サンスパングルの白銀姫 12
「・・・っ!!」
体を起こそうとした。
朝だ、と思ったのだ。起きなければ、と。
「・・・ダメ。もうちょっとさ、ひたらせて」
腰の上に乗る、重たいものと。
首の下にある、固いものが。
両方とも、ベリルの腕だと気付いて。昨夜の記憶が一気に呼び起こされる。次いで、頭の上で響く声と、体に回った腕が自分を押さえるその感覚が、ベリルの存在を主張していた。
「おはよう、って言ってくれないの?」
後頭部に唇を落とされ、随分と優しい声音がゆったりと発せられる。
自分の中で現状を処理しきれない。何をすればいいか分からない。
「真っ赤」
くすり、と笑われて、身を竦める。
「・・・サ、・・・ベリル」
「んー?」
いつもの呼び方で彼を呼びそうになったのだが、それをすると、ものすごい意地悪をされそうだ、と沸騰しそうな頭でも分かった。言い直した事は正解のようで、ご機嫌な彼の返事が耳をくすぐる。
「・・・今すぐベッドから出て、私の着替えを持ってくるよう誰かにお願いして頂けませんか?」
一息で言い切った。
そうしないと、きっとこのまま流されてしまう。
「ひどい・・・横暴だ・・・」
ぴくりと動いた彼の体を背中で感じたのだけれど、これだけは譲れなかった。きっとひどく紅潮しているに違いない顔で、彼と向き合うなんて到底できそうになくて。
じっと目の前の、薄緑色のシーツを見つめる。
昨日までとは違う自分を、確かめる勇気はまだない。
ぶつぶつと後ろで文句を言うベリルが、ようやく諦めたのか、むくりと身を起こした。
裸の上半身を晒しながら、シーツと自分の目線の間に無理やり割り込んでくる青い目。
「・・・キスは?」
「っ、・・・許します」
可愛げのない言葉ばかりなのに。
「おはよう、私の白銀姫」
「っっ・・・!」
華やかな笑みと一緒に優しい口付けを送られた。
「あー、いい朝だね」
窓の外の白銀の世界は、さながら自分のものとなった彼女を祝福しているようで。
これ以上ないほど、気分が良かった。
「緑樹様、他にご入用のものは?」
「うん、もうないかな。後で彼女の荷物をまとめるのを手伝ってあげて」
「かしこまりました」
忙しく立ち働いていたメイドが、微笑を見せて頭を下げる。隣で必死に背筋を伸ばして体面を保っているアルジェは、彼女が背中を見せて部屋を去っていくのに合わせて、ようやくその肩の力を抜いていた。
「無理しなくてもいいのに」
体のだるさをひた隠していた理由は、単に自分達の関係を明らさまに見せたくなかったからだ。既に彼女の衣服や日用品の一部を、この部屋に移した時点で、そんな足掻きは無用に終わっているのだが。
引き寄せた体は、抗うことなく、自分の胸に体重を預けた。
それが、疲労の為に抵抗できない、という、自分にとっては寂しい答えであったとしても、現状に満足してしまう。
「お茶飲む?」
こくん、と素直に頷く様は、疑いようもなく自分への信頼。
テーブルに置かれたポットから、陶磁のカップへ薄紅色の液体を注ぎ、アルジェの細い指に手渡したところで。
とんとん、と。
廊下側の扉がノックされる。些か忙しないテンポのそれは、誰のものであろうか。
「いいよ、そのままで。はい、開いてるよ」
またもや背筋を伸ばそうとする彼女の肩を止めて、ノックを生み出した主を迎え入れた。顔を出したのは、母の使用人の一人。いつもにこやかな風貌の彼が、幾分緊張した様子だった。
「失礼致します。緑樹様、奥様よりご伝言でございます」
真剣なその相貌に、アルジェが身じろいだ。一旦、自分に視線を移し、次いで彼にもう一度その目を向ける。
「席を外します」
「いえ、アルジェ姫にもご確認を、と。お聞きください」
少しも躊躇わずに、彼がアルジェの存在を認める。何をそんなに急いているのだろうか、と思い、そうではなく、彼女の応答もまた必要なのだと悟った。
「わかった。・・・アルジェ、彼はコロハという。母上の右腕」
「お見知り置きを」
簡単に彼を紹介して、アルジェの首肯を確認。それを合図にコロハの口が開く。
「先程、サントリナより報告が。黒樹様のご寝所にメイド二名が侵入したとの事です」
ぴく、と彼女の腰に回した左腕に、その震えが伝わった。
「・・・緋天ちゃん?」
「ええ。白珠様のご就寝を妨げ、お品を漁ったと。蒼羽様のご不在中の事でございます」
誰が、と問うよりもまず、その被害にあった人物を聞いた。低い声で答える彼のその言葉に、既に蒼羽が緋天の傍にいる事を推測する。
そうでなければ、こんな風に彼がこの場にいるわけがないのだ。サントリナから、母へ。その母が懸念を覚えて自分の下へ使いを走らせる位だから、何かしら措置が取られた後なのだろう。
「かような所業に及んだ訳を咎めたところ、ただの好奇心のように思われるのですが。緑樹様には真偽のほどをご確認頂くよう、お願い申し上げます」
彼自身、気付いているのだろうか。
その言葉がいつの間にか、母の意志を伝えるものから、彼の嘆願になっている。コロハの心証を踏まえての、自分への依頼に変化しているのだ。
「・・・了解。私達で見てこよう。アルジェ、聞きたいことは?」
「緋天さんの様子を」
じっと押し黙っていたアルジェに目を向けると、はっとした様子で彼女は口を開いた。
「はい、メイドが掃除をしていたのだとお思いになられていたと。黒樹様がお怒りなのですが、頓着なされないようで」
伝え聞いたのだと思われるそれを耳にして、彼女の体から緊張がとけていく。緋天に関しては急を要する事態ではないと確信を得て、少なからず、安堵に包まれていた。
「蒼羽には・・・後で様子を見に行くと言っておいて。母上には、私から報告する」
「仰せつかりました」
「アルジェ、大丈夫?」
ただ歩くことも、今の彼女には辛いのだと。
それは分かってはいたが、アルジェを連れて行かなければ、詰られるのは自分だとも分かっていた。差し延べた腕に大人しく体を預けたまま、思った通り彼女は意思を持って立ち上がる。緋天を害した人物を見定めようと、既に怜悧な表情を浮かべていた。
「緑樹様、・・・私には、二人が浅慮であったとしか見えないのです」
部屋を出ようとして、背中に声がかかる。
それは、ひどく弱々しく響いた。
困惑と、焦燥と、無念が織り交ざったような、そんな声音。
「悔しいのです。この家を軽視されたことが、私をひどく暴虐な気分にさせるのです・・・!」
行き場のない怒りが、吐露された。
彼はメイドの監督を務める立場にはない。母の、サンスパングルの家人としての仕事を助ける手足なのだ。屋敷内ではなく、主に外交的な仕事の。決して使用人の人事には関わらない場所にいるのに、そうやって感情を露にするコロハは、尋常ではなかった。
何か、言いようのない、使用人としての信条が侵されてしまったのだ。
その輪郭を見せて、彼の頭が下げられる。
「・・・サー・クロムと、私が預かります。ご苦労様」
静かな空間を割って、アルジェの凛とした声が発せられた。
優しさを含んだ一言も一緒に。
彼自身がどうあっても消化できない想いを、そうやって継ごうとする言葉。それに驚いたのは、自分だけではなく、応えを与えられたコロハもだった。アルジェから、そうされるとは思ってなかったのだろう。ましてや、労いの言葉も添えられるとは。
呆然とした顔を見せて、それからもう一度、頭を下げて。
そのまま、膝をつき、後頭部を晒した彼は。
「忠誠を。・・・白銀の姫に忠誠をお誓い申し上げます」
いきなりのその行為は、彼女の目を丸くさせたが。
「・・・・・・ありがとう」
「あっ、こら」
しばしの逡巡を経た後、アルジェは身を硬くするコロハに歩み寄り、慣習どおりに、その額に口付けた。その祝福のキスにようやく我に返ったが、時既に遅し。
感極まったようなコロハを恨めしく思いながら、腕の中にアルジェを引き戻す。なんだか随分と旧いものを見せられた気がしたが、彼にとっては、新しい家族への挨拶なのだろう。まだ、家族になるとは決まっていないが、きっとこの家の使用人は、もうその気でいるに違いない。
「なんか、複雑」
ぼそりと呟くと、隣で肩を並べたアルジェが。
にっこりと。何か、得意そうな笑みを浮かべる。
振り回されてしまう、と思ったのは、口に出さないことにした。
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