空を仰げば 4
「・・・満身創痍ね」
むき出しの膝に作った擦過傷をちらりと見て、彼女が小さく溜息を吐く。
手当てはしてある。そう判ったからなのか、それ以上を口にせず。アルジェは流れるような動作で部屋の隅にあったポットを傾ける。琥珀色のお茶がコップに注がれて、それは無言で差し出された。
「お菓子ちょーだい」
彼女の淹れたものを飲める人間なんて、この本部内では片手に足りると思う。間違いなくそこに含まれている自分に満足してから、立ったままのアルジェを見上げる。午前中は持っていないと口にしていたが、この部屋にはあるはずだ、と見込んで来たのだ。
「無邪気」
ふ、と彼女の口元が笑みの形に変わる。
ようやく笑ってくれた、とほっとしながら、その白い手が戸棚から紙袋を取り出すのを見守った。
知っている限り、アルジェが他人の前で愛想よくしている所を見たことがない。
いつも静かな声で受け答えをして。楽しそうに仲間と笑いあったりだとか、議論に熱くなって怒りの表情を浮かべたりだとか。そういった様子を目にした事がなかった。
「・・・体格が違うんだから、無理しない方がいいわ」
甘いスポンジを反芻していると、彼女がふいに口を開く。
それが、同期の生徒を指しているのか、それとも蒼羽を指しているのか。どちらかは判らなかったが、どちらにしても素直に頷けない。
「いつか追いつけるから、諦めない」
「そう」
言い返した言葉に、更に何かを言うのが面倒だから、それで終わらせたのかもしれない。
そう思いながらも、それだけで良かった。ただ彼女が淡く微笑んで、菓子を頬張る自分を見るから。
その笑みだけは、本物のような気がしていたから。
特別。
それを感じて、飢えた何かが満たされる。
今日自分を馬鹿にした男達には、絶対に手に入れる事のできない、アルジェの笑み。彼らがどんなに騒いでいても、実際に接触しようと話しかけても。アルジェは目を向けない。けれど、自分には笑ってくれる。
「蒼羽も同じこと言ってた」
「え?」
「無理するな、って。ついでに、先生も」
別に毎回限界点を目指しているわけでもない。けれど、並の運動量では決して追いつけないと判っているから、少しだけ上を見ているのだ。
「体ができていない内に過剰に鍛えるのは逆効果よ。判っているんでしょう?」
唐突に言い出したことに、アルジェは一瞬首を傾げたが。
すぐに返事を投げた。それも、正論を。
「だから、蒼羽も先生もそう言うんだわ。私もそう思うもの」
軽めに響くそれが、頭の中を通過する。
「うん」
返事をして、頷いて。それで収めた。
そうすれば、きっと笑ってくれる。
「もう夕食の時間よ。帰りなさい」
笑ってくれると思ったのに、返されたのは冷えた声。
視線さえも逸らされて、アルジェの銀の髪が夕焼けに反射した。きれいだと思うのと同時に、凍てついた氷のようだとも感じて。
「誰かが心配して探しにくるわ。早く戻りなさい」
違う。
こんな答えを求めていたんじゃない。
そう喉まで出かけた声は、彼女の水色の瞳に飲み込まれた。
自分が部屋へ戻るか、食堂に直接行く事を促す視線。それに抗ってアルジェの温情を得る術も、再び微笑んでその領域に迎え入れてもらう術も、特別だという満足感をよみがえらせる術も、何一つ持ち合わせていなかった。
「ごちそーさま。・・・っ、・・・やっぱいいや」
また来てもいいか、また来るから、そういう事を口にできなかった。
彼女がそれをさせない。自分にさせない空気を発している。
逃げるように部屋を出て、それだけ。
今の自分には、唇を噛むしかできない。
生まれたての雛が、一番はじめに見たものを親と認識する。
刷り込み現象、それが起こったとしか思えなかった。厳密に言えば、シンが一番に見たのは、彼の親か、彼を取り上げた産婆や医者、そのどれかだろう。けれど、彼が自力で歩けるようになる前から、彼は蒼羽を親として見ているような行動を取った。
箱に収まっていたシンを発見したのが蒼羽だから、そんな理由で幼子が自分を救助した人間を崇めるとも思えないが。
それでも、これは事実だ。
シンは蒼羽を崇拝の対象としている。
「・・・蒼羽、それは引っ張るものじゃないよ」
廊下の先で、蒼羽がシンの首の後ろのフードを引っ張って歩いていた。
彼がいくら子供の体だとしても、その力は圧倒的に三歳になるシンを上回る。引き摺られている格好で、苦しさに顔を赤くしてさえも尚、シンは泣き声を上げずに蒼羽にされるがまま。
「うっとうしいから、いらない」
自分のかけた声に、ぴたり、とその手を止めて、彼はシンを解放した。引かれる力がなくなった途端に、シンは床に座り込む。
「必要ない。こんなの邪魔なだけだ」
毎年恒例の冬の休暇。最近は本部に出向く事が多く、昨日久々に我が家に帰ってきたのだが。一緒に連れ歩いていた蒼羽の帰宅を認めるなり、シンは彼にまとわりついているのだ。
「・・・ふ、ぅ、っ〜〜」
蒼羽がそう思う気持ちも判る。
判るが、それをこんなに冷たい声で発せられると、どうしようもなくて。
「もうついてくるな」
叱ることもままならず、彼の鋭利な黒い視線に凍りついた。本気で邪魔だと思っているのだ。
泣き出したシンの大音量の叫び声も遠くに感じるほど、体の中が冷たい。
何故自分は、蒼羽を救ってやることができないのだろう。蒼羽を引き取ってからの数年、基本的には何も変わっていない。彼が心から何かを楽しむことはなく、ただ与えられた課題をこなすだけだ。死んだ父親と同じ職につくことだけを目指しているのに、いざそれが達成されたら、一体どうなってしまうのだろう。
それも遠い未来ではないと肌で感じるのは、身内の欲目でなく、蒼羽が誰よりも秀でている事を確信しているから。
「・・・ついてくるな」
泣きながらも立ち上がって蒼羽を追いかけようとするシンを。
どこか切なそうな目で見やって、蒼羽は足早に立ち去った。どんなにシンが追いすがろうとしても、それを排除する為に、手を上げる事だけはしなかった。それを救いと感じて、ひとまず小さなシンを抱き上げる。
「蒼羽は・・・優しい子だ。お前が一番判ってるんだろう?」
のぞき込んだ双眸は、涙を生産することをやめ、賢そうな光を投げ返す。
金に近い色が、天井の灯りに照らされて瞬く。
希望はまだある、気のせいではない、と。
彼がそう言っている気がした。
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