トリスティンの白珠姫 13

 

「触るな」

 緋天の隣に座るアルカネットを見た瞬間、面倒なことになった、と思った。

 ベリルでさえ、何を考えているか分からない、と言って彼を避ける。関わりたくないのに、彼の興味は緋天へ向けられてしまった。

「お客にナイフを投げるなんて、随分手荒な歓迎だね」

「だから言ったじゃん、蒼羽は本気だって」

 ようやくソファへと近付くと、笑みを浮かべた彼が口を開く。シンが、得意そうにこちらを見て。アルカネットと同じ空間にいたくなかっただろうに、緋天に手出しをしないように彼の気を引いていたのだ、と。それが判って、まだ大した事が起きてないと悟った。

 頭を右へ傾けた緋天が身動きをする。この喧騒の中で寝入ってしまった彼女に違和感を抱いたけれど、それよりもまず、隣の男から離したい。

「緋天」

「ん・・・」

 ソファに吸い込まれていたナイフを引き抜いて、彼女に手を伸ばす。

「・・・そうう、さん」

 無意識、なのだろうか。甘い声で自分を呼び、その腕が背中に回った。縋りつくように顔を押し付けてくるその首筋から、香油の香りが立ち上る。

 それを嗅いだ途端、もうどうしようもない程の衝動が、体の底から生まれて膨らんでいく。

「あれ、子猫ちゃんは蒼羽にべったりだね。意外だな、大人しいだけの子かと思った」

 くるりと丸まった、緋天の毛先。

 抱き上げた彼女の、宙に漂うそこに、アルカネットの細い指が再度近付いて。

「触るなと言った」

 牙をむく、体内の獣。そこまでする必要はないかもしれない。そう思いながらも、彼の予想のつかない行動が嫌だった。何のつもりで緋天に近付いたか判らない状況で、安易に流せるものではなく。

 彼の指先が止まったのを確認して、緋天の体を更に引き寄せた。

「・・・もうお部屋戻ってもいい?」

 首元で満足そうな吐息を漏らしていた彼女が、ぼんやりとした声で呟く。アルカネットとのやり取りに気付いていなかったのか、その声音はあまりに無垢で。

「ふふ、可愛いな」

 低音で笑う彼の声に、緋天の背がびくりと震えた。ようやく、というべきか、この場に自分以外の人間がいることを知ったらしい。

「顔を見せてくれない?」

 こちらが嫌がっていることを承知で、暢気な言葉をかけられる。腕の中の緋天の耳は既に真っ赤で、小さく首を振るその仕草が可愛いと思うが、すぐ近くで別の男がそれを見ているというのが許せない。

 

「蒼羽、どうしてナイフなんか投げたの?」

 彼を無視してこの場を立ち去ろうか、それとももう少しその言動を探っていこうか、と。迷っているところで、困惑した声が届いた。

「ああ・・・お招きありがとうございます、奥様」

「ごきげんよう、フロスティ家の王子様。今日はどんな悪戯をしたのかしら?」

 ソファから立ち上がり、行儀良くリラに頭を下げたアルカネットではあったが。何かを見通しているようなリラの言葉に彼は苦笑を返した。

「こいつが緋天に触ろうとしたから、蒼羽がキレたんだよ」

 穴のあいたそこを指差して、シンが言い訳をする。

「あら、まあ・・・それじゃ仕方ないわね」

「そんな理由でナイフを投げられるなんて、こちらとしては困るのですが」

 腕の中の緋天が、居心地悪そうに抜け出そうとしていて。それを見たリラは小さく笑った。

「緋天ちゃんは具合が悪そうね。蒼羽、部屋に戻りなさい」

 この場は引き受ける、と暗に言っているのだ。

 緋天としては他人の前で抱えられている状況が恥ずかしく、ただ動いていただけ。それを制して、具合が悪いというリラの言葉を演出する為に、もう一度、緋天を抱えなおした。

 掌に触れる緋天の熱。

 正常な判断が、できるわけがない。彼女がこうして自分の腕の中にいて、早く部屋に戻りたいと密かに主張しているのだから。

アルカネットのことなど、もう考えられなかった。

異常な程に、体中の血が、彼女を求めて。

 

 

 

 

 慣れない空間から抜け出せば、足音は絨毯に吸収されて、衣擦れの音しか耳に届かない。静かな廊下を黙って進む蒼羽。首元に顔を押し付けると、小さな笑い声が頭の上にふってきた。

「緋天?」

 随分と甘い声で囁かれ、心地良さとは違うところで、何かが目を覚ます。ものすごく眠かったはずなのに、一瞬でそれが消されてしまった。蒼羽の歩みに合わせて伝わっていた、体に響くわずかな振動はなくなって。いつの間にか、見覚えのある彼の部屋のベッドの前。

「・・・あ」

 そっと降ろされて、上から蒼羽の視線が体を貫く。

「あのね、えっと・・・」

 上半身をひねって、枕の下に手を伸ばした。夕刻、この部屋を出る時に、そっと忍ばせておいたのだ。寝る前に渡そうと思って。

「ひゃっ」

 指先に包みが触れたのと同時に、マットが沈んで体に腕が回る。自分を見下ろしていた蒼羽が、斜め後ろに腰を下ろしていた。背中の方へと引っ張られて、意思とは関係なくずるずるとベッドの中央へと動いてしまう。

 首筋に押し当てられるものが、蒼羽の唇だと。

 判る自分を恥ずかしく思って。

「っ蒼羽さん、届かない」

 顎を捕らえられて、そのまま振り向けばキスをされると、それも判ったから。俯いて、彼の腕に指を置いた。それからもう一度、枕の方へと手を伸ばす。あと少しなのに。

 ようやく自分のしたいことに気付いてくれた蒼羽が、代わりに右手を伸ばして。

 長い腕の先が、枕の下から目的のものを引っ張り出す。

「・・・あの、すごく遅くなっちゃったけど」

 これは何だ、という怪訝そうに自分を窺う蒼羽の視線から、またしても逃げてしまう。思えばこんな機会は初めてで。どうしても恥ずかしさが先走るから。

「こっちがお誕生日ので、こっちがクリスマスの」

 銀色のリボンがかけられた、黒い箱と。

 光沢のある青い紙の袋。

「今、おめでとうって言うの変かな・・・?」

 顔が上げられなくて。誤魔化すようにそう言うと、蒼羽の手が体を反転させていた。向き合う形になって、余計にその表情が気になるのだけれど。

「緋天」

 促す声に、やっと上を向いた。にこりと笑ってくれているのは確か。

「開けていいか?」

「ん」

 ごく近くで蒼羽が囁くようにして言うそれが、体の奥底をかきまぜる。

 かさりと小さな音を立てて開けられていくのは、大きな包みの方。取り出された布は、店頭で見た時と同じで、暖かそうなままだった。黒地に、一本だけ縦に入った細いロイヤルブルーのラインが鮮やかで。上質な手触りのマフラー。

「蒼羽さん、マフラーしてないから・・・持ってないのかなって思って」

 ちゃんと、ベリルに確認したから大丈夫なはず。

 嫌いなわけでもなく、ただ単にマフラーを巻く習慣がないだけだ、と。頭では理解していても、蒼羽の反応を小さくなって待つ。クリスマスなどというイベントは、彼に関係ないと知っていながら、どうしても無視できなかった。

「緋天」

 俯いた視界の端で、蒼羽が顔を近付けて微笑んで。優しく落とされたキスに溺れてしまう。

「もういっこ、開けて・・・」

 首元から下へと降りていきそうな、彼の唇。それを制して、蒼羽が困ったように息を吐いた。こうして自分が渡したプレゼントに困惑しているわけではない、とその理由に気付いて嬉しいのと恥ずかしいのと半々。

 

 身につけるものがいい、とはじめは漠然と考えていた。

 蒼羽とはじめてキスをしたあの日に、照れ隠しに彼の誕生日プレゼントを用意すると再度約束したのに。ずるずるとタイミングを逃し続けてきた。それでも、蒼羽にもらった指輪は嬉しくて仕方なかったから、同じように身につけるものを、と。

 

「・・・色がね、蒼羽さんっぽくて格好いいな、って」

 

 盤面はダークブルー。

 普通の文字盤ともうひとつ、別時間を示す小さな時計がついていた。

時計なんてベタなものを、と相談した京子は苦笑していたが、精緻なつくりのそれを一目見て気に入ったのは確か。

 

 戸惑うようにそれに視線を落とした彼の。

 その手から、銀色の金属の輪を広げて蒼羽の腕に嵌めてみる。

ああ、と思う。

怖がっていたせいで上手く着けられなかったピアス。慣れた今でも、一緒にいる朝は必ず蒼羽がそれを着けようとする意味とか。薬指の指輪を嬉しそうに撫でるその意味が。

なんとなく分かった気がする。

 

これは、鎖だ。

彼を縛ろうとする、自分の鎖。

 

「ベルト、ちょうど良かったみたい」

 ごめんなさい、と言うのはやめた。蒼羽も悟っているかもしれないから。ただ、それを彼がどう思うか。

調整しなくても彼の腕にぴたりと嵌ったそれに、少し誇らしくなる。蒼羽の手首はこれくらい、と店員の手を借りた恥ずかしさも払拭される。

「蒼羽さん?」

 嫌がることはないだろう、とそうは思っていたが。

 黙って、じっと。先程と同じように、手首に回る鎖を見る彼を窺う。先程まで逃げていた彼の視線に、今度は自分を割り込ませて。貪欲になっていく自分を思い知った。

「っん」

 ふいに視線を上げた蒼羽が上から唇を塞ぐ。

 それから、耳元で囁かれるお礼の言葉。この至近距離でしか聞こえないそれに、体温が上がっていった。とにかく、気に入ってくれたようで良かった。

 

耳の後ろをしきりに舐められ、首筋を噛むように蒼羽の唇が伝う。

なんだか急いているような、それでいて、頤の周辺に何かがあるような。いつもと違う彼の、その行為が若干の疑問を生んだけれど。

時折肌に触れる、金属の。

蒼羽の手首が動く度に、かちゃりと小さな音を立てる時計。

それが嬉しくて、蒼羽のキスと一緒に。

体の奥の、熱をかき立てられた。

 

 

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