トリスティンの白珠姫 5
部屋に入って、緋天を抱き上げる。
本当は、彼女を見つけた瞬間からそれをしたかったのだけれど。そうすれば人目を気にするのは判っていた。だから、我慢していたのだ。抵抗しない緋天をソファまで運び、膝の上に乗せて、気まずそうに俯くその頬に右手を当てた。
「緋天」
「・・・怒ってない?」
「怒ってない」
小さな声でそう言って。自分の出した答えに、ほんのりと微笑む彼女を。抱きしめて、ようやく安堵した。どこに行ってしまったのだろうかと、心臓が嫌な速度で動いていた時間は、耐え難い苦痛だった。緋天が部屋を出たのは、まだ早い時間だから目を覚まさないはずだ、と思い込んだ自分が原因だったから。怒ることなど到底できない。
瞼に唇を落とすと、緋天が吐息をもらす。そのまま首元に頬を押し当てる彼女が満足するまでは、抱きしめて髪を梳くことで衝動をやり過ごして。
「・・・ん、っ」
今日初めての、柔らかな感触を貪ると、途端に細い指がこちらの服を掴む。唇を離してもそれは変わらず、たまらなく甘いものに侵された。
「蒼羽様、あの、お食事の支度ができました」
遠慮がちに発せられたのは、サントリナの声。すぐ傍で、彼女はテーブルの上を整えていたのだ。それなのに、緋天がキスに応じたのは大きな進歩だ、と妙なところで喜びを感じて。
「緋天、ほら」
かけられた声に頬を染めた緋天を膝から降ろす。そんな彼女を柔らかな笑みで見守るサントリナに驚いたが、それは無視して緋天を椅子に座らせた。そこを見計らったように、部屋に入ってきた給仕の男。黙ってポットからお茶を注ぐ男を見る緋天は、どこか怯えているようにも見えて。
「・・・サントリナ」
「はい。今日は私が」
目線を彼女に走らせると、既に察してくれたようで、声には出さずに男を下がらせていた。
「緋天様、冷めないうちにどうぞ」
「あ、はい」
緋天の困惑した視線を受け止めて、大丈夫だと頷いてやる。
「いただきます」
おずおずとカップに手を伸ばして口をつける緋天の顔色は、良好だと思う。昨夜、無理に起こさずに寝かせておいたのが良かったのかもしれない。
「お口に合いますでしょうか?」
口元を綻ばせて頷いた緋天に、サントリナもほっとしたように微笑む。
この家に来て、緊張し続けているのにも関わらず、何故、ベリルの父親に会うことを自分から言い出したか。それを緋天の義務感だけで片付けていいのだろうか、と疑問に思う。
「・・・蒼羽さん」
「ん?」
大人しく食事に手を付け始めていた彼女が、ふいに口を開いて。
「あのね、蒼羽さんが赤ちゃんの時にね?・・・記念に植樹、みたいな事した?」
「ああ・・・誰かに聞いたのか?」
確かに、自分の為に植えられた木が存在している。首を振って否定する緋天は、言いにくそうに続きを口にした。
「・・・夢で見たの。ベリルさんと、多分ベリルさんのお父さんと、オーキッドさん。あと、ウィ、蒼羽さんのお父さん」
父親の名前を、緋天が口にしかけて言い直す。緋天にとって、父はウィスタリアという人間である、と気付いて。彼女の中でも時間は止まっているのだ。妙な気分になった。
「それから」
植樹した当時の様子など、自分も知らない。緋天が言う中で、一度も面識のないベリルの父親をどうやって判別したのだろう。夢とは言っても、そのメンバーはあまりにも現実味を帯びていた。
「・・・それから、車椅子のおじいさん」
かちゃり、と。
食器の触れ合う音がする。それを発したのはサントリナ。見なくても判る、きっと驚いた表情を浮かべているのだろう。ベリルの父親どころではない、緋天が口にしたのは、本来ならその存在すら知りえないはずの、故人。
「蒼羽様・・・はじめてですか?」
沈黙を破って問われたそれに頷く。彼女が言いたいのは、ここで下手に騒いで緋天を脅かすのはやめよう、とそういう事だ。
「では・・・緋天様、詳しい事はエレクトラム様にお聞き下さればよろしいかと」
「ベリルの父親だ。あとで会うだろう? この事を聞こうとしてたのか?」
確信を得ながらもそう聞いて。緋天が困ったように頷いたのを目にした。
それきり口を噤んだ彼女は、静かに目の前の朝食をとる事に専念する。きっと緋天は気付いてしまったのだろう。普段見るような普通の夢ではなかったという事が、自分達の態度で確定したから。
怖がっている様子はないが、どこか不安そうで。
今回限りで済まないだろう、とそう思った。
「あれ? なんか元気ないね、緋天ちゃん」
蒼羽に手を引かれ、辿り着いた部屋の扉は両開きの大きなもの。
それが内側から開いたと思ったら、笑顔のベリルが扉に手をかけ立っていた。迎えてくれた事に嬉しくなったのは確かだけれど、どういう訳か笑みを返せない。
右に立つ蒼羽と、ベリルの間で。視線が交わされ、自分の判らないところで小さな会話がなされていた。
「ベリル。いつまでそこを塞いでいるつもりだ?」
扉の奥から聞こえた声に、ベリルが苦笑する。
それから彼は身を引いて。扉を支えて部屋の中を指し示した。
「いらっしゃい、緋天ちゃん」
見えたのは、蒼羽の部屋のリビングを更に大きくしたような広い空間。
部屋の中央のソファには、色とりどりの人々。そう言い表すしかない、それぞれ違う色の衣服を身に纏った美男美女が座っていた。
声をかけて微笑んだのは、薄い赤茶のような不思議な色合いのシャツを着た男性。浮かべる笑顔はベリルよりも野生的で、金の髪も色味が強い。けれど、ベリルの兄弟であるということが良く判る。
「サンスパングルへようこそ。私は長男のアンダルと申します」
胸に手を当てて、腰を折って。目の前で、彼が丁寧な挨拶をしてくれる。この手の挨拶は、使用人にはしない、と昨夜蒼羽に教えてもらったのだ。歓迎してくれているのは、その笑顔で感じていたけれど。
「じゃあ、上から順に。ヴィオランは会ってるね?」
右手をひらひらと振る、ヴィオランを見つける。にっこりと笑う彼女を見てから、アンダルが自分の反応を待っていた。遅まきながらそれに気付いて、頬に熱が集まる。
「ヴィオランの下は、君もよく知ってるベリル」
くすり、と。小さな笑い声をこぼして、彼は背後のベリルをちらりと見る。
「その次がエルバ。普段は我が家の仕事をしてる方が多いな」
「よろしくね、白珠姫」
す、と流れるような動きで立ち上がった男性は、薄い金色の髪。アンダルと同じように頭を下げて、柔らかく笑う。その声は随分と優しく響いて、何だかくすぐったかった。彼の言うそれが自分に向けられていて、その意味を問おうと蒼羽を見上げると、間を置かずにアンダルの声が続いた。
「で、次がヘリオドール。この兄弟の中で何故か一人だけ大人しい」
笑いながらそう言われて、エルバと同じ色の、長い髪の女性がゆっくり立ち上がる。
「お会いできるのをずっと楽しみにしてましたの。コーディアと仲良くしてあげて下さいな」
ふわりと微笑んだ彼女は、アルジェと同じ種類の美しい仕草で膝を折り、その横で腰を浮かせていた女の子を指し示した。
「最後、そこでそわそわしてるのがコーディア。甘やかされて育った末っ子だから、あんまり相手にしないようにね」
「アンダル兄様ひどい!! 緋天ちゃん、よろしくね! さっそくだけど、今日部屋で遊ぼう!!」
おそらく自分より年下だろうと思われる彼女が、勢いよく立ち上がってアンダルに向かって叫ぶ。そして、眉をしかめていたその顔を消して、満面の笑みを浮かべて自分に向かった。
「あの、」
「コーディア、座りなさい。そんな風にいきなり言ったら緋天ちゃんもびっくりするよ」
入り口に背を向けるソファ。そこに座っていた男性が立ち上がる。
その隣の、髪をきれいに結い上げた女性も一緒に立って。
「あ・・・」
「ようこそ白珠姫」
二人揃って微笑んで。夢で見た彼よりも、年を重ねたその姿。
「・・・あの、・・・初めまして、河野緋天です。よろしくお願いします」
間違ってはいなかった、と確信を得ながら、ベリルの両親に頭を下げた。思わず夢の事を話しそうになったけれど、そんな事を唐突に言っても笑われるだけだろう、と。
「父のエレクトラムと、母のリラ。さて、こっちにおいで。そんなに緊張しないで」
アンダルに導かれて、ソファへ移動する。横の蒼羽が励ますように髪を撫でた。
それにほっとして、彼を見ると笑みを返してくれるので、ようやく肩の力が抜けていく。
「うわ、すっごい笑顔」
「でしょ? ね、別人でしょ?」
笑いながら口を開いたのは、先ほども親しげに話しかけてくれたコーディア。アンダルと同じ色味の強い金髪が、彼女の肩の上でさらさらと揺れる。それに同調して、得意げに皆を見回すヴィオランは、嬉しそうで。
彼女達が、何を指してそう言うのか。それが判って、隣の蒼羽をまた見上げる。
「蒼羽、それで結婚式はいつ?」
「えっ!?」
「緋天はまだそこまで考えてないから」
にこにことしながらそう口にしたのは、ベリルの母親。驚いた自分に微笑んで、蒼羽がすかさず否定する。左の薬指に収まった指輪を、急に意識してしまった。彼の右手がそっとそこを撫でるので、余計に。
多少の違いはあれど、金髪の家族の中で彼女だけが、薄茶の髪を持っていた。長男のアンダルの年齢を考えると、自分の両親よりも上だとは思うけれど、少女のように手を合わせるその様子はとても可愛らしい。
「あら、そうなの・・・残念だわ、ね、あなた」
「ああ、まぁそんなに急ぐことはないよ。今の状態でも奇跡なんだから」
「そうよねぇ、ぶっちゃけアリエナイ事が起きてるわよねぇ」
「うん、ほんと驚いた。こんな嬉しそうな蒼羽初めて見た」
「ねーねー、緋天ちゃん、後であたしの部屋に来てー」
「コーディアちゃん、そのお話は後にしたら? 緋天様が困ってるわよ」
「おーい、お茶まだ? あ、緋天ちゃんは何飲む?」
口々に色んな事を言い始めた彼らの、その言葉を拾うだけで大変だった。
「もう、みんな好き放題言わないでよ。緋天ちゃん、大丈夫?」
ベリルのかけた言葉にようやく頷く事ができて、それと同時に、いつになったら夢の話を切り出せるだろうか、と不安になった。
「父上。緋天ちゃんが何か聞きたい事あるみたい」
「そうか。じゃあ皆、緋天ちゃんが落ち着かないようだから、取り囲むのは昼食の時にしてあげてくれ」
「えー? つまんない・・・」
一人だけ不満の声を上げたコーディア以外は、全員がさっと立ち上がって。
それぞれ笑顔を見せて部屋を出て行った。それを見て、眉をしかめた彼女もしぶしぶといった様子で立ち上がる。
残ったのは、ベリルと、彼の父親。
優しく微笑むエレクトラムの顔を見て、口を開いた。
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