トリスティンの白珠姫 6
「過去夢だ」
そう呟いたのはベリル。薄い緑のシャツを身につけた彼は、珍しく乱暴にどさりと音を立てて、背中をソファに預けた。
ただ、夢を見ただけ。それだけの事。
そんな風に片付けられない、そうすることのできないものだ、と。どこかで判っていたから、確かめたかった。夢が現実にあったものだったのかどうか。
「緋天ちゃん」
ベリルと同じ響きでそう自分を呼んで、エレクトラムが微笑を浮かべる。彼も、ベリルも。夢の内容を話した自分に、明確な答えをまだ与えてくれない。
「・・・紹介してあげたかった。彼は三年前に亡くなってしまったんだよ」
「え・・・」
彼、と示されたのが、車椅子の老人だという事に気付いた。ただ、その声音はとても優しくて、良い亡くなり方をしたのだと感じる。蒼羽の両親のような、やるせない想いを置いていく、そんな悲しいものではなく。
「うん、緋天ちゃんと同じことが出来た人なんだ。常人には見えないものを見る事ができたし、見るだけじゃなくて、不思議なこともやってみせた」
同じこと、というのは、知らない現実を夢に見ることなのだろうか。エレクトラムの口調は、それは一端にすぎず、もっと大きな存在を褒め称えているかのようだった。
「緋天」
左からかけられた声は、怖いのか、と心配そうに問いかけている。冷たくなっていた指先を、蒼羽が包み込んでいて。
「見に行くか?」
過去を覗いてしまったことを、怖いと感じてはいない。亡くなったはずの老人と言葉を交わしたことも。ただ、自分にそれが出来た意味がわからないから。
「あ、いいね。行っておいで。そしたら少しはすっきりするかもしれない」
「あの、でも・・・」
「信じてないのは、緋天ちゃんの方だよ。私達は、確かにあの場所にいた」
ソファに体を預けていたベリルが、上体を起こしてそう言う。
「私が大叔父様、なんて呼んでいたのは一人しかいないんだ。あの時、何かと話していた彼をこの目で見てる」
彼の言葉に、自分の話が真実である、と受け入れられた事を知った。横で頷くエレクトラムも同じ意見らしい。
「君が見たのは、過去にあった現実だ」
認めろ、と言われているようだった。彼らの言うように、確かにあの夢で、自分は過去を見たのだろうと思う。それは判っているのに。ただの偶然で済ませてくれればいいのに。
「・・・っ」
蒼羽に縋りたくて左を仰ぐと、彼はこちらの頭を抱え込む。
「緋天。・・・いいんだ、大丈夫だから」
穏やかに発せられたそれは、頭の上から直に響いて肌にしみこんだ。わけの分からない感覚に支配されて、彼のその優しい声に思いがけず涙腺が緩む。
「ああ・・・緋天ちゃん、ごめんね。脅かすつもりはないんだ」
つい先程聞いた、きっぱりとした断定的な口調ではなく。それまで発していた柔らかな音で、どこか困ったようなエレクトラムの声が耳に届いた。こんなところで涙を流してしまったら、さぞ心配されるだろう、と焦り、急いで蒼羽の首元から顔を離す。
「大丈夫、です。お庭、見せてもらってもいいですか・・・?」
「うん。いいんだよ、自由にして。ここは君の家でもあるからね」
青い目が細められて、優しい視線が向けられていた。
蒼羽と、自分に対して。
「蒼羽の大事な人だから。蒼羽をこんな風に笑顔にしてくれた事に、とても感謝しているんだ。ありがとう」
「っあの、いえ、そんなこと、・・・」
自分の父親よりも更に年上の彼に頭を下げられて。うろたえる自分を見て、隣からくすりと笑う音が聞こえた。続けてベリルとエレクトラムの笑い声も。
「じゃあ行っておいで。ああ、お昼には子供達に付き合ってやって」
「あ、はい」
恥ずかしさに頬を押さえながら、蒼羽に促され立ち上がる。
慌しく返事をして、彼らを残して部屋を出た。歓迎されていることは確かなようで、それにようやく肩の力が抜けた気がする。
「上着。取りに戻るぞ」
差し出された蒼羽の左手。なんだかそれがとても嬉しくて。
「うん。あのね?今日はね」
クリスマスイヴだ、と言うのは部屋に戻ってからにしよう、と。怪訝そうな蒼羽の手に摑まって、柔らかな絨毯の上で足を踏み出した。
「驚いたな。あんなに・・・」
閉ざされた扉を見やって、父がぼそりと呟く。
「あんなに? 蒼羽があんな風に接してることですか? それとも緋天ちゃんが?」
「両方だ。それにしても、あの子は敏感すぎる。蒼羽が傍にいなければそのまま消えそうだ」
眉をしかめてそう言い放った父に、苦笑がもれる。
確かに彼女は周りの気配に敏感なのかもしれない。特にこうやって他人の家にいて、初対面の人間に稀少だと崇められたのだから。余計に不安が募ったのだろう。
「大丈夫ですよ。緋天ちゃんは意外としっかりしているんです。父上が知らないだけで」
「・・・なんだか仲間外れにしていないか? 午後にはオーキッドのところに行くんだろうなぁ。報告はいらないか・・・」
不満そうにこちらを睨んでから、彼は自分から叔父に話したいのだと思う、がっかりした様子を見せて、冷めたお茶を口に含む。
「ベリル、おいおいどこかから夢見か呪術師を呼ぶようになるだろうから、手配だけはしておけ」
「はい、それは承知してます。前々から蒼羽に言われてますしね」
「なっ!? はじめてだと言っていたじゃないか!?」
驚愕を通り越して、奇異なものでも見るように。父が音を立ててカップを皿に置いて、扉を指し示した。先程去っていった蒼羽と緋天を示しているのだと判ったが、その慌てぶりが珍しくて、ついつい笑ってしまう。
「ええ、こんな夢を、過去夢を見たのは初めてでしょう。ただ、シュイの一件が落ち着いた頃に、蒼羽が言い出したんですよ。緋天ちゃんが蒼羽の鍵を使った後、すぐに眠りに落ちていたから。我々と力の使い方が違うんじゃないかと」
それを口にした時の蒼羽は、妙に困惑した顔で、彼も半信半疑だった。
今日の一件で、ある程度の仮説が立てられているはず。
「まあ、あの頃は緋天ちゃん自身、慢性的な寝不足でしたから。一概にそうとも言えないんですけどもね」
父にそう伝えながら、センターの蒼羽の部屋で眠りについていた彼女を思い出す。シュイに追われ、慣れない事をして、それから精神的にも疲れたから。だから、あのソファで眠ってしまったのだろう、と考える方が自然だった。
それなのに、蒼羽が感じた違和感を信じてしまう自分がいる。
「・・・父上も、どこか当たって下さいませんか。結局会わせなきゃいけないなら、緋天ちゃんが馴染みやすい人間がいい」
「ああ、それは構わないが・・・お前も何か柔らかくなったように思えるのは気のせいか?」
冷めたお茶を捨て、暖かいものを淹れなおそうと立ち上がったところに。
そんな言葉がかかる。含み笑い付きで。
「元からですよ。・・・今夜あたり、その原因をご紹介できるかと思いますが」
「お前のリストを見て薄々気付いてはいたがね。面倒なことになるぞ」
にやりと笑って、その面倒なことを楽しんでいるような顔をする。父の言うリストというのは、明日のパーティーの招待客の一覧。家からのものではなく、自分が出したもの。
「ようやく次男も身を固める気になったか。リラが喜ぶぞ」
先走る父に、なんと言えばいいのか。
実はまだ、彼女本人を手に入れていないと言ったら、絶対に笑われるだろう、と。それを思い、何気ない仕草で彼の分だけ新しいお茶を淹れる。すぐに退出できるように。
「・・・明日は手を出さないで下さい。少々、ややこしい事になっていますので」
「コーディアならともかく。何故30を過ぎた息子の色恋沙汰に手を出さなければならん。美しく片付けろ」
乱暴に言いながらも、父が厄介事を気にしているのは判った。
カップを差し出し、承知の意を告げる。
「我が家の名前は、存分に使わせて頂きますが」
「当たり前だ。こんな時にしか使いようがない。大仰に見せびらかしてしまえ」
ふ、と意地悪く笑う彼を見て、間違いなく自分の父親なのだ、とそれを実感した。
「蒼羽さん、蒼羽さん、雪がいっぱい」
晴れ間がのぞいていた。降り積もった雪を反射して、それが視界を狭めさせる。
つないでいた手をあっけなく離して、小走りの緋天が庭の雪の中に到達して嬉しそうな声を上げた。誰にも踏まれていないその上を、音を立てて歩くのが楽しいらしい。
「転ぶぞ」
「大丈夫〜」
緋天の住んでいる地域には、めったに雪が降らない。11月も半ばを過ぎたころ、初雪が舞ってからこちら側は雪ばかりだ。ベースの周囲に積もった雪を集めて、緋天が遊んでいるのを幾度も目にしていたが、未だに飽きていない様子。
風邪をひくからと、その度に強制的に部屋の中へと引き上げさせた事が、反動になったのだろうか。最近は自分がいない時を見計らって、ベリルやシンと庭で遊ぶということを覚えてしまった。
「・・・蒼羽様、始めてもよろしいでしょうか?」
無邪気に喜ぶ彼女に驚いて、雪に埋まった石畳を出す仕事をするはずの男が、躊躇いがちに口を開く。
「少し待ってろ・・・緋天、その辺は融けるからこっちに置いとけ」
小さな雪玉を転がし始めた緋天を捕まえて、雪を融かす石畳の周辺から、彼女にとっては大事なそれを避難させる。少々不満そうな緋天の頬は既に冷たくなり始めているのに。
機嫌を損ねたくなくて、緋天の代わりに雪玉を移動させた。日の当たらない回廊の影まで転がして、膝の高さまで成長したそれを止めておく。
「続きは後だ。いいぞ、融かしてくれ」
本来の目的を思い出したのか、それとも他人がいる事を思い出したのか、大人しくなった緋天を連れてベンチに座る。緩みかけたマフラーを首の後ろで結んでやると、ようやく雪の中から湯気が立ち上り始めた。
「わ・・・すごい・・・」
普通に雪の上を歩いていたら、植樹した木まで辿り着くのに時間がかかってしまう。自分にとっては大した労力ではないが、緋天には重労働。庭の中に廻らされた石畳の道を出す事で、それは解消されるのだから、使わない方が愚かなのだ。どうせ明日に備えて庭を整えるのだから、手間は同じだと使用人を借り出した。
「緋天様、どうぞ。滑りやすくなっておりますのでご注意下さいませ」
「はい、ありがとうございます」
頭を下げる彼らに、またしてもルールを理解しきれていない彼女が同じように頭を下げる。慌てる男達を見て気付いたようなのだが、嬉しそうに笑っている緋天を見て、何かを言う事は憚られた。多分、緋天のしたいようにさせるのが、一番いいのだろうと思う。
事実、礼を言われた使用人は好意の目を緋天に向けている。
「・・・っ!?」
主への敬意、それ以外の感情を持たないように、緋天の唇を塞いでみせた。触れるだけではあるが、これで充分であるはず。
彼らが視線を反らせたのを認めてから、頬を染めた緋天を抱き上げて、庭の奥へと進む。
降ろしてくれ、と少し暴れる彼女を抱きしめるのが、楽しくて仕方がなかった。
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