寒い冬は暖かい場所で 8
「緋天」
じゃり、と先程聞いたものと同じ音の後、唐突に扉が開いた。
「っ、蒼羽さん!」
毛布から顔を出すと、その塊のまま、すぐに体を引き寄せられる。
相当ぐちゃぐちゃだったのか、小さな笑い声と一緒に、髪をしきりに撫でられて。
「・・・緋天?」
蒼羽の肩に顔を押し付けて、何だか良くわからない焦燥を追いやった。
「どうした、」
「ウィスタリア様」
何かを言いかける蒼羽の声に、誰かの声がかぶさり、それが体から温もりを離す。扉の向こうでもう一度。蒼羽の名前を呼ぶ声。
「・・・ご指示頂いたように調べたのですが・・・拒否される方も多くて・・・。大変申し訳ありませんが、ご助力お願いできませんでしょうか?」
「・・・その前に、部屋を換えたい」
「はい、ここは・・・すぐにご用意致します」
「緋天、」
「っ一緒に行く」
ドア越しに会話していた蒼羽が振り向くなり。彼の言葉を遮る。
「一人で待ってるの、嫌・・・」
頬にキスが落ちたけれど、蒼羽がなかなか頷かない。
宿の人間に呼ばれているのだと、それは分かっている。彼がいなければいけない何か、そんな事態が起こっているのだとも。
自分が行けば、邪魔かもしれない。それも承知していたが、部屋に一人残されるのは嫌だった。
「わかった・・・着替えたら行くぞ」
困ったように逡巡する蒼羽を見守って、ようやく頷くのを確認する。
毛布を肩から落として触れた空気が、少し冷たくて。それが分かったのか、寝る前に用意していた服を彼がすかさず着せてくれた。裸足の指先を靴下に通して、それからブーツを履いている間に、薄着だった蒼羽はあっという間に身支度を整えて隣室に移っている。
「蒼羽さん、できた、・・・?」
バスルームに置いていた小物、クローゼットに仕舞っていた服。部屋を移るという蒼羽の言葉に疑問を覚えながらも、今それを聞いている時間はない。荷物を纏めろというそれに従って、鞄に私物を入れる。隣のリビングへの扉を開けると。
「っ緋天、動くな! 危ないからそこにいろ」
部屋の中央で立ったまま。
先程蒼羽を呼んだ人だろうか、従業員の制服に身を包んだ男性と話をしていた彼が、厳しい声を出す。
「え?」
蒼羽が早足で近付くたび、その足元で不快な音が鳴る。
「あ!」
浮き上がった高い位置から良く見れば。
リビングは酷く荒れていた。
「なんで・・・? ひどい・・・」
落ち着いた空間だったのに。淡い暖色系の花が活けてあった青磁の壺も、繊細な飾りのついたガラスの置物も、美味しいと一言漏らしたら部屋に届けてくれたお菓子の入った鉢も。
無残に砕けて、絨毯の上に散っている。その他にも、割れずに床に転がっている物が多々あり。
「・・・申し訳ありません」
人の目がある。降ろしてと言うつもりが、口から出た言葉が、自分でも驚くほど震えてしまった。蒼羽が危ないと言った理由が分かった。抱き上げられたまま、彼の手が宥めるように背を撫でたのと同時に、男性が頭を下げる。
「お預かりします」
耳障りな、割れた破片たちを踏む音。
右手に持っていた鞄は、いつの間にか蒼羽の手を経て、言葉通り申し訳無さそうにする男性に渡って。
「・・・割れて、」
「いい、壊れたのは物だけだ」
煌々と輝く灯りの下、綺麗だった真っ白な部屋が寒々しく見えてしまう。蒼羽が静かに言い置く声が、安全な廊下に降ろされて耳の上で響く。
ぎゅ、と力を入れて、蒼羽の右手を握り返した。
強張った表情の緋天の手を引いて、ロビーのソファに座らせる。寄ってきた使用人にさえ怯えるように、立ったままの自分を見る彼女が心配になる。
「・・・あと少し待ってから順に回る」
「かしこまりました」
最低限の言葉で片付けて、それ以上近付くなと目線で制した。
先程捕まえた三人は、ロビーの片隅に手足を封じて転がしてある。金目のものを盗みに入ったと思われる彼らを纏める人間が、どこかに隠れているのではないか。そう思ったのは、あまりに統制のとれていないその行動を目にしたからだ。
「緋天」
腰を下ろすと緋天が不安げな顔を見せて。
それを消そうと頬に手を伸ばせば、少しばかり冷たい感覚が指先に伝わる。
「寒いか?」
聞いたそれに、彼女の首は元気なく横に動いた。逆に自分の言葉に大仰に反応した使用人が、背後で慌しく動く気配。すかさず毛足の柔らかなひざ掛けが手渡され、湯気の立つカップが差し出される。
そうやって世話を焼く彼らに、ほんのりと微笑みはするのだが、その体から強張りが解けることはなく。
「緋天、どうしたんだ・・・?」
彼女が身を硬くする理由。
部屋の惨状を目にしたからだと、それだけだとも思えない。
髪を撫でると、ようやく緋天の体がこちらに傾く。膝に乗せようと腕を動かしかけて、何とかそれを留めた。今、緋天を腕の中に入れたら放しにくくなる。部屋を出てここまで来た意味がなくなってしまう。
「・・・、・・・お部屋、に」
一度噤んだ口を、もう一度小さく開けて出したそれは、聞き漏らしてしまいそうな程小さい。
「ん?」
促さなければ、先程部屋で遮られたように、誰かが邪魔をするのではと心配で。
「さっき、・・・誰か来たの」
「!?」
「・・・でも、すぐ帰ったから、・・・何かわかんなかった」
小さく息を吐いて、彼女の双眸がこちらを見上げて揺れる。
「緋天・・・・・・男か女か分かるか?」
彼女の耳の上で、他の誰にも聞こえないように声をひそめて聞いた。自分の指示で使用人に呼び出しをさせた宿泊客が、数は少ないものの、既に他のソファに座っていた。
「男の、人」
「何か言っていたか?」
緋天の声は、はじめから小さい。自分にしか届かないそれに緋天の髪を撫でて続きを促す。
「ううん・・・すごい、って驚いてただけ。間違って入ってきたみたいで、謝ってたの」
「そうか、もう来ないからな」
「うん」
ゆっくりと。
少しずつ何かを噛み砕くように頷く緋天の頭を抱えて、髪を撫でながら視線の先を部屋の隅へと動かした。自分と同じようにこちらを観察する目を返してきた三人を、しばらく睥睨して。
「・・・少し見回ってくる。泊まっている客を全員確認したいんだ」
もう一度白い頬に手をのせた。
そうする事で、緋天の戸惑いや不安を完全に無くせるなどと、思い上がる余裕はない。ただ、彼女が静かに自分の言葉を耳に入れようとしているのだと認識はできた。
「ここに客を集める。待っていられるか?」
問いを口に出しはしたが、その実、彼女に言い聞かせようとしているのだ、と。
声を出しながら、そんな自分の行動に嫌気が差した。そもそも、こんな事をしている予定はどこにもなかった。ただのんびりと、緋天を腕の中に入れて眠りについていたはずなのに。
「うん・・・」
自分のいない間に部屋に入ってきたという男が、三人の上に立つ人間だろうと。緋天の言葉で、ただの推測に確信を得た。
犯罪者を見つけ出す義理はない。
ただ、ベリルの名前で先触れを出し、自分の身分を明かして泊まっているから。宿の人間は、当然のように自分の指示を仰いできた。警備の隙をついて潜り込んだ三人の処遇より、操る誰かが問題だと口に出してしまったのは、そんな目で見られたせいだ。
「・・・すぐ戻る」
緋天の縋るような表情を前に、先程と同じ事を言い置く。
立ち上がり、小さく口付けて。
目立たないように控えていたグラファイトと、ホテルの人間を三人伴って歩き出した。
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