。あらゆる種類の心配を一通りしてみて、結局、彼女の執務中は軽い警護をつけ、夜は暖かい食事を差し入れる、という事に留まった。
自身が忙殺されるせいもあったが、昼間センターでちらりと顔を見にいくことしか出来ない状況。宵闇の中でアルジェを前にするのは、疲弊した体に良くないから、こっそりと食事だけを置く行動で存在を示しはしたのだが。
ベースに現れた彼女は、充分に自分を意識してくれていた。
昨日までの、周りに人がいる時に見せた、取り繕った様子ではなく。明らかに視線を逸らすし、近寄れば緊張を見せる。その反応にほくそ笑みながら、エプロンを身につけた彼女をカウンターの中に引っ張り込んで。意図的に耳の上で囁き、素早く離れた。アルジェの体が強張ったのは百も承知で、何食わぬ顔で作業を再開する。
もっと意識すればいい。
自分の一挙手一投足に目を向け、その身を曝け出せば良いのに。
横目で彼女の可愛らしいエプロン姿を堪能しながら、不埒なことに想いを馳せた。
本部で緋天の写真を手にしていた蒼羽と同じ様に。
彼は何故、こんなにも人を満たそうとするのだろう。
後片付けは自分がやる、と申し出る緋天を受け入れるベリル。彼女に従おうと立ち上がった自分を、半ば強引にソファに抑えた。その代わりに蒼羽が立ち上がり、にこりと笑いながら緋天が皿を運ぶのを手伝う始末。
正直、蒼羽がそんな風に動くとは思ってもみなかった。想像すらしていなかったというのが正しい。
仲良く皿を洗い始める二人の、その奇妙な光景を呆然と眺めていると。
「変な感じ? 蒼羽は緋天ちゃんの為なら喜んで台所に立つ男になったんだよ」
わざとらしく感動に咽び泣く振りをしながら、ベリルがぺろりと舌を出した。
どこか憎めないそれに何となく居心地が悪くなる。今更ながらに、彼が紡いだ甘い言葉達が甦って。
「全く、判りやすい顔してくれるね」
無意識に体を引いて、隣に座るシンを見る。ベースに着いてから口数の少ない彼が、頼もしくも立ち上がって自分の腕を引っ張った。
「アルジェ、送るから帰ろうぜ。そんで、アルジェん家で遊ぼう」
「あ、ええ、・・・」
「ダメぇー!!」
シンに返事をしかけた時、思わぬところから声が上がって、泡だらけの手をした緋天が自分を引き止めた。
「え? 緋天さん?」
「だって、だって・・・皆でビデオ観よう、ってさっき言ったのに・・・」
呆気に取られた顔をする蒼羽を背中に、わざわざカウンターの中から出てきて、それから必死な顔で緋天は口を開く。食事中に、そんな話が出ていたのは確かだったが、彼女がそれをそんなに楽しみにしていたとは思っていなかった。
「用事ないんですよね・・・?」
上目遣いに自分を見上げるその表情に、思わず頷いてしまう。緋天の後ろから蒼羽が出てきて、できるなら彼女の望みを聞いて欲しいという顔をしてみせた。
「さて、アルジェもまだ居てくれるみたいだし。食後のお茶でも淹れようか。あ、今日は私がするよ」
「っ、まだ・・・!!」
「あれ? やっぱり帰っちゃうの? 残念だね・・・」
すっかり決定事項のように口を開くベリルに、まだここに居るとは口にしていない、と言おうとしたら、悲壮な顔を向けられる。
「アルジェさん、・・・ダメ、ですか?」
わざとらしいのにベリルの表情はどこか体の奥を波立たせた。追い討ちをかけるような緋天の悲しそうな顔と声に、思わず首を振って。
「えへへ、良かった」
背後の蒼羽を振り返り、嬉しそうに笑う緋天に肩の力が抜ける。
別に、ベリルと二人の空間に追いやられる訳ではない。そう思い直して、何とか彼女に笑顔を返した。
「あれ? シン? あー、完全に寝てるね」
初めのうちは、ブラウン管の中に流れる映像に反応を示していたシンだったのに。いつの間にか身動きもせず、口も開かなくなったと不審に思った時に、ベリルが苦笑してそう言った。
「寝かせてくるよ、やれやれ」
左のソファに座っていた彼が立ち上がり、自分のすぐ近くで身を屈める。彼の小さな小さな笑い声が、左耳に響いた。荷物のようにシンを肩に乗せて、廊下へと消えたその背中。
一瞬のことなのに、ざわりと左半身を粟立たせた。彼の声は、特別な周波数で人を捕らえるのだろうか。
「蒼羽、ほら」
「ん」
テレビが見えやすいようにと光度を調節した室内で。薄暗がりから聞こえるのは、静かな足音とベリルの小声。
蒼羽に手渡したのは折りたたまれた毛布で、彼もまた小声、必要最低限な一言だけを返していた。眠っていたシンを起こさないようにするなら、それは遅いのではないかと思ったら、目に飛び込んできたのは信じられない事実。
「・・・ん〜」
「緋天、おいで」
蒼羽が毛布を広げる動作で、その肩に頭を少し預けていた緋天が驚いたことに不機嫌そうな声を出す。
それに対して顔を綻ばせながら、蒼羽がこれ以上の甘さはないという声で、優しく彼女を引き寄せて。
「ぅん・・・」
仰向けに体をソファに沈めた彼は、苦もなく緋天をその上に乗せる。おいでと言ってからわずか数秒。
蒼羽のその囁きに応えるように、今度は甘やかな吐息を漏らす緋天。普段なら、自分やベリルがいる場所では、彼女は絶対にそんな風にしないだろう。緋天は人一倍、恥ずかしさを見せるから。けれど、どうした事か蒼羽のするままに、大人しく彼の腕の中に移動して、すっぽりと収まるように身を預けているのは何故。
暗いから、気付かなかった。
彼女が静かなのはもともとの事。映像にくすりと笑う声などが聞こえていたのに、シンと同様、いつの間にか緋天も眠りかけていたのだ。
微笑ましく思えるよりも、これを観ようと言い出したのは緋天なのに、と非難したくなったのはきっと。
「はい、お嬢さんもどうぞ」
シンが先程まで座っていた場所に。つまりは自分の左隣に。
あっさりと腰を下ろし、何食わぬ顔で手触りのいいひざ掛けを手渡す、この。
「・・・サー・クロム」
どうすればいいか判らない状況に陥り、彼の笑顔が憎らしかった。
「あー、起きた時に緋天ちゃん、がっかりするから。できれば帰らないで欲しい」
「っっ・・・」
こんなところで寝たら風邪をひくから、先程のシンのように、いつもの蒼羽なら寝入った緋天を自室のベッドに連れていくはず。事実、つい先日は、体調を崩していた緋天をいとも簡単に抱き上げて、そうしていたのに。
「シンも怒るだろうし。ね?」
右側のソファでは、クッションを背に上体を起こし、その腕の中に横たわる緋天へ愛しそうにキスを落とす蒼羽。
二階に行かないでいてくれるのは、本当は有難い。
ベリルの口にした、緋天やシンをがっかりさせるというのは良心が痛む。しかしこの場に留まって、同じ空間から緋天と蒼羽がいなくなれば、間違いなくベリルと二人だけで、自分が何を仕出かすか判らなくて怖いから。
だから。
蒼羽が箍が外れたように、眠る緋天の髪を撫でたり、頬を撫でたり、口付けたりするのは。
その様子が視界に入って、何とも居心地が悪いけれど。
帰ると言って、ベリルに家まで送られたり、二人だけでこの薄闇に残されるよりは。
きっと、マシな事なのだ。
引っかかった、と。
右側のアルジェを見て笑みがこぼれる。
緋天しか目に入っていない蒼羽を横目に、馬鹿みたいにうきうきとしながらソファの背もたれに腕を回した。
直接には彼女に触れてはいないが、肩を抱くのと同程度の感覚は与えられるだろう。びくりと強張るアルジェの右耳の上の柔らかな髪を、指先でそっと持ち上げて。視線はあくまでもテレビへと注ぐ。
足を組み替え彼女の方へと体を向け、故意に膝を一瞬当てた。
「あ、ごめんね」
左の耳に限りなく近付いて、その上で囁いてみる。案の定、更に緊張する彼女。
「っあの、サー・クロム」
「しっ、緋天ちゃんが起きちゃうよ」
この場合、音量を絞って流れるビデオは問題外である。
知り合いの人間の声が、眠りに落ちる人々を起こすのだ、と。
いかにも一大事のように語ってみせて、アルジェの良心を呼び覚ました。実際に、無理に起こしたら承知しないという顔をした蒼羽が、追い討ちをかけるように彼女を一瞥したから、威力は充分。
「・・・寒くない? もっとこっちに来れば?」
小声で囁き、心配そうにその頬に触れて。いちいち反応してくれることを確かめて手を放した。
この上なく、楽しい。
自分がアルジェを狙っているのだと、緋天がそう答えを導き出せるように振舞った甲斐もあり、彼女の協力も手に入れた。帰らないで欲しいと言うのは、緋天でなければいけなかったのだ。アルジェを引き止めるのが蒼羽であったら上手く行かなかっただろう。
「今日の晩御飯、何がいいかな? そろそろ好き嫌いとか知りたかったりするんだよねぇ」
返事はないだろうな、と判っていながら、独り言のように、こそりと呟いた。
そろそろ蒼羽も気付くはずだ。今日、自分が何をしたかったのかを。
緋天が協力態勢を見せるなら、当然、彼も付き合ってくれると思う。ちらりと彼を見やると、それはそれは嬉しそうに緋天の髪を撫でていた。彼の腕の中の緋天は、可愛らしい寝息を立ててじっとしている。
本当の目的は、正にこれ。
寝入りばなと、寝起き。つまりは半分程覚醒した状態なのだが、とにかく緋天は即座に目覚めることは少ないらしい。そういう時に蒼羽が傍にいると、無意識下で甘えるとのこと。実際に、先程も蒼羽の声に難なく導かれ、彼の腕の中で居心地のよい体勢を探し、良い感じにいちゃいちゃとしてくれた。周りに自分やアルジェがいる事に気付く暇もなく。
容赦なく甘い空気を発する二人を見せて、アルジェにもそんな気分になってもらおうという作戦なのだが。
傍らのアルジェはさぞかし居心地が悪いだろう。けれど、逃がさない。
あともう一回、彼らのいちゃつきショーが待っているのだから。
それまでは、せいぜい隣に座る自分を極限まで意識してもらいたい。
背中の、その後ろ。
ソファの背もたれから、ベリルの腕が離れることはなかった。
それから、その右腕の先の指が、おそらく少しだけ耳の上の髪に触れている気配が消えることもない。だからといって、彼にそれをやめてくれと言うのは自意識過剰のような気もして、口に出すことが出来なかった。触れているのかと問いかけて、触れていないと言われればそれまで。
「あ、そろそろ起こした方がいいかもね。今4時だよ」
少しも身動きできない、拷問に等しい2時間強。延々と流れるビデオ、緋天が満面の笑みで大好きだと言った、北極の動物を追いかけるドキュメンタリーがようやく終わりを見せていた。はっきり言って、昏々と眠り続けていた緋天と同じくらい頭に入っていないと思う。
「緋天ちゃん、着替え持ってないんでしょ? 一回家に帰らせてあげた方がいいんじゃない?」
隣でそう言うベリルの声は、まだ小声。
話しかけられた蒼羽の方はと言えば、それに頷きながら視線は緋天に注がれたままだった。
「女の子はやっぱり色々荷物がいるんだよねー。何でだろうね?」
くすくすと笑いながら彼はこちらへと首を傾げる。
緋天はどうやら今夜蒼羽と外に泊まるらしい、と頭で理解した。それだけで済めばいいものの、ベリルの笑いがその先を想像させる。何故、自分に聞こえるところでそんな話をするのだ。普段の彼ならば、女性の前でそういう事はしないように思える。今の彼は、この自分をからかおうという使命に燃えているのだろうか。
絶対に、確信犯。
「緋天」
軽く緋天の背を起こした蒼羽が、その耳の上で優しく囁いた。続いて聞こえるのは、こめかみに唇を落とした音。
「緋天。・・・まだ眠いのか?」
「んん・・・ゃう」
前髪を横に流して、額にも口付ける。その何とも甘い雰囲気は、普段の蒼羽の様子、特に難癖をつける頭の固い人間達を前にしている彼とは、とても結びつかない。ほんの少し首を横に傾けた彼女は、蒼羽に支えられたまま言葉にならない声を発していた。
「緋天」
これ以上の宝はない、とばかりに愛しそうにその名前を呼んで、蒼羽は彼女を無理に起こそうとはしなかった。
「・・・そぅ、うさん」
「ん?」
小さく彼女が蒼羽を呼んだことで、彼の頬は更に綻んでいく。蒼羽の短い返事は、傍らで聞いている自分すら、どきりとするほど艶めいて聞こえて。
「ふふ」
柔らかな緋天の笑い声と、小さなキスの音。
もう見ていられないと下を向きはしたが、とにかく流れ出てくる雰囲気で、彼らが長いキスを始めたことが判った。寝起きで、しかも部屋が暗いせいだろう。緋天は絶対に、蒼羽しかいないと思っているのだ。そうでなければ、彼女が人前でこんな行為に及ぶ訳がない。
「・・・ふあ、ん」
とうとう緋天の甘い声が漏れ始めて、本当に居たたまれなくなった。
どうすればいいのだろう、と。とりあえず、ひざ掛けを少しだけ引き上げてみる。
「・・・長いね。今度この記録を塗り替えることに挑戦してみようか?」
「っっな、にをっ・・・!!」
彼がいることを、ほんの一瞬忘れていた。
蒼羽と緋天に目を奪われていたせいで。
明らかに、自分に向けられた言葉。キスの相手としてみなされている言葉。
唇に、親指をのせてくる。
「〜〜〜お一人でどうぞっ!!」
目の前が真っ赤に染まった気がした。あまりに理不尽で、あまりに納得がいかなかったので。
彼の手を払い、夢中で叫んでしまう。
「声大きいよ? あーあ、ほら、気付かれちゃった」
「・・・っっっ!!」
「緋天ちゃん、おはよー。可愛かったよ、一生懸命キスしてるとこ」
「・・・言い方が卑猥だ」
「な、な、な・・・いやぁっっ」
セクハラ以外の何物でもない、妙に達観した声音でそんな事をのたまうベリル。
それに憮然とした声で言葉を返す蒼羽。
ベリルの声に、というよりも、自分の叫び声にだろうか。とにかくこちらに気付いた緋天が、彼らの会話で事態を悟ったらしい。震えた声を上げてから、しくしくと泣き出してしまった。予想していたのか、蒼羽は苦笑して彼女の頭を抱え込んでいる。
「やだな、緋天ちゃん。泣かないでよ〜、誉めてるのに」
「一度死んでこい」
「こわっ、何だよ、裏切り者〜・・・まぁいいや。アルジェ、ちょっと出ようか」
緋天が泣いてしまったというのに、応酬を続ける男達。
腹が立ち始めたところで、ベリルが強引にソファから自分を引っ張り上げた。しばらく緋天は蒼羽に任せ、そっとしておこうという事には異議はないが。
「さてと。お嬢さんは今夜、何が食べたいのかな?」
廊下に出て後ろ手に扉を閉めたところで、そんな問い。
黙っていると、意地悪げな笑い声がごく近くで響いた。とにかく今日はもう、勘弁してほしいというのに。
何故、その声に反応して、どこか体の奥が波立つのだろう。
「・・・帰ります。素敵な昼食をありがとうございました」
頭を下げて、とにかく玄関に向かった。
こちらの気持ちをようやく判ってくれたのか、彼は後をついて来るが送るとは言わない。
「今日は一緒に食べようね」
扉のノブに手をかけると、後ろから伸びてきた手がそれを押さえる。
頭の上でそっと囁かれて、無情にも、意思とは関係なく頬が熱くなっていた。
「・・・気をつけて」
止めたくせに、すぐに彼の手が、扉を外へと開け放って。
その反動にたたらを踏みそうになったところで腰を捕らえられる。
「記録更新は、今夜のお楽しみってことで」
「っですから!! お一人でどうぞっっ!!」
あっさりと放した手にほっとして、とにかく走り出す。
後ろを振り返れば、彼が自分の背中を見ている気がした。
ベッドの上に散らかした服をとりあえず片付けなければ、と思った自分がいた。
卑怯な大人の攻防戦 ‐後編‐
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