サンスパングルの白銀姫 9
「止まった?」
みっともない。
そう思いながらも、ベリルの手が優しく背中を撫でるその感触から抜け出せないでいた。零れ落ちる涙を止められないと同じで、ただ時間が経つのをどこか他人事のように流して。
「んー、よし」
目のふちに残っていた最後の粒を、彼の唇が吸い取る。その嬉しそうな声に、顔を上げることもできない。こんな子供のような真似をしている自分が信じられなかった。ただ泣いて、慰められて、それに安心して。
「・・・このまま休ませてあげたいんだけどね、ここは大いに目立っておきたいんだよねぇ」
頬を挟まれ、無理やりに顔を上げさせられる。
熱が集まっていく。目に映った彼の、きらきらと輝く金の髪。自分のドレスと同じような水色のシャツからのぞく首筋が、男性のものだと改めて気付いた。
「あの、上着を」
漆黒の、手触りのいいジャケットを脱いでベリルに返す。気恥ずかしさと、彼の上着を奪っていた、という後ろめたさから。かなり唐突なそれに、彼は眉を上げて、何も言わずにそれを着た。
「もうひと頑張り、してくれる?」
ボタンを留めて身なりを整えた彼の。出した言葉が何を指すかわからない。
緋天がするような、おずおずとした口調で言う彼が珍しい。目線は上にあるくせに。
「・・・あれ」
ぼそりと呟かれ、彼の右手がフロアの中央を示した。そこで行われているのは、こういう場の慣例通り、きっと今年デビューした女の子のダンスだろう。明るい音楽と一緒に、華やかなドレスを身につけた彼女達が踊っている。
「っ、もう長いこと踊っておりません」
あんな風に人々の中心にいたのは、もう何年も前だ。その頃は、キーディスと踊るのが好きで、パーティーがあるたびに彼に相手を頼んでいたから。
「いいんだよ。私の相手としてあそこに立ってくれたら」
ね、と甘い声を発して、もう一度体を捕らえられて。腰に回された腕に、今日の自分の立場をようやく思い出した。
彼と。彼をとりまく環境にとっては。
キーディスと対峙する事が、このパーティーの目的ではない。
ベリルのパートナー役を務める事が、彼からも周りの人間からも、この自分に求められている。
「はい、心の準備できた?」
そんなに焦らせないでほしい、と思いながら頷く。
耳に届くのは、盛り上がっているダンスが、終焉に向かう音階。
ベリルの顔を見れなくて、もうすぐ自分が立つべき場所へ、視察の意味も含めて目線を動かした。誰もが笑みを浮かべている中で、一番目立っているのは、それを持っていない男。
「蒼羽・・・?」
こういった社交の場で、彼を見るのは初めてであり。それに加えて、ダンスの輪に加わっていることがあまりにも意外だった。彼をそうさせているのが、この家とトリスティン家だということに気づいたのは、腕の中の女性が緋天ではなかったからだ。
表情は別にしても、蒼羽の動きは型どおりで、彼の高貴な育ちを改めて知る。
何故、緋天ではなく、コーディアなのか。
なんとなくその理由を思い浮かべ、少々悲しくなる。ここは、そういう場所なのだ、と。
「ああ・・・そうか。緋天ちゃんには可哀想なことしちゃったね・・・」
目を細めて、軽く辺りを見わたすベリル。自分には見えないが、独りになった彼女を見つけたのだろうか。それ以上は動かずに、こちらを見下ろした彼はにこりと笑った。
「大丈夫。緋天ちゃんだって子供じゃないよ。君の仕事、今日はもう終わり」
蒼羽はもうすぐ役目を終える。
確かに自分が介入するべきではない。頭では分かっていたが、緋天が心を痛めているような気がした。例え、彼女が蒼羽の立場を理解していたとしても。
そういうものだ。
そういうものだ、とそんな考えに自分はいつの間に及ぶようになったのだろう。当たり前のように行き着いたその答えに、少々驚いて。
「なに考えてるの? ほら、出番だよ」
「はい」
腰を抱いていた手を離し、エスコートの形へと変えて差し出される。
とにかく。
出来うる限り、サンスパングルの今年の主役、というものを演じよう。彼の隣にいても、賞賛の眼差しを送られるように、と。
それを思って、背筋を伸ばし、彼の腕に自分の手を預けた。
彼女を伴って、輪の中に入った瞬間。
周囲から、歓声や溜息などのざわめきが大きくなった。噂話はもう充分に行き届いているはず。サンスパングルと血縁になろうとする人間達は、きっと今頃残念がっているだろう。
この家の、一番の公式な場所に連れ出す相手は、無条件で婚約者候補としてみなされる。
「みんな君を見ている。わかる?」
アルジェの耳元に囁くと、小さな頷きが返って来た。まだ兄のキーディスとのやり取りが頭を占めているのだろうか。それとも、この瞬間とこれからの彼女の行く末を案じているのだろうか。
「さあ、笑顔を私に見せて」
鳴り始めた音楽に合わせ、一歩を踏み出す。
固いままの表情で、アルジェもこちらについてきた。タイミングは合っている、それを確認しながら、彼女の歩調を意識。
「うん、その調子」
体が覚えているだろう、と。
なんとなくそう思ったのは、幼い頃より刷り込まれたリズムは消えないと、自分の身で実証しているからだ。予想通り、八年のブランクがあっても、アルジェの足はステップを踏んでいる。
「・・・サー・クロム」
一周したところで、踊ることを思い出したのか、彼女の口が開いた。その呼び名は訂正するべきなのだが、少々真剣な目に口を挟まず先を促す。
「今夜のこと・・・ありがとうございました」
す、と上げられた顔の。
瞳はまっすぐに自分を捉えている。
浮ついた空気の中で、アルジェの腰に手を回す、この優越感。あまりにかけ離れた感情に、どこかで後ろめたくなる。
「勝手に彼を呼んでごめんね」
翻るドレスの裾の動きが目に鮮やかで。
くるりと回ったアルジェを再び引き寄せる、掌に触れる体温。自分に見せる細い首。噛み付きたくなるような衝動を抱きながら、必死に冷静を装った。
「いいえ。驚きましたが・・・とても、・・・すっきりしました」
覗きこんだ目が伏せられて、それでいて、その口元に小さな笑みが浮かんでいた。
この瞬間を、待っていた。
彼女が心から、何の翳りも見せずに笑う瞬間。
「・・・何でだと思う?」
「え・・・?」
着飾った女性達の中で、この輪の中で視線を浴びる女性達の中で。
誰一人、自分を動かすものはいなかった。挨拶と一緒に差し出された笑顔も、今のアルジェの微笑みに比べたら、きっと霞んでしまう。
「何で、こんな事をしたと思う?」
こうした問いかけや、探りあいは、もう今日で終わりにしたい。
「・・・スキャンダルを避けるため、でしょうか?」
迫るような言い方を、謀らずともしてしまったせいで。
彼女の頬から笑みがたち消えた。一度噛みしめた唇から、冷たいとも取れる声が紡がれる。
「違うよ」
早く。
早く、気付いて欲しい。
光を反射する彼女の髪が、思い切りよく短く切られたその理由。
背中に残る大きな傷痕が、誰からつけられたものなのかという話。
家族からは、キーディスが口にした呼び名で呼ばれていたという思い出。
全てを彼女自身の口から聞きたいのだ。
裏でこそこそ調べまわって手に入れる情報などではなく、本人の口から直接。
それが辛い思いを呼び覚ますものであったとしても、自分が傍にいるから大丈夫だ、と。そう思って欲しい。安心して、その身を委ねて欲しい。自分を頼って手を伸ばして欲しい。
「覚えてる? 前に言った事」
支えた背が、びくん、と震えた。
耳に届く音を無視してしまいそうで。改めて周囲を窺う。自分達が踊りながらこんな話をしている事など、誰も気付いていない。
「君が寂しくなくなったら」
薄闇の中で。
寂しい、と彼女が口にした、あの夜に。
もうそんな想いはさせないと約束をした。それから、そう思わないほど、余裕ができたら。
「私を好きになる」
いつものように、怒った顔を見せて、少々声を荒げて反論するかと思った。
それなのに、合わせた目線を下にずらして。彼女の耳が赤く染まる。
「・・・なりま、せん」
発せられたのは、小さな小さな声。
「そう? 残念だな」
もう、どれだけ周回し、ギャラリーに笑顔を振りまいただろうか。
既に曲調は最後の数節を残すのみとなっていた。今日はここまでだろうか、とようやく諦めがつく。
あと一押しだという手応えを得られただけでも、良しとする。そう思う気持ちと、単純にがっかりくる気分とで、足運びが怪しい。
「・・・サー・クロム」
「っ、・・・これが最後だよ。もうそれでは返事をしない」
彼女がこちらを見上げる、その目が。
狂わせる。どこかに火をつける。
何かを言おうとするアルジェの言葉を遮って、口を開いた。
「これはお芝居じゃないんだ。私は本気だから。君のポジションは誰にも譲らない」
まだ、言うつもりはなかった。
キーディスの事で、混乱しているだろうから、更に戸惑わせるつもりもなかったのに。
くるくると回りながら、円の中心へ。彼女の手を取って、腰を折り。
跪いて、その細い指先に口付ける。
「君に白銀の号をあげる」
いつまでも、サー・クロム、などと呼び続ける方が悪い。
アルジェの驚きに見開かれた目を見て、不謹慎ながら、笑ってしまった。
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