空を仰げば 2
「あら? もういいの?」
階下に下りたところで、緋天の母親が笑顔を向けてきた。
たった今、緋天が涙を流して眠りについたのを見たせいか、その表情にどこかでほっとしている自分がいる。
「そうだわ! シン君も晩御飯食べていかない? おばさん、張り切って作るから」
ぽん、と両手を合わせて。何やら楽しそうな様子でこちらを窺う母親。
「あ、でも急だからお母様がご心配なさるわね・・・」
「・・・いないよ」
左手を頬に当てて首を傾げながら、そんな一般論を口にする彼女に現実を口に出してみる。
「え・・・?」
「オレ、捨て子だから。親いないし」
哀しそうに目を眇めるその表情が、緋天に似ていると思った。
今まで幾度もやり過ごしてきた、これと似たような状況。同情されていると判っていながら、不思議なことに、いつものように腹が立たないのは何故だろう。
「・・・今はベリルと蒼羽のとこに居候してんだ。もうすぐ帰るけどさ」
「まぁ! あ、じゃあベリルさんがお夕飯の用意してるわよね?」
「うん、多分ね。肉ならいいけど」
静かな空間は居心地が悪かったから、早口に今の自分の生活を伝えたら。彼女の顔が明るくなった。どうやらベリルとも面識があるらしい母親は、元の笑顔を浮かべている。
「あら、シン君はお肉が好きなの? じゃあ、今度シン君がうちに来る時はお肉にするから、また遊びに来てちょうだい」
「・・・蒼羽と緋天がいいって言ったら」
自分でも何故こんな事を素直に口にしているのか判らなかった。
ただ、悔恨に溺れる己を振り返りたくなくて、こうして緋天の母親と言葉を交わしているのかもしれない。
「蒼羽さんはダメだなんて言わないと思うけどな」
困ったように微笑む彼女。その表情も口調も、まさに緋天にそっくりで。先程も似ていると思ったけれど、本当に緋天に言われているような感覚に陥った。
「それに、うちの緋天ちゃんもダメだなんて言わないわよ」
「なんで・・・?」
「何で、って・・・緋天ちゃんだから」
何故だと口をついて出たのは、到底そうは思えなかったからで。それなのに、緋天の肯定が当たり前だと言うように、自信たっぷりに返される。
「だって」
「オレ、緋天にバカみたいに八つ当たりしてた。嫌なこともいっぱい言ったし、昨日、だって・・・っ」
赦して。
それを口にしたくても、絶対にしてはいけなかった。
緋天が怒りをぶつけもせず、ただ微笑んでくれたことが。ひどく心臓を痛めつける。
「昨日だって! オレが緋天を放っていったから!! 緋天が熱出して泣いてるのもオレのせいだ!」
だから、緋天が自分をこの家に招くことなど絶対にないだろう、と。
そこまでを言葉にできなかった。
零れ落ちた涙が、頬を伝っていく感触。
「・・・っごめん。・・・ごめん、なさい」
謝って、済まされることならいいのに。
自分のした事が、これで全部赦されるのなら、どんなにいいだろう。
ふわり、と。
温かな何かに包まれる。
それが、緋天の母親だと気付いて、全ての罪悪が融けだすように涙が溢れた。
止められないのは、こんなに切ない気持ちにさせられるのは何故。
「・・・もういいのよ」
ぽんぽんと、緩く背中をたたかれる。その手が暖かくて、少しだけ怖かった。
「緋天ちゃんだって、怒ってないから大丈夫」
「・・・な、んで・・・?」
「緋天ちゃんだから」
先程と同じ問いを繰り返す。返ってきたのは、くすりと笑う声と、これもまた同じ答え。
「なんで判るの・・・?」
「お母さんだから」
ぎゅ、と強く抱きしめられた。
そんな風にされたのは、久しぶりだった。ベリルやオーキッドの家族、それから本部の教師。彼らに抱きしめられるのと、ほんの少し違う感覚。どこか胸の奥が痛くて。
「ほら、もう泣かないで」
そう言いながら、頓着なく彼女の服の袖で優しく涙を拭われて。
初めてかもしれない。
初めて、母親を欲しいと思った。
初めて、自分に母親がいないことを、ひどく残念に思った。
「・・・ありがと」
「どういたしまして」
気恥ずかしさを伴いながら、温かなその場所から体を離す。
こんなところを、蒼羽に見られたくないと思いながらも。
「また来てもいい・・・?」
「ええ、もちろん」
彼女の笑顔に甘えながら、そう口走っていた。
返ってきた言葉に嬉しくなりながら、それをどうにか必死で隠す。
「緋天にも聞いといてくれる?」
「だから、聞かなくても判るのよ」
「・・・お母さんだから?」
「そう。お母さんだから」
外に出て、空を見上げたら夕焼けだった。
後ろを振り返れば、玄関まで見送りに出た緋天の母親が手を振っている。
こんな風に後ろを振り返りながら、歩くなんて。
こども、みたいだ。
そう思った。
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