トリスティンの白珠姫 10
「・・・あの、・・・」
蒼羽の視線に耐えられず、開きかけた口を閉じた。
俯いたせいで目に入るのは、ドレスに縫い付けられた小さな飾りと刺繍。ふわりと首筋を撫でるのは、自分の髪で。いつもと違う、柔らかなその動きに落ち着かない。足元の、少しヒールの高い華奢なサンダルも、自分のものではなく、オーキッドに贈られたものだ。
奇妙な沈黙の中で、ヴィオランも、コーディアも、ヘリオドールも。それからたった今まで自分を着飾ってくれていたメイドの二人も。すっかり準備の整った、アルジェとベリルも。誰も声を発しなかった。黙り続ける蒼羽に視線をやって、彼の動きを待っている。
「・・・うぅ」
三歩先で。
彼が少しも動かずに、じっと自分を見ていた。それこそ、頭の上からつま先まで。いつものように手を繋いだり、その腕の中に入れたり、髪を撫でたり、そういった行為をしない蒼羽に不安が募る。
蒼羽は、完璧だった。
上質な生地で作られたと思われる、漆黒の一揃え。こちらの伝統的なフォーマルなのだろうか。燕尾のように腰から下が長い、少し変わった形の上着を着て。右肩から胸元へ、銀糸の刺繍。襟元は詰襟に近いが、真っ白なシルクのシャツがのぞいていた。
彼を際立たせるその衣装は、頬を熱くさせると同時に、精一杯着飾った今の自分でも到底追いつけない、と感じさせて。
「・・・ちょっと。いつまで視姦してるつもり? 何か言いなさいよ」
「姉上。なんてこと言うんですか、緋天ちゃんの前で。コーディアもいるんですから」
「あ、ごめん」
「ねぇ、シカンって何?」
「コーディアちゃんたら・・・いいのよ、知らなくて」
沈黙を破ったヴィオランに続いて、いっせいに皆が話し出す。
それを合図にしたのか、蒼羽の腕が伸びてきて、彼の方へと引き寄せられて。
「緋天」
「・・・変・・・?」
「変じゃない」
肩へと落ちる髪束を持ち上げて、蒼羽が笑顔と一緒にそこへ口付ける。そこから流れるように、指先で首の後ろを撫でられ、目線を上げると。
蒼羽の熱を帯びた双眸とぶつかる。くすぐるように遊んでいた指が、背にかかる髪を持ち上げて、彼は少し頭を寄せてそこを覗き込む。途端に、くすり、という笑い声。それが何を示しているのか、もう充分判っていた。
「はーい、そこまで。蒼羽、今回だけよ、そんな事するの。次やったら怒るからね」
「何でだ。俺のものなのに」
さらりと出されたその言葉に、異を唱えることはできず。逆に嬉しいとさえ思ってしまう。
「・・・緋天ちゃん、悪いけどそれは外してね。ちょっと目立っちゃうし」
「あ、はい」
蒼羽の言葉を完全無視して、ヴィオランがこちらに向き直り、首元を示した。
ドレスの上に乗っていた鎖を抜き取ると、何だか心許ない。メイドの差し出した箱へと仕舞ったはいいが、どうすべきかと逡巡していると、蒼羽の手が首の後ろへ回っていた。
「ん」
満足そうに頷く彼と、その彼の肩の向こうで同じように頷くもう一人のメイド。
ようやく代わりの飾りが着けられたことに気付く。ドレスとお揃いの珠が散らばるネックレス。
「行くか」
「え!? みんなで行かないの?」
自分以外は、誰も蒼羽のその言葉に驚きを見せず。慌てた自分を可哀想だとでもいうような目で見ていた。とにかく、蒼羽がいるとは判っていても、心細いことに変わりはない。
「うーん、緋天ちゃん、ごめんね。後で合流するから。さすがに皆で行くと目立つし、それぞれが一斉に話しかけられて、身動き取れなくなると思う」
ソファにゆったりと座るベリルが、にこりと笑って言う。その隣で、アルジェは申し訳なさそうにこちらを見て。
「・・・わかり、ました・・・」
着飾った彼らは、普段よりも更に美しい。
自分の支度がなされていた間に、アルジェのドレスで一騒動あったようなのだが、それを少しも感じさせない様子で並んでいる。
ベリルも蒼羽と同じような黒の揃いに身を包み、中は華やかな水色のシャツ。アルジェと合わせたのは明らか。蒼羽と違うのは、刺繍の変わりに目を引く、鮮やかな緑の石がついた飾りを胸につけている。
「すぐに会えるわ。頑張ってね」
同じような立場でも、アルジェと自分には差がある。
品格、とでも言えばいいのか、とにかく蒼羽に見劣りのする自分は場違いである。それを言い出せず、頷いて答えて、蒼羽の差し出す腕に右手を預けた。
手を繋がずに、彼がそうする事で。もう始まっているのだと悟る。
蒼羽はきっと、礼儀正しい口調、仕草を今から装うはず。
とにかく、蒼羽やベリル達の顔に泥を塗ることだけは避けよう、と。
それを思って、背筋を伸ばした。
家族が生活する東翼、それから客をもてなす西翼。ふたつの間に位置する大広間の扉は、使用人の手で開けられた。開ける前から耳に届いていた、ゆるやかな調べが、途端に大きくなって。それと共に、多くの人間の話し声にも包まれる。
「・・・緋天、大丈夫か」
左の緋天を見下ろすと、白い頬に少しだけ笑みが浮かんで。
「オーキッドさんに、ドレスのお礼、言わなきゃ・・・」
頷いて、目線を前へ。雰囲気にのまれ、緊張しきっているのは明らかではあったが、その横顔はこちらをはっとさせるものがあった。
既に人々の視線が集まりつつある。入り口で止まっている状況は、緋天を緊張させる要因を増やしそうで、彼女をまず部屋の隅のソファへと誘導した。そこまで辿り着くのに、話しかけてきそうな人間へと先に目線で断りを入れながら。
緋天へ不快な思いを与えそうな人間は、避けなければいけない。
大したことは無いと彼女に思わせる為に、一番初めに挨拶を交わすべき適当な人間を探す。広間に散らばる使用人の顔を把握しつつ、メースの父親、サンスパングルの家令へ視線を向けた。
「お久しぶりでございます、黒樹様」
「ケイパー、俺がいない時は緋天から目を離すな」
頭を下げる彼に、わざわざ呼び出した目的の一つを命じて。
「かしこまりました。緋天様、お初にお目にかかります。家令を務めております、ケイパーと申します。息子のメースからお話は伺っております故」
もう60は過ぎているはずだが、流れるように緋天へと礼をとる姿は見ていて気持ちの良いものだった。唐突に現れ挨拶を始めた彼に、緋天は立ち上がり頭を下げようとし、彼女の腰をつかむ事でそれを制すれば。
「緋天様、蒼羽様に叱られますのでご勘弁を。そうされるのは、お客様だけで充分でごさいますよ」
「・・・はい。でも、あの、よろしくお願いします」
「もったいないお言葉でございます。・・・蒼羽様、ケイトウ家のご夫妻がよろしいでしょう」
口元を緩めた彼は、もう一度緋天に頭を下げた。そして、ケイパーがちらりと上げた視線の先には、給仕からグラスを受け取る男。穏便で公正だと名高く、この家とも長く友好を築いている彼ならば、緋天の挨拶の練習に適当である、と彼は判断したのだ。
自分が何かを口に出す前に、望みを察したケイパーに満足する。どうやらメースはかなり詳しく緋天の事を説明していたようで、後で労っておこう、とそんな事を思う。
傍らの緋天の、緩くカーブを描く髪に触れて。
不思議そうに首を傾げる緋天の、艶を放つ唇に口付けたい。その衝動を抑え込んだ。
「緋天、おいで。今の内に何か食べておこう」
立ち上がり、緋天が腕をつかまるのを待つ。本当は、彼女の体ごと抱き上げて腕の中に入れたいのに。ふわりと届いた香油の香りが鼻腔をくすぐり、治めたはずの体の奥の熱を呼び覚ます。
少しだけ躊躇い、ケイパーをちらりと見てからようやく緋天が横に並んだ。
こうして緋天を伴っている状況。不慣れからくる、そのぎこちない動きにすら酔いしれてしまう。
数歩進んで、すぐに複数の視線が自分達を追いかけてきた。色とりどりの料理を載せた皿、それらが置かれたテーブル。辿り着いて届くのは、そこかしこで談笑という名の腹の探りあいに興じる人間達の、緋天への品定めの視線。
「どれがいい?」
あくまでも緋天が中心なのだ、と不躾な視線は軽く流すだけにして、取り皿を手に緋天を伺う。彼女もとっくに周囲の人間達の興味に気付いていると、その頬から笑みが消えた事で判った。
適当なものを皿に入れ、アルコールの入ったグラスを差し出す給仕からひとつだけ受け取り、水を持ってくるように命じる。
「緋天」
彼女が好みそうな、野菜を花の形に切ったものをフォークに刺し、その口元に持っていく。
「え、お行儀・・・」
「これは咎められない」
完璧である必要はなかった。これぐらいの事なら、誰でもやるのだと緋天に教えたくて。
頬を染める彼女の、その小さく開く唇の間へフォークを入れる。咀嚼するのを確認してから、愉快そうに自分達を見る男に視線を合わせ、近付く事を許した。
「ご無沙汰しております」
家令の示したケイトウ家の主人とその妻へ。緋天がやりやすいようにと、皿とグラスを傍らに一度置いてから、正式な挨拶の形を取り、頭を上げた。同じタイミングで、隣で膝を折った緋天を嬉しく思いながら。
「君の笑顔を初めて見た気がするな。可愛いお嬢さん、噂は届いていますよ」
緋天を気遣い、同じように夫婦揃って礼をした男は笑みを浮かべて彼女を見下ろす。悪い人間ではないと判ったのだろうか、緋天が返すのは微笑み。
「緋天といいます。白珠の号を」
「ぴったりだね。よろしく、白珠姫。ガランと呼んで下さい。こちらは妻のエピス」
「はい。ガラン様、エピス様、よろしくお願いします」
緋天の立場を説明する上で、最も簡単な言葉を口にして。彼らへのアナウンスを図る。妻と目を見合わせた彼は更に笑顔を浮かべ、緋天に柔らかな口調で話しかけてくれた。緊張も解けた緋天の膝を折る動きはゆったりとしていて、余裕があるようにすら見える。
どうやら滑り出しは順調。
緋天が無事にケイトウ家の夫妻へと挨拶を遂げるのを見て、嬉しいような、もっと自分を頼ってほしいような。
複雑な気持ちに陥りながらも、やはり、その嬉しそうな笑顔には勝てなかった。
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