寒い冬は暖かい場所で 9
ふぅ、と息を吹きかけて、口に含んだ液体はとろりと甘い。
夜中だからだろうか、お茶ではなく、ホットチョコレート。その優しい甘さに安堵して、顔を上げると、にこりと微笑む従業員と目が合った。足を覆う柔らかなひざ掛けも、彼らに用意されたもの。部屋は充分暖かく、快適に過ごせるようにと、こんなにも尽くされているのに。
見渡した空間の隅に、手足を封じられた男女。
昼間、馬車の車輪が溝にはまったところを、蒼羽に助けてもらった人間が部屋に侵入したのだと、この場に来る途中で聞いたのだけれど。彼らの外見は悪人にも見えず、特に自分と同じ年代の女の子がそんな事をしたとは、とても信じられなかった。
「何よ、・・・お高く留まっちゃって」
まじまじと見てしまったから。
つん、とそっぽを向いて、彼女が吐き捨てるようにそう言った。その言葉が、自分に向けられているのは分かった。ただ、思ってもみない事を言われたので、どこか的外れなそれに、なんだか頬が緩んでしまう。きっと蒼羽と一緒にいたから、お金持ちだと認識されているのだ。
「お嬢様、あれはお気になさらず」
「あれって何よ、あれって!!」
彼女に向けていた視線を遮るように、制服を着たスタッフの男性が、すっと目の前に現れる。
静かな声で言い聞かせるように発せられた言葉に、奥から彼女の抗議の声。
「見世物じゃないんだからね!」
「あ、わ、あの、ごめんなさい」
続けて発せられた非難にも似たそれに、思わず謝ると、従業員の彼の眉根が寄る。
「・・・お嬢、頼むから黙って」
そっと出された声は、女の子の横にいた人のもので。昼間も彼女に対して咎めるように言葉を発していた男性だった。
「黙らないと今よりも、・・・待遇が悪くなるが?」
こちらを窺うようにしていた顔を、三人の方へ向けて。
重ねて従業員の声が響く。一度何かを言いよどむように口を噤んだのは、言葉を丁寧なものにしよう、という気遣いからだと。彼が自分を気にする様子で判った。正確には、蒼羽の存在を気にしているのだろうけれど。
「彼らのことは、お気になさらないで下さい。ウィスタリア様がご心配されます。お寒くありませんか?」
「はい。大丈夫です。・・・あの、朝までここにいるんですか?」
「・・・ええ、今夜は吹雪でして。外に報せに出ることも、彼らを引取りに来てもらうこともできないのです。本来ならば、お客様にはお部屋でお過ごし頂くのですが・・・そちらの方が危険だと」
再度、自分と三人の間の直線を遮るようにしながら、彼は口を開いた。
慌しくて、蒼羽に聞けなかったことを説明してもらい、何故自分がここにいるのかをようやく理解した。蒼羽が宿泊客をこの場に集めると言っていた理由は、捕縛した彼らの関係者が、この建物内にいることを懸念したからだろう。それも、何も知らない客たちが部屋でじっとしていれば、更に危害が及ぶ可能性も。
「あの、ここに集まっている方は・・・?」
「八割ほどでしょうか。他の方はウィスタリア様が直接説明に。申し訳ありませんが、もう少々お待ち下さい」
蒼羽がいなくなってからも、ちらほらと増えていく客。
全体を見回しても、然程多くはないが、これで八割と言うのなら、もともと客数は少ないのだろう。建物の大きさからすれば、少なすぎるくらいだ、と。それを思ったのだけれど、きっとそういう場所なのだ、と妙に納得した。
相変らず、その体で奥の三人の視線を遮るように立つ従業員の。
そうやって気を遣う姿に、何となく居心地が悪い。じっと一人で蒼羽を待つ方がいい、立ち去って欲しい、と何とも勝手な事を思って俯いていると、隣のソファに人が座った気配がした。
「昼間は失礼しました」
「あ、・・・いえ」
ふわ、と柔らかな笑みを浮かべて、耳障りのいい落ち着いた声で話しかけてきたのは、昼に指輪を見せてくれ、と言っていた彼だった。そう何度も謝られることは何一つしていないのに、申し訳なさそうな顔をする男性に、こちらも戸惑いながら返事をする。
「何やら面倒な事になっているようですね」
「アスター様、申し訳ございません」
「いや、朝まで大人しくしてればいいんでしょう? それで済むならいくらでも。一人でいて襲われたら怖いから」
丁寧に頭を下げる従業員に、微笑んだまま、彼は肩をすくめる。
その仕草に、ようやく親近感がわいた気がした。
「そういえば、彼らを捕らえたのはどなたですか?」
「ウィスタリア様です」
蒼羽と同じように敬称付きで呼ばれた彼が、ちらりと部屋の隅に視線をやって口を開く。
すかさず出てきた答えに、その目は大きくなって。
「やはり、トリスティン家の方ですね・・・それにしても、予報士のお部屋に侵入するなんて、命知らずだ。よっぽど頭が足りないと見える」
「なんですって!!」
気の毒そうに首を振る彼の言葉に。
いち早く反応したのは、先程の女の子。今度は、もう完全に。どんな様子なのか、従業員の体が壁となり窺えなかった。隣のソファの彼は、意外にも涼しい顔。
「・・・忍び込む前に、その部屋の客が誰なのか、分かっていなかったんだろう? トリスティン家の、それも黒樹様と言えば、子供ですら知っている事もあるのに」
心底呆れた、とでも言うように、彼は溜息を吐いてそう言って。
「予報士なんて知らないわよっ、運が悪かっただけだわ!」
縛られた足で暴れたのだろうか、ばん、と強く床を叩くような音がして。
悔しさが混じった怒り声が響いた。先程、自分に向けていたものよりも、もっと。ものすごく腹が立った、そんな反撃。男性の声は、別に馬鹿にした訳でも蔑んでいるようでもなく、ただただ困ったような、呆れたような静かな声なのに。
「とんでもないミスだね。普通のお金持ちだったら成功していたかもしれないけど」
「うるさーいっっ!! だいたい、そんなボーっとした子連れてて、どこが予報士なのよ!! たかが知れてるわ!!」
「お嬢っ!! 死にたいのかよ!?」
とにかく怒り心頭なのだ、と。
その声を聞いて分かった。自分を指して言われたそれは、正直、何のダメージにもならなかった。言い得て妙、と納得してしまう程、確かにぼんやりしている事が多いから。そんな自分を横に置いておけば、蒼羽が一人でいる時よりも、予報士であると見た目で判断してくれる人間は少ない気がする。
「・・・困りましたね」
彼女の次に声を荒げたのは、先程も同じようにその発言を遮っていた男性で。
続いて、本当に残念そうに、困ったと言う声。
自分の事はいいのだが、蒼羽を軽く見る言葉に、なんとなくがっかりして俯いたら。周りの空気が動いた。ずっと視線を遮っていた濃緑色のジャケットの。従業員との距離が開いていく。
彼の向こう側には、手に白いタオルを持った年配の従業員。
二人が合流し、捕らえられた三人へと近付いていくから。何をしようとしているのか、分かってしまった。
「っ、・・・待って! だめ!!」
膝から、ブランケットが滑り落ちて。
周囲の人々が自分へ一斉に目を向ける。思わず声を上げて立ち上がってしまって、手で包んでいたカップの中の液体が波立った。急いでそれをテーブルの上に置いて。
「・・・あの、だって、・・・女の子なのに」
「お嬢様、本来ならば彼らのような人間をお客様の目に触れる場所に置くことは致しません。ですが、そうせざるを得ない状況なのです。それならば、少しでもお客様に不快な思いをさせないようにと努めるのが、私どもの仕事です」
流れるようにそう言ったのは、年配の、落ち着いた声の従業員だった。
「ちょっと抗議しただけじゃない! 何よ、不快な思いって!!」
先程まで自分の傍にいた若い彼に、そのタオルを渡し、そう紡ぐ間。ゆっくりとだが、確実に。タオルを手にした従業員のその体が、三人へと近付いていく。女の子の声がまた聞こえて。視線を遮るものがないから、その不安を隠しきれない表情が見えた。それから、彼女の横でしきりに黙るように言っていた男性の顔が、少し怒ったような目をこの動きのきっかけとなった、隣のソファの彼に向けられているのも。
やはり、いくら直接の痛みを伴うものではないとはいえ、猿轡をさせられるなど、女の子にとっては恐怖だ。
それに、そんな事をされる程、彼女が暴れたわけでもない。ただ、怒りに打ち震えて声を荒げただけ。
「だめ、・・・やめて」
どうすれば、彼らが納得してくれるのか。
どうすれば、従業員の行おうとしている、女の子の口を塞ぐという行為が止まるのか。
効果的な、言葉を。説得力のある、彼らを確実に止められるだけの言葉を。何とか探そうと口を開くのだが、出てくるのは、ただただ弱い、何の威力もない声。そんな自分の声を気にするように、従業員たちが顔を見合わせはするのだが、完全に彼らの動きを止めるまではいかなかった。
けれど、そうやって彼らが気にする素振りを見せるのは、自分と同行する蒼羽の存在があるからだ。
蒼羽を敬いその言葉を聞き、従い。そうして、蒼羽が大事に扱う自分をも、彼に準ずる扱いをする。自惚れでも何でもなく、蒼羽に大事にされている自覚はある。それを傍から見る従業員の目には、奇異なものに映ろうとも。
それならば。
「蒼羽さんに言う・・・、嫌って言ったのに、聞いてくれなかったって言う!」
蒼羽の名前を口にして、ようやく言葉が自分のものになった気がした。子供じみたものだと分かってはいたが、それが本当に効力のある言葉だと。怯んだ様子を見せる彼らを目にして確信する。
「・・・そのお嬢さんの勝ちだな。言うとおりにした方が君達の身の為だ」
しん、としばしの沈黙を挟んで、後方から低い声が聞こえてきた。
振り返ると、暖炉の前のソファに座った老人と。彼の奥さんだろうか、その腕にそっと身を寄せている女性。
「しかし、」
「皆さん!」
言い辛そうに口を開いた、先程の年配の従業員を抑えるように。
その見た目からは考えられない程の張りのある声がロビーに響く。すっと立ち上がった彼が、この空間の客たちに呼びかける。
「夜中に叩き起こされて不快だろうが、幸い、体も持ち物も無事だった。功労者は、偶然居合わせたトリスティン家の秘蔵っ子だと言う」
この人は、大勢に対して話し慣れているのだ、と。
その声の出し方や、言葉の切り方を聞いていて、そう思った。蒼羽の事を口にして、彼に注目する人々を見渡すその絶妙な間は、皆の反応を待っているようだ。
「彼の大事なお嬢さんが嫌がるなら、そこの盗人達の口を塞ぐくらい、我慢しようではありませんか」
きれいに色の抜けた白髪も、彼の隣でにこやかに微笑む夫人も。もちろん、その身を包む衣服も。
上品にしか見えないのに、何かの引力がある。
ざわざわとしながらも、頷いたり、何事もなかったかのように寛ぎ始めたりする人々は。それぞれが彼の言葉に納得したのだろうか。
「こちらにおいでなさい」
魔法みたいだ、と彼らの反応を見てそう思った時。
柔らかな声が自分にかかる。自分に言われたと分かったのは、その声の持ち主、夫人がこちらを向いて手招きをしていたからだ。床に落ちた膝掛けを拾って、彼らの元へ。
「・・・あの、ありがとうございます」
「頭を下げることはない。・・・ああ、君達はいい加減口を閉ざせるな?」
礼を口にすると、老人が微笑み、それから厳しい声が自分の頭を通り越して、大人しくなった三人へと向けられた。さすがにこれ以上何かを喋るのは、また同じ事の繰り返しとなるからか、神妙な顔で女の子が頷いた。
「お座りなさいな。貴女は誰かといた方がいいのよ」
立ったまま、あちこち視線を巡らせていると、夫人がそう言って。それに従い腰を下ろし、所在無く、手に持っていた膝掛けを広げたら。くす、と小さく笑われた。
「迷子のような顔だね。寛ぐことはできないのかな」
妻の笑みを継ぐように、彼女の隣へ座り直した老人の声。頷くこともできず、何を言えばいいのか分からなかった。
じっとしていると、目の前にカップ。
「あ、ありがとう、ございます・・・」
差し出したのは、一番初めに自分の傍に立っていた従業員。飲みかけのそれを、先程座っていたソファの前にテーブルに置き忘れていたのだ。それをわざわざ届けてくれた。
彼らの弱みをついて脅したようなものなのに。
「ごめんなさい・・・」
「いえ、お謝りなさらないで下さい・・・止めて頂いてどこか安堵しております」
静かにそう言い置いて、彼は背中を向けた。
「もうすぐ彼も帰ってくるだろう。妻も言っていたが、君は一人にならない方がいいな。もうトリスティンの屋敷で暮らしているのかい?」
尋問ではない。優しげな口調で問われて、首を振る。
あの家で暮らすなど、とんでもない。場違いだ、とは言えなかった。
「・・・慣れていないようだが、人を使うことを覚えなさい。このままだと、君が一人でいる事を心配する人間が増えていくだけだ。もう少し、自分の安全を確保することに気を遣った方がいい」
小さな子供に言い聞かせるようなそれに、素直に頷けばいいのだろうか。
ベリルやオーキッドの家で過ごしていた間、誰かに世話を焼かれる事は、くすぐったくて居心地が悪かった。あれもこれもと自分に与えられる、好意からくる施しに。慣れろと言う方が無理な気がする。ただ、蒼羽の傍にいるには、彼らの力を借りない事には、とてもやっていけないのだ、とそれも分かっていたから。
「ああ、帰ってきたようだね」
「っ、あ、」
返事をする前に、老人の顔が廊下の奥へと向く。
示された先に、蒼羽。
「緋天、・・・移ったのか?」
蒼羽の伸ばした腕に頬を撫でられて、彼を見送った時とは違うソファに座っている事を尋ねられる。間近で微笑む老夫婦を気にしながらも、蒼羽はこちらの体を引き上げて、部屋の隅へと誘導した。
「ここにいる全員を見渡せる場所にいたいんだ。暖炉の傍の方がいいか?」
「ううん。蒼羽さんと一緒がいい」
一番端の、廊下に近いソファ。
そこまで連れられて、彼と一緒に座って。ようやくほっとした。
引き寄せられて、蒼羽が怪訝そうにこちらの顔を覗き込む。答えたそれに、蒼羽の口の端が上がった。
「・・・緋天? 寝てもいいぞ」
短い時間に色々な事がありすぎて。
どこから蒼羽に言えばいいのか。言えば蒼羽に余計な怒りを招くだけかもしれない、と考えていたら、ついに口を開けなくなった。周りに人がいるのは気になったが、蒼羽の首に額を押し付けると、その声が肌に響く。
「うん、・・・またどこか行く?」
「何もなければ、朝までこのままだ」
髪を撫でられ、眠いだろう、と上から優しい声が降ってくる。
確かにいつもならベッドの中にいる時間。けれど、寝てしまっている間に蒼羽がいなくなるのは嫌だ。
「あの、でも、用事の時は起こしてね」
ゆっくりと髪を滑る手は心地よくて、瞼が重くなってしまう。
蒼羽の小さな笑い声を混ぜた吐息が、頭の上に落ちて。
「そんなに心配しないでいい」
「う、ん・・・」
彼にぴたりと密着していると、何もかも、どうでもよくなりそうだった。
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