手のひらの上の陽動作戦 ‐後編‐

 

「蒼羽、さん」

 おずおずとした様子で、部屋の入り口からこちらを窺う彼女。

 何故そんなにも緋天が躊躇いを見せるのか、その理由は良く判っていた。

「・・・」

 黙って左手を伸ばせば、ようやく。

 ゆっくりとこちらに向かってくる。目の前で立ち止まって、ベッドに腰掛けた自分を見下ろす双眸は、一生懸命何かを見極めようとしていた。手に取るように判る彼女の困惑が、思わず笑いを誘ってしまう。

「うー、蒼羽さんの意地悪」

「もう怒ってないのか?」

「・・・はじめから怒ってないよ」

 頬を微かに染める緋天を引き寄せて膝の上に座るように促す。口ではそう言うが、彼女の与り知らぬところで写真が存在していたことは、受け入れ難いものであったはず。ベリルが何をどう誤魔化したかということを、先程ここに来た彼がぼやいていたのを聞いたから。緋天の気持ちは違う方向に変換されているのが判っていたが。

 

「蒼羽さん、向こうにいた時寂しかった・・・?」

 

 ただ軽く彼女の体を支えるだけ。

 手を出しそうになりながら、何となく、そうすることに努めていたら。

 こちらの肩に頬を押し当てると同時に、ぽつりと呟く彼女。その仕草はどこか、人間の飼い馴らす獣が甘えて鼻面を摺り寄せてくる行動と重なって見えた。緋天が獣だということではないが、とにかくそんな風に見えたのだ。言葉の使えない動物が飼い主に対して、その存在と親愛の情を示すような。

 

「・・・ああ」

 問いに対する肯定の意味と、それから、胸の奥をふるわせた彼女のその行動に対する感嘆。

 どうしようもなくなって、細い体を抱きしめる。腕の中で、緋天の満足そうな小さな吐息が響いた。

 更に引き寄せると、大人しく頭を預けてくる。緋天がしたかったのは、こういうことなのだ、と。唐突に理解した。写真に対して腹を立ててこの部屋を飛び出したのではなく、流れ出る情欲を抑えられなかった自分に堪えられなくなったのだろう。節度を求める彼女に応えられなかった自分が悪い。

 

「緋天・・・」

 どろどろに甘やかしたい。

 頬を押し付ける、というこんな風に小さな仕草で。甘え方すら遠慮に満ちている。緋天の好きなようにさせたいと思っているのに、その唇を塞ぐことに自然と体が動いた。愛しいという想いは、何故、相手の了解を得ないままに持ち主を動かしてしまうのだろう。衝動に駆られるのは自分だけなのだろうか。

「・・・んっ」

 艶めいた声を漏らす緋天に、乱暴に胸の内を掻き乱される。それでも緋天の服に手をかけることはしなかった。柔らかな唇を啄み、髪を撫で、紅潮する頬に指を這わせ、潤んだ瞳を覗き込む。

 恥ずかしそうに目を伏せはするものの、にこりと微笑む緋天の笑顔はいたずらに凶悪で。何とか今の状態を保ってはいるのだが、キスだけで留めているのは拷問に等しい。一昨日、彼女を一日中抱いて、満たされた感覚を久しぶりに味わったばかりなので、余計に。

「あのね、蒼羽さんも寂しかったのが判って嬉しい」

 相変わらず微笑んだままそう言って。

 何を思ったのか、指先をこちらの左頬にのせる。

「早く消えないかな・・・」

 優しく触れるだけのそれは、痛みなど殆ど感じなくなっているその場所を彷徨う。強く押してくれれば、少しはこの身を戒めるのかもしれないのに。

 

「緋天、今日はどこに、」

「できたよー。10秒以内に降りてこない場合はー、蒼羽が不埒な事を試みているとしてシンを二階に上げまーす」

 今夜泊まりたい場所の希望はあるか、と口に出しかけ。

 途中でベリルの呼び声に遮られた。

 腕の中でびくりと反応した緋天が離れる素振りを見せるものだから、更に躓いた感を否めない。

「蒼羽さん・・・?」

 知らず知らず唸り声を上げていたようで、心配そうな顔を見せる彼女に急いで口付けた。触れるだけのそれで、あと数時間は我慢しなければならない。

「蒼羽ー!!早く来いって!!」

 乱暴な足音にシンの苛立たしげな声が重なった。

「・・・っぁ」

 我慢しようとしたのは束の間で、結局深いキスを落とした。夜まで待たなければいけないなら、これくらいは許されるだろうと考えて。

「はーやーくー」

 シンが扉の向こうにいるという状態で、しつこく緋天の舌を追いかけた。そのせいで真っ赤になった彼女を立たせて、その腰を抱いたままドアを開ければ。待ちくたびれたという表情のシンは急いで踵を返し、階下に走る。そんなに空腹を持て余していたのだろうか、と首をひねりながらも、傍らの緋天が逃げずにいることに気を良くして階段を下りた。

 

 

 

 

 真っ白で、ひらひらのフリルがたくさんついているエプロン。腰の後ろで結ぶひもはレースで縁取られ、胸元にも同じもので出来たリボンが可愛らしく付いていた。

 少しでも汚すことを躊躇われる、実用性のなさそうなそれを。普通の人間が身につけていたら、完全に浮いてしまうのだろう。けれど、さらりと着こなしてしまう人物は、目を合わせると恥ずかしそうに俯いた。初めて見た彼女のその顔に驚きながら、きれいな白い手が差し出すグラスを受け取る。

「・・・ベリルの悪ふざけか、これは。何故付き合ってる・・・?」

 階下に下りるなり、蒼羽が驚いた声で口を開いた。

 それを向けられたアルジェはただ黙ってお盆に載ったグラスや皿をテーブルに載せ、唖然として彼女を見続ける自分から目線を外していた。

「え、っと・・・アルジェさん、すっごい可愛いけど、でも、なんか・・・」

「ねー?可愛いよねぇ? 緋天ちゃんもこういうの欲しい? 蒼羽に買ってもらうといいよ」

 にこにこと笑うベリルのご機嫌は、出迎えてくれたばかりの彼よりも、更に増している。客として招かれたアルジェが、ベリルを手伝う為にエプロンを持参することは有り得る。けれど到底実用的とは言えないそんなものを、彼女が持ってくるとはとても考えられなかったので。だから、ものすごい違和感が押し寄せたのだ。

「サー・クロムっ、全部運び終えました!!」

 いつも、冷静な彼女が。

 声を上げて、アルジェの背後に立ったベリルを振り仰ぐ。彼に振り回されている、としか判断できなかった。ベリルの用意したと思われるものを身につけ、彼を手伝い、そしてその状態にいつもは落ち着いている彼女が色んな表情を見せるから。

「ご苦労様。じゃ、食べようか」

 どうやらアルジェは、ベリルと同じ様に冗談を楽しんで一緒に何か悪戯をするような、身近で言えばそんな人物はフェンネルだったりするが、とにかくそういう気分にはなれないらしい。困惑と怒りの混じった様子の彼女、そんな事は歯牙にもかけない、といった顔のベリルがにこやかに。アルジェの細い肩に後ろから両手を置いて座らせた。

「っっ・・・」

 そうされたアルジェの方はと言えば、白い頬に少し赤みが差していて。彼のように見目麗しい男性にそうされれば、誰でも赤くなってしまうと思う。事実、先程自分もベリルに下から覗き込まれて、彼の言葉を聞き入れていたのだから。

 けれど、アルジェはそんな自分とは違って、ベリルと並んでいると、まるで映画に出てくる皇族のよう。

 美形の二人が並んでいる光景を見て、思わずうっとりと眺めてしまった。例え、アルジェが不本意そうな表情をしていても、彼女にそのエプロンが似合っているという事実は否めないから。まるで、アルジェに合わせたように真っ白いカッターシャツと黒いギャルソンエプロンを身に着けるベリルも、とても素敵に見えるから。

「・・・天。緋天?」

「っひゃ!?」

 右耳に柔らかな感触と、低い声がじかに響く。

 隣に座る蒼羽が右手に持ったグラスを取上げてテーブルに置いた。

「こぼしそうだ。・・・そんなに驚いたか?」

 アルジェの様子、それから彼が自分にかけた呼び声。蒼羽が両方を指してそう訊ねているのだと判って、とにかく頷く。くすくすとベリルに笑われ、頬に熱が上った。自分が彼らに見とれていた事も、ベリルは絶対に悟っている。アルジェのエプロンを少し羨ましいと思ったのも、きっと判っているだろう。

「熱いうちに食べてね、チーズ固まっちゃうから」

 ベリルの差し出す皿を蒼羽が受け取って、そこからきれいな二等辺三角形に切られたピザを手渡してくれた。

「わー・・・えっと手を合わせられないからこのままで・・・いただきますっ」

 既に自分の合図を待たないシンが美味しそうに頬張っていたそれ。湯気の立つ三角形は、彩り良く盛られた野菜とチーズでいっぱいで。見るからに食欲をそそるそれを幸せ気分で口に入れた。

「はい、いただきまーす。緋天ちゃんチーズ好きだもんね〜?いっぱい食べてよ」

 隣の蒼羽と、目の前のベリルが自分に続いて食べ始める。それなのに、斜め前のアルジェは困ったように皿を見ていた。

「・・・あっ、そうか・・・フォークとナイフ要るかな」

 伸びたチーズをつまんで口に入れているところで、ベリルがそう言って立ち上がった。もしかして、ピザという食べ物を見たのは初めてなのかもしれない。アルジェには、手づかみで食べる自分が行儀悪く映っていたのかも。

「いえっ、大丈夫ですっ。食べれますから!」

 立ったベリルを制して、アルジェは皿の上に指を伸ばした。それをにっこりと見て笑うベリル。何となく、彼のその笑顔に善からぬものを一瞬感じたのだが、すぐに気のせいだと思い直した。いくら楽しいことが大好きなベリルとはいえ、自分やシンをからかうようにアルジェを扱いはしないだろう、と。

「緋天、落ちる」

 いかにも慣れていないという様子でピザを手に取ったアルジェだったが、美しい指先で縦に折りたたみきれいに口に入れる。それに見とれていると横から蒼羽の手が伸びてきて、傾いて具をこぼしそうになっていたこちらの手元を掴んだ。

「・・・っ」

 実際にひとかけら落ちたべーコンをキャッチした蒼羽がそれを口に入れて。慌てた自分に器用にピザを持たせ。続いて左手の親指についたソースを舐める。その仕草がやけに艶かしくて、ひとり恥ずかしさに襲われていると、彼の手は止まらずに、こちらの指についたそれまで舐めてきた。

「うっわ。蒼羽やっらしー」

 温かな蒼羽の舌の感触が走らせる電気。アルジェはこちらを見ないように目を逸らすが、ベリルは軽く言い放つ。黙っていられたら余計に恥ずかしかったので、ベリルの対応はむしろ有難かった。

「何が?何してんの?」

「ななな何でもないよっ」

 もくもくと食事に(いそ)しんでいたシンがその声に顔を上げて、無邪気な表情で口を開いた。冗談で済ますことは有難かったのに、シンがいる事を失念していた。大人の仕事をこなすが、彼はまだ12歳。何をしていたかなんて知られる訳にはいかない。もちろん、自分が蒼羽の行為にどんな感覚に陥っていたかも。

「ふーん。どうでもいいけど、お前、慌てすぎだろ、ソレ」

「そ、そんなことないって!ねっ、蒼羽さん!?」

「・・・そうだな。シン、お前は黙って食べてろ」

 急いで隣で艶を放つ蒼羽を見上げる。くすりと意地悪く笑う彼は、それでもシンの気を逸らしてくれた。

「いいよ、もう。緋天の分まで食ってやるから」

 何となく、彼の機嫌はベリルと相反して悪い気がする。

 

 今日は、何かがヘンだ。

 アルジェが客としてここで昼食を摂るならば、同じ様に誘われそうなフェンネルや、おまけにいつもの昼食時には顔を見せる門番がいないのも。ベリルが上機嫌でアルジェを扱い、それに大人しく従ういつもとは違う彼女も。

 

 何となく。

 それが重なる違和感が、右側の蒼羽を見上げるという行動になった。彼は穏やかな顔で二つ目のピザを口に入れながら、どうした? と優しく自分を流し見る。

その目線にどきりとしながら、蒼羽が何も思わないなら、別に気にするほどの事ではないのだろう、とようやく安心を得る。

 

手の中の、まだ暖かいそれを頬張った。舌の上で、存分にベリルの腕の確かさを示す。

そこで。

違和感の正体に気付いた。

この上なく楽しそうなベリル、逆に不機嫌なシン、冷静ではないアルジェ。

 

蒼羽と自分を取り巻く世界は、これ以上ないほど。

平和だった。

 

 

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