トリスティンの白珠姫 4

 

 手元で蒸気を上げるアイロン。右から左へとそれを動かして、まだ皺の残るテーブルクロスを甦らせる。この作業は美しいものを作り上げていくようで、とても好きだ。ぱりっとした布をたたんで積み上げた時に、自分の腕を誇りに思う。

「おーい、忙しいところ悪いけど、誰か手ぇ貸してくんねーか?」

 15分ほど前に、手を止めて新入りの女の子に、この家の主の呼び名を教えていたものだから。ほんの少しだけ遅れた作業を、予定通りの進行へ戻すため、全員が手元に集中していた。そこへ声をかけられたので、驚いてアイロンを余分に滑らしそうだった。

「何? 本当に私達忙しいんだけどね」

 入り口のすぐ傍で、タオルを揃えていた仲間が言う。壁に手をかけて立っていたのは、給仕の男の一人だった。少し息を切らせているので、緊急の用件だろうか。

 

「黒樹の坊の姫がいなくなったんだとよ。昨日の晩にお帰りになってたらしいんだ。で、ちょっと部屋を抜けてる間に、お嬢さんが消えてたって」

 

「え! 黒樹様の姫って言ったらあの・・・」

 彼の言葉は予想以上に自分達を驚かせる。声を上げた仲間が言う通り、この家の主の一人でありながら、異彩を放つ蒼羽。実際に血がつながっているわけではないので、他の子供達と違うのは当たり前なのだけれど、彼の空気はそれ以前の問題だった。

 どの使用人も、彼に対しては畏れのような感覚を抱いていたのだ。けれど、半年ほど前の初夏。誰に対しても関心を示さないのだろうと思われていた彼が、恋人を手に入れたという話が伝わって。屋敷中を喜ばせた。

 街で彼を見かけた者は、口を揃えて言う。彼が変わった、柔らかくなった、と。

 

「緑樹様が言うには、どこかで迷っているんじゃないかって。とにかく黒樹の坊ちゃんが血相変えて探してるもんだから、上が大騒ぎでさ。こっちの方もちょっと見回ってくれよ」

 給仕が続けて言うそれが、事の大きさを物語っている。

 そもそも蒼羽が表情を変えるなど、滅多に見られないことなのに、説明する彼の勢いからしたら本当の事のようで。彼自身、信じられないものを見たというような口ぶり。

「お嬢さんの背格好は?」

「青珠の嬢ちゃんと同じくらいの背で、髪は黒だったかな。あの坊ちゃんを射止めるくらいだから、さぞかし目立つだろう」

「あ、でも、祭で見たやつは、綺麗と言うより可愛らしい感じだって言ってたよ」

 もう完全に手を止めてしまう。

 確かに自分達の仕事も急がなければならないが、明らかに重要度はこちらの方が上だ。新しい家族として迎える主が、心細い思いで近くを彷徨っているかもしれないのだから。皆心配そうな顔をして、そわそわと今にも動こうとする。

 

「じゃあ、よろしくな。何かあったら、上にいるサントリナさんか、坊ちゃん方に知らせてくれ」

「ちょい待ち! 姫のお名前は?」

 他にも知らせて回るのだろう。踵を返した彼に、肝心の蒼羽のお相手の名を聞く。

 振り返った給仕は、うっかりしていた事を謝り、口を開いた。

「お、悪い。ヒテン様ってお名前だ」

「ヒテン様ね、了解、この辺は探しとくよ」

 仲間と目線を合わせて頷きあう。

 大事な主の賓客だ。見回る方向を決めて、それぞれ持ち場を離れる。

 そういえば、新入りの女の子に蒼羽の呼び名を教えるのを忘れていたな、と思い出して。後でしっかり教えてやらなければ、と心に留め置いた。

 

 

 

 

「メース!」

 まだ早い時間だったが、細々とした雑用を片付けていたら、主の厳しい呼び声を聞いた。予報士代行として仕事を預けた人間の様子を見に行くと言い置いた蒼羽を見送ったのは、つい先ほどの事だと思っていたのだが。彼が出かけてから一時間は経過したのだと気付いて、今日の忙しさをそっと嘆く。

眉をしかめて近付いてくる主は、どこか不安げな表情で。

「緋天を見ていないか? 部屋にいないんだ」

「いえ、お見かけしておりませんが・・・他の者には?」

「サントリナに確認させてる。ベリル!」

 こんなに感情を面に出す彼は初めて見た。落ち着かない様子を見せて、ホールを通りかかったベリルを呼び止める。

「緋天がいない。お前のところに行ってないか?」

「え!? 来てないよ、部屋にいないの?」

 困惑した顔で彼は辺りを見回した。

「もしかして・・・蒼羽を探して外に出たんじゃない? それで、どこかで迷ってる可能性大」

「・・・っ」

 屋敷は広い。彼女が迷う可能性は確かにあった。昨晩の様子を見る限り、自分から誰かに案内を命じるような事もなさそうだから。ベリルの子供を叱るような声音に、蒼羽は何も言い返さない。

「坊ちゃま方。とにかく、私は皆に知らせますので。どこかで迷っていらっしゃるなら、早く見つけて差し上げないと」

 

頷くベリルを確認して、彼らに背を向けてから、あれこれと屋敷内に指示を下して。東翼からは出ていない事を祈りながら、地下で働く妻にも伝えておこう、と温室を目指す。

 

 目の前が真っ白になった。

 自分のいる、この廊下の先。よろよろと何かを抱えて歩くのは、目下のところ、主が必死で探している相手。

「・・・ひ、緋天様!!」

「え・・・?」

 彼女が懸命に運んでいるものが、洗濯物を満載したカゴである、と。それが判った瞬間に、軽く眩暈が襲う。そんなことを彼女がする理由が思いつかない。そもそも彼女が一生触れることすらなかったはずのもの。

「あ、メースさん。おはようございます」

 細い腕で運ぶことは容易でないと。重そうにそれを一旦降ろした様子を見て悟った。丁寧に頭を下げる彼女は、またしてもその立場を理解しきれていないようで。

「緋天様!! そのようなことを・・・いえ、それよりも何故こちらに!? 蒼羽様がお探しして」

「あっ、そうなんです! 蒼羽さん、どこにいるかご存知ですか?」

 困ったように笑う彼女は、蒼羽の名前を出した瞬間、顔を輝かせた。

 彼女を連れて戻るより、捜索の終了を伝えて主を連れてきた方が良いだろうと判断する。

「緋天様、すぐに蒼羽様にお知らせしますので!お動きにならずこちらでお待ち下さいませ」

 頭を下げて走り出した。

蒼羽が今の緋天の行動を知ったら。怒るだろうか、と不安になりながら。

 

 

 

 

「・・・どういう事だ?」

 これ以上はない程。

 眉根を寄せて、低い声で蒼羽が言い放ったその言葉に。

「っっ、先ほどはこちらに!」

 いつもは落ち着いているメースが珍しく焦った声で返答し、床の石材を鳴らして数歩先へ走った。

「・・・え、見つけたのってここ・・・?」

声をひそめて、仲間達が囁きあう。捜索中の蒼羽の恋人を見つけたと主を連れ出したメースにより、彼女を探そうと動いていた人間が、この場に集まりつつある。自分達はただ、持ち場に戻ろうとしていただけなのだが、メースの言葉からすると、この付近で彼女を見つけたようで。

「もういい。緋天・・・緋天!」

 ざわつく使用人達の間を縫って、蒼羽が先へ進んだ。口に出すのは、恋人の名前。苛ついているように見えるが、彼女を呼ぶその瞬間はとても心配そうに目を細める。

「緋天!!」

 彼が足を進めるのは、物干し場の方向。そこには仕事仲間であるメースの妻がいるはずだが、彼女には蒼羽の恋人のことは伝えていなかった。曲がり角の向こうから、ひとつの足音が聞こえる。

「蒼羽さんっ」

 小さな声と、早くなる足音。聞こえたそれに蒼羽が反応して。

「緋天」

 ふわりと舞う黒髪。角から現れた人物を抱きとめるように蒼羽が腕を伸ばした。周りの使用人は皆、主が抱きしめる相手を少しでも早く見ようと身を乗り出す。

「あっっ!!」

 自分の驚き声は、複数の仲間と重なった。

 見覚えのある、紺色のワンピース。それを身に纏った彼女は、新入りの使用人仲間として迎えたはずの女の子。

「何でこんな所にいるんだ?」

 自分達の気持ちが代弁されたのかと思う。本当に、彼女がこの場にいるのは何故だろう。今まで一度も耳にしたことのない、優しい声色を容易く出して、蒼羽が腕の中の彼女に囁く。

「蒼羽さんがどこにいるか、誰かに聞こうとしたの。でも誰もいなくて、ここで人の声がしたから」

「じゃあ何故すぐに戻ってこない?」

「えっと・・・」

 きれいな髪を梳きながら、蒼羽の声は不満そうに問いかける。

 それに対して、戸惑ったように言葉を濁す、主の恋人。

 

 彼の居場所を、彼女は聞かなかった。

 洗濯室の入り口に現れた時、おずおずとした様子の彼女に声をかけたのは自分だ。新入りだと決め付けて、それを否定する間を与えず、用事を言いつけたのは。

「っ申し訳ございません!!」

 一歩前に出て、頭を下げる。とんでもない事をしてしまった、というのは既に認識していた。

「私が緋天様のご所望に気付かず、そればかりか、仕事を押し付けてしまい、」

「あっ、蒼羽さん、違うよ。すっごく忙しそうだったから、ひと段落するまでお手伝いしたかったの」

 言葉を遮ったのは、焦ったような彼女の声。

 一生懸命に蒼羽に説明をする様子に、ただただ驚いた。彼は黙ってそれに頷くだけ。

「・・・ごめんなさい。結局お邪魔してしまったみたいです」

「いえ、そのようなことはっ」

 簡単に謝る彼女に更に申し訳なく思う。とにかく、失礼な事をしたのは間違いなくこちらなのだ。

「・・・緋天がそうしたかったんだから、もういい。忙しいのに悪かったな」

 蒼羽が緋天の手を引いて、上階へと戻ろうとする。

 何も咎めなかったのは、彼女がそれを望んだからだろうか。

「えっと、皆さんご迷惑おかけして申し訳ありませんでしたっ」

 ぺこりと頭を下げて、蒼羽に続く彼女を。誰もがぽかんとした顔で見送る。

 

「あっ、もう緋天ちゃんってば。誰にも言わずに出かけたらダメでしょ」

 階段から聞こえたのは、ベリルの声。苦笑する彼が、緋天の頭に手を伸ばして、蒼羽にそれを阻まれていた。

「ふぁ、ごめんなさい・・・あの、ベリルさん、ベリルさんのお父さんに会うことできますか?」

「うん、それはできるけど・・・何かあった?」

 ベリルがちらりとこちらを、使用人達の集まる方を見て、もしやこの不始末を直接主人に伝えられるのだろうか、と思ったが、彼女は首を振る。

「ちょっと聞きたい事があって・・・」

「ふーん。わかった、じゃあ朝ご飯食べたらおいで。蒼羽、上のリビングね」

 大事な宝物を隠すように、腕の中に彼女を囲った蒼羽が頷く。そんな仕草も、全て。今まで知っていたつもりだった彼とは違う。

「緋天様っ、ご無事でしたか!?」

「はいはい、無事だよー。食事用意してあげて」

 慌てた様子のメイド長が上階から降りてくる。そんな風に焦る彼女も珍しくて。答えるベリルだけがいつも通り。メース、サントリナ、そして蒼羽。めったな事で動じないはずの三人を一度に慌てさせたのは、彼女が初めてではないだろうか。

「・・・あ、はい。緋天様、何かお好きなものはございますか?」

「えーと・・・」

 首を傾げる彼女を、優しく見つめる蒼羽と。その二人を似たような微笑で眺めるベリルとメイド長。

 

 普通の女の子に見えた、この家の新しいお姫様は。

 どうやら、普通ではなかったらしい、と。

 それに気付いて、自然と頭が下がる。周囲にそれが伝染していく。

主に柔らかな笑みを与えてくれた、新しい姫君へ。

静かに忠誠を誓う使用人で、廊下は埋め尽くされた。

 

 

     小説目次     

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送