トリスティンの白珠姫 14
「・・・こ、行くの・・・?」
窓の外を眺めながら、右腕をシャツに通したその時。薄闇の中、小さな声が耳に届いた。
振り返ると、眠そうに半分だけ目を開けた緋天。
「ベース。まだ早いから寝てろ。すぐ戻る」
「ん・・・」
枕に頭を落としたまま、縋るように自分を見上げるその姿に、今すぐベッドに逆戻りしたくなった。服を着るという行為に心底嫌気を覚えるも、仕方なくボタンを留めて彼女の顔を覗き込む。
「・・・蒼羽さん、いないと、さむい・・・」
毛布から出ていた細い指先を掴むと、首をすくめた彼女が膝を曲げる。半分眠りに落ちたような緩慢な口調でそんな事を言われると、今ここを離れる必要があるのか、と自分の行動を疑ってしまう。一拍置いて、行かなければならない、と理性が警告を発したのだが。
寝息に近い穏やかな呼吸をする緋天の唇に軽くキスをして、結局それで終われずに枕の上に流れていた髪を梳き、すべらかな感触の背に手を這わせる。
「緋天」
抱き起こしてしまったその体を、どうにもできず。寒いと訴えたことを理由に、その肌に唇を寄せながら寝間着を着せた。覚醒しきっていない緋天は、ただ自分の行動を受け入れるまま。
「ん、くすぐったい・・・」
小さく笑う緋天を手放しがたく思いながら、最後に瞼に口付けて、ようやく彼女の体を毛布の中に入れる。
一昨日、自分を探して部屋の外に出てしまったからこそ、寝ている彼女を置いていくことに後ろめたさを覚えていたのだ。偶然とはいえ、とにかく外出することを伝えられて良かったと思う。
そんな風に、今日は大丈夫だ、と思い部屋を後にしたのに。
「ヘリオドール」
閉めた扉が少し大きな音を立てて。
暖かな室内で、秋口に生まれたばかりの赤ん坊を乗せた藤籠を見つけて、若干の後ろめたさを覚えた。
「大丈夫よ、ぐっすり寝てるから」
自分の気持ちを悟ったような言葉を口にして、彼女がにこりと笑う。
「・・・あの香りは何だ」
「ふふ、気に入ってくれた?」
サンスパングルの兄妹の中で一番穏やかなその口調。昔から変わらないそれは、いつまでたっても慣れない、と。そんな居心地の悪さを改めて呼び起こす。ベースから戻り、未だ夢の中にいるはずの緋天に触れる事を我慢して、ヘリオドールの部屋に立ち寄ったのは、どうしても聞きたい事があったからだ。
昨晩、緋天の首筋から香っていた、香油の正体。
「知らなかったのかい? ・・・という事は随分と玩ばれたのかな」
柔らかく笑う彼女の横で、同じような笑みを浮かべた男が口を開く。子供の頃から知っている、親交のある貴族の家の息子。今はヘリオドールの伴侶。
「どういう意味だ。何を混ぜた」
その生まれからしても、嫁いだ先の暮らしからしても、仕事をする必要のない立場であるヘリオドールは、特別な技術を持っていた。主に上流社会の人間の為の香水などを用立てる、調香師としての技術。
この家の子供が皆、男女関係なく、古くから続く慣習のように自然に本部で研修してきた中で、彼女だけが別の道を歩んでいると言える。他の兄弟と違い、そのゆったりとした性質ゆえに、不向きであるという事を本人が一番わかっていたのか、幼い頃より親戚筋であるオーキッドの妻の家の後継者となるべく修行を積んでいた。
「蒼羽のお姫さまだもの。もちろん、あなたの樹のお花よ」
「っ、あれか」
昨夜の緋天に異常ともとれる反応を示した自分の体の変化に、気付かないわけではなかった。いつもよりも更に強い欲求を覚え、緋天に眠ることを許したのは明け方の事だ。その要因が、彼女の首筋から漂っていた香りにある、と異様な血の気を持て余していた状況で分かっただけでも誉めてほしい。それから、そんなものを緋天に与えたのは、ヘリオドールだと答えに行き着いたのも。
「・・・あんなに効果があるなんて知らなかった」
「初めは特にね。その内、もっと深いところで結びつくようになるよ。お互いの香りに反応するから、近付けばそうと分かるし、それが体の一部のようにも感じるし」
ヘリオドールの出した答えに、ようやく頭の片隅にある情報を引っ張り出した。彼女のそれを補足する男の言葉に、息をひとつ吐いて内心の驚きをやり過ごす。
金持ちの道楽だ、と一言で片付けられない、時間と手間のかかる風習。
生まれてきた子供の為に植樹をし、その樹から香りを抽出する。子供が男なら樹皮から、女ならば花から。採取から加工までの全てをヘリオドールのような調香師が担い、その香りを染みこませるのだ。
それこそ、何の疑問も覚えないような赤ん坊の頃から。
衣服、入浴剤、石鹸、化粧品、寝具など、ありとあらゆる日用品に香りをつけ、本人だけに使用させる。周囲が感じられない程の微量なものでも、時間をかけて一人の人間に染みこんでいく。そうして育てられ、成長した子供が選んだパートナーには、今度はその対になる香りを与える。
緋天には、自分の為に父親が植樹した樹の花の香りを。
彼女がそれに慣れる頃には、自分が纏う香りを好むようになる。この香りでなければ、違和感を覚える。そういう雁字搦めの鎖だ。ある意味、中毒症状にも似ているのではないか。
その威力は、昨夜、身をもって実感したから。
「今日、帰ってしまうのでしょう? ベースに届けるようにしておくから、緋天様に使っていただいてね」
「・・・渡しておく」
嫌味のない笑みに何も言えず、頷いて部屋を出た。
緋天に自分の香りを分け与える、というその行為に、多少の罪悪感を覚えたが、彼女にヘリオドールの用意した数々の品を使うなと言う気にはなれなかった。緋天はきっと、ベリルの妹に良くしてもらった、と素直に喜ぶのだろう。
悪くない、と思わず笑みがこぼれて。
緋天はまだ眠っているだろうか、と自分の部屋へ足を進めた。
「緋天様」
遠くから聞こえてくる声が、全く知らない人のもので。
「緋天様。お起き下さい」
次いで瞼の向こう側に当てられた眩しさに、思わず開きかけた目をつぶる。静かだった空気を動かしたその人の気配。続けてかけられた声は、間違いなく自分に向けられていた。
「・・・?」
重たい両目を無理やり開けると、見知らぬ女性がベッドを覆う薄布を上げていた。一瞬、自分がいる場所がどこだか分からなくなり、彼女が見につけている服が、この家の、ベリルの生家のメイドのものだと気付いて。
「おはよう、ございます・・・」
驚きから抜け出せないながらも、何とか挨拶を口にした。それに返事をせずに、彼女は黙って作業を続ける。その少し奥、大きな窓のカーテンを開ける、もう一人の女性。
良く見れば、二人ともあまり自分と変わらぬ年頃の女の子。
てきぱきと動くその様子を見て、どうやらそれが彼女達の仕事のようだと推測した。
「あの・・・?」
「お起き下さい。私どもの仕事が進みません」
さっと開けられた窓から、冷たく清涼な空気が流れ込んでくる。
咎めるように見下ろされて、自分がいつまでもベッドにいるせいで、二人の邪魔をしているのだと。ようやく気付いた。
「・・・ごめんなさい。あの、蒼羽さんは・・・?」
とにかく何とか身を起こして、ベッドから降りる。裸足の足を見て、それから、自分がきちんとパジャマを着ていることに気付いた。そういえば、と、一度目を覚ました時に蒼羽が着せてくれたことを思い出す。
「存じ上げません」
幾分冷たい声で返されて、それ以上を聞く勇気が出なかった。完全に二人の仕事の妨げになってしまったようで、きっと呆れてしまったのだろう。
暖かいルームシューズに足を入れて、隣の部屋へと逃げるように出る。ソファに座って一息ついて、蒼羽はまだ帰ってきていないのか、それとも、別の部屋で何か用事を済ませているのか。それすらも判別つかなかった。今が何時であるのかさえ。
彼女達が寝室での作業を終えるまでは、この場で大人しくしていよう、と縮こまる。空気の入れ替えの為か、窓は開けられ、暖炉の火は掻き消され、灰が取り出された後だった。
蒼羽が部屋に戻ってくるまで、もう少しまどろんでいたくて。
まだ重い瞼を、再び閉じた。
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