空を仰げば 5

 

「緋天」

 

 またあの笑顔だ、と思った。

 ついさっき、ほんの一瞬前まで無表情、もしくはふとした拍子にイラついた顔を見せていたくせに。

 ガラス扉を通して見える、ベースのカウンター、そこで緋天がうつむきがちにして座っているのを認めた。自分よりも早くそれを認識していた蒼羽は、素早く扉を開けて、それで笑顔を浮かべたのだ。

 こちらに気付いた緋天が、もたもたと椅子から降りようとする前に。あっという間にそこへと辿り着いた蒼羽が、その腰に手をやって抱き上げるように引き寄せていた。自分が今日の夕食のメニューを口にしたベリルの言葉に喜んでいる内に、傍らで蒼羽はそうやって緋天に近付いていて。

 

 それで、笑顔を浮かべている。

 

 蒼羽の腕の中で満足そうにしている緋天の笑みが、腹立たしかった。

 けれど、更に腹立たしいのが、同じ様に蒼羽が笑顔になっていることで。

愛しそうに、本当に愛しそうに。彼は長い黒髪に唇を落とす。

 

何故。

何故、こうも簡単に蒼羽は微笑むのか。笑顔なんて、自分に向けられた覚えは然程ない。

たまに、ごく稀に。それも何かの拍子に、ふ、と笑んでくれる程度だ。そんなものでも、蒼羽という滅多に表情を崩さない人間としては、本当に貴重なものであったのに。

もう、自分の知っている蒼羽ではない。

 確かに蒼羽ではあるのだけれど、彼の意識の半分以上が、緋天という女に向けられているように見えた。そんな風に、蒼羽が他人に接しているなんて、今まで一度も見たことがないのだ。だから、自分の知っている、知っていた彼ではない。と、そう思ってしまう。

 

 邪魔をする為に上げた声は、蒼羽の心底嫌そうな唸りを生み出した。

 それを察したベリルが自分をこの場から連れ出そうとする。そして、その行為に蒼羽は満足を得ていた。本当はこんな事がしたい訳でもないのだ。ただ、緋天の居場所は自分であってもおかしくはなかったはずだった。彼女が現れる前は、誰一人、蒼羽を笑顔にすることはできなかったのだから、その可能性はまだ残されていたのだろう。

 それをただの、本当にどこからどう見ても特別な何かを擁しているとは思えない、一般人の女にやすやすと奪われるとは。想像すらしていなかった。きっとベリルもそう思っていたはずだ。

 

 悔しさを認めたくない。それを認めたら、緋天に負けていると認めることになる。

 ただ、自分の中の何かが、ごそりと剥がれ落ちた、緋天に無理やり(えぐ)り取られた。

そんな気がしてならない。

 

その緋天を構う蒼羽、それでも彼への憧憬のような気持ちが消えることはないのに。

 

 

 

 

「あんなヤツ、すぐに捨てられるよ」

「・・・あなたが誰を指してそう言っているのか分かるけれど」

 聞こえないほどの小さな吐息、それを出したアルジェが困ったように眉を寄せる。

 暗がりでもそうしているのが見えた。

「分かりたくないわ。そんな意見に同意したくないし、むしろ否定したい」

 世間体とか、彼女の立場とか。緋天あってのその職務があるから。

 そうやって、即座に反応したのかと思った。けれど、もともとアルジェはそんな事を気にする性格ではなかったはずだ。言いたい事は、口にしていたと思う。自分に対しては素直に。

 

「気に入らないのは、蒼羽が違うところへ行ってしまったみたいに感じるからでしょう? 緋天さんの傍にいる蒼羽が、幸せそうに見えるからでしょう?」

 夜気に触れる頬。それが、かっと熱くなるのを感じた。

 一息に紡がれた、アルジェの言葉に。そこに何か、彼女のいつもの冷静さで吐き出されたものではない、そんな音を感じたのだけれど。それを気にするよりも、知られたくない自分の狭量さが露見してしまった事が恥ずかしかったのだ。

「・・・こういう風に言うのは、私もそう思ってたからなの。だけど、それを妬むのは、身勝手だったと判ったから。今の蒼羽が、多分、本来の蒼羽なんだわ」

 足元から立ち上る、冷たい空気。それが背筋に沿って移動していく気がした。

 夜になれば、冷える。冬に向かう季節だからこその、冷たさとは。

 違う。これは違う。

 

「蒼羽の欲しがるものを、遮っては駄目。誰かがそうした瞬間に、全部がなくなってしまう」

 

 緋天を、傷つけたら。

 緋天を、蒼羽から遠ざけたら。

 緋天の存在を、消し去ったら。

 

 それをしたら、蒼羽は元の蒼羽に戻るのだろう。

 そう思っていたけれど、アルジェの声は、その考えを否定していた。

 

「ゼロになるの。昔の蒼羽すら残らないわ。見ていてわかるでしょう?」

 

 居心地が、悪い。

 彼女の帰途を心配して送ると申し出たのは、自分なのに。

 今、ベースの蒼羽の部屋で眠りについているはずの緋天が。そこから、蒼羽の暖かいベッドから、自分を嘲笑っているような感覚に陥った。

排除するのは簡単なのに。

誰もそれをしようとしないのは、既に緋天が大きく蒼羽を蝕んでいるからなのだと。

 

「でも・・・オレが緋天を甘やかす義務なんてない」

 

「そうね。ないわ」

 

 するり、と体の中に入り込むような声で、アルジェの同意。

 それに心臓が鼓動を早めた。嬉しくて、彼女の同意がとても嬉しくて。

 

「だけど。緋天さんを守るのが、あなたの役目よ」

 

 蒼羽の代わりに。

 そう言い置いて、アルジェが路地の奥へと消えていく。

 おやすみなさい、という声と一緒に。

 

 大丈夫。

 まだ、捨てられてない。

 職務も、アルジェを送り届けるという権利も。

 まだ、残されている。

 

 

     小説目次     

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送