寒い冬は暖かい場所で 6

 

「はい、ちょっと見せてくれるかなー?」

 通された部屋にいた男は、待たせた事を詫びた緋天に笑顔を返して、その手を首元に伸ばした。

 病院ではないから、当たり前だがごく普通のソファしかない。

「蒼羽さん?」

「・・・ウィスタリア様」

 子供相手の顔と口調だったのだろう。

 浮かべた笑みを消して、低い声を出すその様子は医者に見えない。思わず動いた手に自分でも驚いていたのだが、間違ってはいなかったらしい。

「ん、・・・っと、・・・え?」

 大人しくソファに座っていた緋天を上から見守るのはやめ、一度立たせて膝の上に乗せる。

「俺、医者だけど」

「何となく嫌だ」

 口調を崩して嘆息した男の顎には無精髭。目尻に刻まれた皺が、彼の年齢を予測させはしたが、口に出した通りで、何となく。

何となく、彼に対して油断してはならないというものを感じたのだ。

先程阻んだばかりの手は、緋天に触れずに元に戻っている。

「嫉妬深いなぁ、秘蔵っ子の名が泣くぞ」

「???」

 腕の中の緋天が、不思議そうな顔で体を捻りこちらを見上げたが、それに答える余裕はなく。

「いいから早く見せろよ。こう見えても俺は結構忙しいんだぞ」

 にやりと笑う彼の前で、緋天の首元に視線を下ろす。柔らかな毛糸で編まれたタートルネック。脱がなければ、あの傷跡を診せることはできない。緋天に手を上げさせ、頭から抜けばいいのだが。

本人にはそんなつもりはないのだろう、上からずらりと誘惑としか思えないボタンが並んでいる。

二、三個、それを外せばいいのだ。だから、男の手がそこに伸びた。緋天に近付いたそれを無意識下で制してしまったのは、別の男に緋天の服を脱がせるような真似はさせたくないから。

「・・・ちょっとは加減できないのか?」

 鎖骨までのボタンを自らの手で外して、首筋の肌を渋々男の目線に晒す。そこでもう一度嘆息した彼の言葉など聞く気はない。

「ああ、かわいそうに・・・こんな無垢な子に・・・だめだよ、ちゃんと拒否しなきゃ」

「え?」

 白い肌に幾度も口付けた昨夜の痕について言われていると、緋天は気付かず。

「ま、いいか・・・これ、割と浅いね。いつの傷?」

「半年前」

 端的なその答えに、男の視線が真面目なものに変わった。

 黙って傷跡を検分するその顔は、緋天を緊張させている。腕の中で彼女の身が硬くなるのが分かった。

「・・・普通のナイフじゃないな」

 例えば、何かの事故でこの傷がついた、などと。

 そういった考えはなく、故意に傷つけられ、しかもその得物が珍しいものだと判断した彼の。医者としての能力なのか、それともただの観察力なのか、どちらかは分からないが、信用に足るものだと思った。

 

 緋天の肌に傷をつけたナイフ。

その刃の腹に当たる部分に、目には見えない程の細かな切れ目が入れられていた。切れ目と言えば、ただの刃こぼれのようでもあるが、その実、鋸のような規則性を持ったもの。

刃先で悪戯に引っ掻いたような、複数の浅い切り傷とは別に。

一筋だけ、腹部分で付けられた傷が、いまだに残っているその理由。鋭利な刃物でつけた傷とは違い、傷口の皮膚を更に壊すようにしてしまう。緋天の肌に浮かんだ、忌まわしい傷跡。

今となってはただ、早く消し去りたいだけだ。

思い出せば思い出すだけ腹立たしくなりながらも、医者の言葉が緋天の身を更に硬くさせていた。

この上、自分の言動にまで、緋天に怯えてほしくない。

 

「今夜と、それから明日もできるだけ長く浸かるようにな。それで消えなきゃ、もう二日だ」

 緋天の強張った頬を撫でてやると、ようやく自分の表情に気付いたのか、彼の声音が柔らかくなる。

「完全に消えるのか?」

「ああ、この程度なら三日もあれば充分だと思うが」

 三十分ほど浸かっただけでは、やはり駄目なのだ。だが、消えると確信を持って言う医者の言葉は有難かった。

「・・・ついでに聞いておきたい。古い傷が消えにくいという事は?」

「ないな。俺は長いことあの湯を研究してるが、新旧は関係ない。ただ、傷が浅い深い、それだけだ。傷跡がひどけりゃ、その分、治癒にも時間がかかる」

 付け足した質問は、緋天には関係ないもの。

 この場にいないベリルから、聞いてきてくれと頼まれたその目的の。アルジェの背にある傷跡は、随分ひどいらしい。直接見たわけではないから、自分には判断できないが、男の言う通りなら、まとまった時間が必要になるのだろう。

「あの、いっぱい浸かったら治りますか? 一気に時間とれなくても、一ヵ月に一回とか・・・」

 じっと黙っていた緋天が突然口を開いたのは、このやり取りがアルジェに関係することだと気付いたからだ。

「そうだなぁ・・・随分気の長い話だろうが、いつかは治ると思う」

「緋天、あいつはそんな暢気な性格じゃないぞ」

 医者の返答がやけに面白く感じて頬が緩む。

 ベリルはそんな風に時間をかける気はない。治すと決めたら、無理やりにでもアルジェと二人でここに来るだろう。信憑性のなかった話を、緋天の身で証明してみせたのなら尚更。

「ひぁ、・・・え?」

「世話になったな」

 緋天を抱き上げたまま、男の呆けたような顔を視界から排除して、踵を返す。

 用は、もう済んだ。

 

 

 

 

「蒼羽さん」

「ん?」

 膝の上、一番甘やかされる場所に置かれて、間近から蒼羽に覗き込まれる。

「馬、動いた・・・?」

 頬にあてられる掌は、そのまま耳をくすぐって首へと滑って。

「ああ、触りたかったんだろう?」

「う、ん・・・でもいいの」

 小さなキスをひとつ落としてから、蒼羽の口元が笑みの形になる。

「ベリルの家にもいるぞ。暖かくなったら乗るか?」

「・・・乗れないから、さわるだけ」

 優しく問われて、少し恥ずかしくなる。

 サンスパングルにも、トリスティンにも。何でも揃っているその環境で育ってきた蒼羽は、何でもできるような気がした。もちろん、それ相応の振る舞いを強いられてきたのだろうとは想像できるのだけれど。

「ん、蒼羽さん・・・ボタン、」

 先程医師の前で首筋を見せた時のまま、外されたボタン。キスを落とされながら、そこより下も外されていくのが分かった。止めようと思って出した声は、蒼羽の唇に飲み込まれていく。

 

「緋天、三週間離れているのと、夜だけ会えるのと、どっちがいい?」

 

「え?」

 終わりそうにないと思った口付けを途中でやめて、彼の腕が背を引き寄せた。

 途端、頭の上から降りた言葉に、思わず聞き返して。

 

 

「来月、また総会だ」

「や、・・・」

 言い直されたそれに、ようやく蒼羽が伝えようとしている事が分かった。反射的に出た声が、彼を困らせるものだと気付いたのは、その手が髪を撫でてから。

 

 蒼羽と離れていたあの期間、前半はただぼんやりと空虚に過ぎて。後半は、正体のわからない人物に怯えて過ごして、何かが壊れてしまいそうだった。もう、あんな事は起こらない、と分かっていても、ただ蒼羽に会えない日々を過ごす自信がない。そう言ってしまうのは、恥ずかしいことだとしても。

「俺も嫌だ」

 耳の上に落とされた囁きに、蒼羽には受け入れられているという確信。けれど、蒼羽以外の人にはどう取られるのだろう、と思うと怖くて顔を上げられなかった。

「緋天、・・・緋天、いいんだ、・・・本当は、俺が傍に置いておきたい」

「でも、そんなの・・・、っ」

 頬にあてられた掌。蒼羽の目を見るように促され。

「蒼羽さん」

 動いた口からこぼれたのは、それだけ。何かに迷うたび、困るたび、寂しくなるたび、もう口癖のように彼の名前を呼んでしまう。

 背に回る手に、誘うようにもう一度力が入り、更に蒼羽に近付いて。

 自ら蒼羽の視線に囚われてしまう。

「・・・来るか?」

 ワインレッドの、その奥の。

 紺色と混ざり合った濃い部分。艶めいて、全てが許されるような夜の闇。

「うん・・・」

 あっさりと負けて、縋った答えに。ふ、と小さく息を吐いて、笑った目。

もう駄目なんだと、本当は分かっていた。

前よりも、もっと。蒼羽が近くにいない事を恐れてしまう。会えない時間が長いと、全身が蒼羽の腕の温もりを求める。

「・・・蒼羽さん」

「ん」

 もう一度彼を呼んで、ただ甘えるだけで良かったのだろうか、と猜疑する気持ちを抑えた。それでいいと答えるように、蒼羽のキスが落ちてくる。

 腕を首に回したら、その体がもっと近くなって。そうする事も、最近覚えたのだ。自分から近付けば、蒼羽が更に引き寄せてくれると分かったから。

 

ふわりと抱き上げられて、目を閉じる。

 何かが怖くて。蒼羽とひとつになりたかった。

 

 

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