トリスティンの白珠姫 2
つないでいる緋天の左手。
そこに幾分力が入ったことで、彼女が緊張しているのだと分かった。もっとも、日の落ちた暗闇の中でも、その表情が教えてくれるのだけれど。
ここ数日で、街を白く染めた雪。
ベースから、ベリルの家までは徒歩でも充分行ける。けれど、冬の空気は緋天の体を冷やすことしかしない上に、すっかり積もった雪のせいで、のんびりと夜の街を歩いていくという選択肢は排除した。迎えの馬車を手配して、その移動手段に驚き喜ぶ彼女を連れてきたのはいいものの。
「緋天」
正門を避け、東翼の出入り口を通過したところで、緋天の体はますます固くなる。右手の中の冷たい指先を早く温めてやりたくて、彼女を促した。フロアには人が見当たらず、このまま自分の部屋まで行けるだろうか、と思ったその時、誰かが上階から降りてくる気配。
「蒼羽様、お帰りなさいませ」
「お久しぶりでございます」
こちらに気付いた使用人が、笑みを浮かべて近付いてきた。その後ろには、更にもう一人。どちらも見知った人間だと分かり、ほっとする。
「お湯を入れてくれ」
「かしこまりました」
前に立つ男は、この家を取り仕切る家令の息子。彼の後からやってきたメイド長に、入浴の用意を頼むと嬉しそうに頭を下げた。
「ベリル様より伺っております、緋天様。私は邸の雑事を取りまとめております、メースと申します。こちらは、サントリナ。メイド長です」
「あ、はいっ。お世話になります。よろしくお願いします」
二人揃って礼をする、それに。緋天は膝を折って返事をした。
「・・・緋天」
「緋天様! とんでもありません!」
ベリルやアルジェが、彼女にこちらのマナーを教えていたのは知っていたが。肝心な事を教え忘れていたらしい。使用人である彼らに、膝を折り頭を下げるなど、ありえないことだったのだ。慌てる二人を見て、何か悪いことでもしたのか、と彼女は不安そうにこちらを見上げた。
「緋天。それは外向きのものだ。使用人に対してやらなくてもいい」
「え、あ・・・ごめんなさい」
「お謝りなさらないで下さいませ。私どもは、緋天様の使用人です」
「ご遠慮なさらず、何なりとお命じ下さい」
またしても気付かずに、素直に謝る緋天に。柔らかな笑みを見せたメースが、もう一度頭を下げた。彼女がこういった事に慣れていないと悟ったサントリナも、声音を優しくする。頬を赤くした緋天がようやく頷いた。
「皆様お揃いですが、明日の方がよろしいでしょう」
「ん」
「・・・お帰りになられた事だけお伝え致しますので」
緋天の様子を見て、そう口にするメース。
どうやら緋天のことを好意的に受けてくれたようで。少し緊張のとけた彼女の手を引いて部屋に向かうと、大した用もないはずなのに彼がついてくる。
「ふぁ、すごい・・・」
「お食事はいかがなさいますか?」
「いい。緋天、何か飲むか?」
暖炉に火が入っているのを見て、部屋を目にして驚く緋天をその前へ連れて行く。脱がせたコートをいそいそとハンガーにかける彼に苦笑がもれた。腕の中で首を振る緋天を見て、明らかにがっかりした様子を見せる。
「緋天様、お荷物を。お召し物は・・・」
「あっ、自分でやります」
バスルームに消えていたサントリナが戻ってきて、緋天の荷物から着替えを取り出そうとする。それを止められ、彼女も手持ち無沙汰なのだろう。メースと同じ顔をしていた。
これ以上ここにいられても、緋天が疲れるだけかもしれない。下がるように命じて、扉が閉ざされた音が部屋に響くと、予想通り、彼女の体から力が抜けた。
「・・・蒼羽さん、なんか・・・」
「堅苦しいだろう? 緋天の言いたいことはわかる」
眉を寄せて息を吐いた緋天は、少しだけ首を横に振って。
「ううん。そういうんじゃなくて。なんかね、こういうの慣れないから。メイドさん達も困っちゃうよね」
「偉そうに命令する人間よりも、緋天の方がやりやすいはずだぞ。気にするな」
火にあたって血色の戻った頬をなでる。それでようやく笑みを浮かべた緋天を抱き上げて、浴室まで連れて行った。
「あっ!! お花!!」
湯気を上げるバスタブのその中に。暖色系の花びらが浮かべてあった。甘い香りが漂ってくる。
こんな風にこの部屋の浴室が彩られていたのは、記憶のある限り初めてで。メイド長が気をきかせて、緋天の為に入れてくれたのだろう。思いがけず彼女を喜ばせることができて、サントリナに感謝した。
「入っていいの?」
そわそわとする緋天がたまらなく可愛い。一緒に入るなら、と答えたくなったがそれを抑えた。頷いてやると、小走りに着替えを取りにいき戻ってくる。
目の前で閉じられた浴室のドアが、随分と恨めしく思った。
一本の若木。
成長途中にある、その木の周りに。何人かの男達がいた。
その中に、見覚えのある後姿。あれは、蒼羽だ。そう思って近付いて、名前を呼んだ。
目に鮮やかな緑。広々とした芝生の空間。頬をなでる、心地いい風。振り向いて微笑んで、それから手を差し延べてくれると思ったのに。彼はこちらの声に気付いていないのか、振り返ることすらしなかった。
「蒼、羽さん・・・?」
もう一度彼の名前を呼ぶ。呼んで、彼の横まで移動した。
「あ」
違う。
移動した、というその感覚や、彼の名を声に出す、それに。
ひどく違和感を覚える。その理由が、自分の体が、この場に存在していないのだ、と。夢を見ているのだ、と。ようやく気付いた。
それと、もうひとつ。
見上げた彼の顔は、蒼羽よりも精悍で、幾分年齢を重ねている。蒼羽ではない。
「・・・ウィスト」
彼が右腕で抱いている白い布の塊。その中に、赤ん坊がいた。髪の色が、彼と、ウィスタリアと同じ。生憎、瞼を閉じているので確認はできないけれど、その双眸の色もきっと、ウィスタリアと同じワイン色のはず。
「ウィスト」
たった今つぶやいたばかりの、蒼羽の父親の名前を、別の誰かが呼んだ。それに反応して、彼は左を向く。そこに居たのは、金の髪を持つ大人と子供。それから、オーキッド。更に、少し離れて車椅子の老人。
「お祈りしなくていいの?」
「そうだ、この子の為の苗木だ。20年後には、立派に育ってるはずだぞ」
「ああ・・・って何を祈ればいいんだか」
呆れたような顔で一番はじめに口を開いたのは、シンと同じ年頃の。きっとベリルだろう。その青い目と金髪。苦笑する様子が、彼の面影を宿していた。
その横で同じような表情を浮かべたのが、ベリルの父親だと思う。体格も、声の質も。今の彼によく似ている。
「いくらだってあるじゃないか。健康だとか、将来どうなっているかとか」
「・・・そうか・・・じゃあ」
今よりも若い、オーキッドの声に諭されて。
彼は芝生の上に膝をつく。両手で蒼羽を抱えなおして、空に腕を伸ばした。そうすると、ぱちり、と小さな彼の瞼が開く。まっすぐに父親を見下ろしていた。
「お前は多分、予報士になるんだと思うけどさ」
くすり、と笑うその声が。蒼羽と同じ優しさを伴って響く。
「仕事だけじゃなくて。誰か・・・生涯かけて愛せる人が見つかりますように」
にこ、と蒼羽が笑う。その目が一瞬、自分の方を見て。
どきりとした。
彼がそんな風に好きになる女性が、自分であってほしい、と。
「・・・お嬢さん、そろそろお帰り」
「え・・・!?」
しわがれた声。
小さく、本当に小さくかけられたその声は、確実に自分に向けられていた。
そうだと分かったのは、老人の目が優しく自分を見ていたからだ。これは夢で、自分が作り出したはずのこの空間。夢の住人は自分に気付いていないのに、彼だけがこちらに気付いている。
「大叔父様、また何かいるの?」
「ああ、可愛らしいお嬢さんがね。死人ではないようだ」
ベリルの声に、ウィンクをして彼が言う。蒼羽を抱えて立ち上がったウィストは、きょろきょろと首を動かしていた。オーキッドも興味深げに辺りを見回す。
「慣れていないようだね。目をつぶるんだ。夢でない現実の誰かを思い出して」
他の男達には構わずに、老人の声は、自分だけに向けられていた。
「目をつぶって」
彼の声に抗えなかった。言われた通りにする事が、正しいのだと。そう思えたのだ。
目を閉じて、蒼羽を想う。小さな彼ではなくて、現実の。
遠ざかっていく、緑の香りや、爽やかな空気。
最後に、小さな蒼羽の笑い声が聞こえた気がした。
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