寒い冬は暖かい場所で 4

 

 最近は、そう夢にうなされることはなかった。

 だから、起き抜けに瞳を潤ませて自分を呼んだ緋天が、懸念していたように悪夢をみたというわけではなく、ただ単に一人でいたのが嫌だったのだと、そう気付いた時に。近くにいたがる彼女に、手を引けるわけがない。

 食事もそこそこに、しかも、昼間は彼女の体調がすぐれなかったということすら忘れ。

 

「ああ・・・」

 

 やってしまった、と。

 純白の絹のシーツに散らばる、緋天の髪を手櫛で整えて。

 出したため息は、緋天の小さな寝息に混じる。

 

 心地よい疲労感と一緒に眠りに落ちて、目が覚めたのは、自分には珍しく随分と時間が経ってからだった。既に日は中天に近く、分厚いカーテンを開けると眩しい光が一斉に襲いかかってきた。もう一度ベッドに戻り、毛布にくるまる緋天の瞼に唇を落とす。

 無理に起こす気など毛頭ないが、そうせざるをえない引力を、緋天は持っていた。

 右腕を暖かい緋天の体に回し、左手は小さな後頭部へ。更に指先を髪束に差し込んで。

 これが、眠る彼女に対する最上の位置だと思ったのは、いつのことだっただろうか。

 

 首筋を緋天の吐息が撫でる。

 煽るなと言ったところで、本人は意識がないのだからどうしようもない。彼女にとって必要な睡眠時間は、もうとれているはず。それに昼食まで抜いてしまうのは、緋天の体調をまた崩してしまう。

 などと言い訳じみた事を思いながら、小さなキスをいくつか落とす。

「・・・ん」

 ゆっくりと彼女の柔らかい唇を啄ばんで、その目が開くのを待った。

 睫をふるわせるその様や、小さな声を漏らすそれが、たまらなく愛しい。

「あさ・・・?」

「昼」

 不思議そうに自分を見上げ問われる。返した答えは緋天の口元に、悪戯が見つかったような子供の笑みを生んだ。

「・・・起きる」

 口に出すのは、そうしないと自分が彼女を求めてしまうと心配しているからだ。わずかに身じろぐ緋天を抱えたまま上体を起こすと、昨夜眠る前に着せた自分の部屋着が、右肩から抜け落ちそうになる。

「今日は温泉行く?」

 無邪気に首を傾げるその動作で、白い首筋が更に露になり。

 目に見える肌には、自分が落とした口付けの痕があちこちに散って。

「・・・蒼羽さん?」

 言葉を失っている間に、怪訝に思ったのか緋天の背が少し伸びて鼻先に甘い香りが届いた。思わずうめき声を漏らしそうになり、それを何とか止めて、細い首を撫でるだけにした。そこに薄く残る傷跡を消すのが目的。

「先に食事だ」

「うん」

 手を離したら、自分には緩慢に見える速度でベッドから降りる緋天を目で追うだけ。

 浴室に向かう彼女についていこうかと迷い、実行するのはやめた。

 

 

 

 

「・・・あれ?」

 蒼羽に左手を繋がれて、ドアを開けた先の廊下の色彩に戸惑った。

 思わず振り返った、昨夜からずっと閉じこもっていた部屋の中は、全体的に白っぽい。磨かれたクリーム色の石材の床と、生成りの壁紙と、銀糸の刺繍が入った純白のファブリック。まぶしいくらいの明るさのそことは違い、廊下にはレンガ色の絨毯と、焦げ茶の木材の壁。

「緋天」

 立ち止まってしまった自分を促す彼の声に、前に向き直る。

「この部屋好き」

 真っ白の空間と、蒼羽は、雰囲気的には合わないのかもしれない。

 例えば、蒼羽よりはベリルの方が似合うような気もする。ベースと、サンスパングル家の蒼羽の部屋の色合いからは随分とかけ離れているから。ただ、何となくこの部屋が、自分が落ち着く空間に整えられている気がした。

 にこりと笑う蒼羽に連れられて、足を進めていくと、年末のパーティーで見た男性達が纏っていたものと同じ型の服を着た数人に頭を下げて迎えられた。

「緋天」

朝の挨拶をする時間でもない、と思いながら反射的に同じように頭を下げようとしたら、先程とは違う声音で蒼羽に呼ばれる。見上げた先には、眉を寄せた彼。これは、ベリルの家と同じで、使用人に頭を下げるな、という注意なのだろうか。

「気にするな」

「・・・気にするもん」

 周りには、ここの従業員しか見当たらない。

 揃いの服を身につけている彼らの行為を気にするな、と言われても、そんな生活をしてきたわけでもないから、慣れる事もないのに。

 案内された、レストランのような空間の、大きな窓の向こうには雪景色。蒼羽やベリルが甘やかすから、椅子をひかれる事にはようやく慣れた気がする。座ってから、誰もいないと思っていた事が間違いだと気付いた。蒼羽の肩の向こう、広すぎるくらいの充分な距離をおいた場所に、老夫婦が上品な笑みを浮かべながら食事をしていた。

 そうやってぼんやりしていると、何かを聞かれる事もなく、湯気をあげて紅茶が注がれる。傍らに立っていたのは年配の女性で、何となくほっとしながら口をつけて気付いた。ここは、気の張るような場所ではなく、先程の部屋といい、そうしたのは蒼羽ではないか。

 目の前に並べられていく料理も全部、自分の好きなものばかり。

思わず口元を緩めると、向かいの彼にくすりと笑われたが、嬉しかった。

 

 

 

 

ベリルが手配した宿から、目的の温泉まではそう遠くない。雪原の中に見える青い屋根の建物だと教えられ、玄関前で指差されたそれに向かって歩いているのだが。

「蒼羽さんは、水着どんなの?」

 除雪された道があるのに、わざわざ雪の上を歩こうとする緋天を連れ戻して手を繋ぎ直していると、彼女がふいに問いかける。

「あのね、京ちゃんがね、スクール水着はダメだって」

 困惑を表情にのせてそう言う緋天の。意図が量れず次の言葉を待つ。

「蒼羽さんはどういうの?」

「・・・普通のだ」

 スクール水着というそれが良く分からない。今から行こうとしている温泉は混浴で、水着着用が前提。そもそも、緋天の肌を他人の目線に晒したくない。可能な限り、男のいない場所を確保しようと考えただけで、自分の水着がどうだとか、そんな事を気にしていなかった。

 自分の出した答えに首を傾げる緋天の、柔らかな手袋に包まれた掌をコートのポケットに入れてやると、嬉しそうに笑ってこちらを見上げる。

 彼女が純粋に温泉を楽しみにしているのは分かっている。

 緋天は入浴が好きで、普段から自分の三倍は時間をかけて入っているから。広い浴場も好きなのだと気付いたのは、夏に旅行に出かけた先。

 

 

「あ、ここ?」

「緋天はそっちだ。分かるか?」

「うん」

 辿り着いた屋根の下、女性の脱衣場への入り口を示して、緋天の手を離した。いそいそと扉の向こうに消えていく彼女を見届けて、同じ事を短時間に二度も行う自分に気付く。

 男の脱衣場の扉を開けて中へ入ると、年寄りが一人、服を脱いでいるところだった。壁面に備え付けられた棚には、複数使用されている形跡。中に何人かいるのだろうと判断して、素早く服を脱いだ。

 とにかく、緋天より先に中にいなければ、彼女が誰かに見られてしまう。

 備品として置かれていたタオルを手にとり、外に出る。途端に冷たい空気が肌を刺し、それと同時に白い湯気が視界に広がった。足元は石畳、湯殿は岩で囲まれていて、人の手が入っているのは分かった。

 中途半端な時間だからだろうか、湯に浸かっているのは五人。

 中年の男の二人連れ、初老の女性が二人、若い男が一人。その全員にちらりと視線を向けられ、その中で湯に入る。湯気の量で惑わされたが、それほど熱くもない。

 これなら長く浸かっていられるだろうか、と思うが、緋天の傷は首にあるので、常に首まで入っていなければならないのは、少々辛いかもしれない。

 

「・・・蒼、羽さん」

 ざば、と派手な音を立てたのが、自分だと気付いたのは一瞬遅れてから。

 条件反射で立ち上がった体はうまく動かず、ただただこちらに向かう緋天を見るだけだった。

「っ緋天」

 膝から下を湯に入れた彼女をようやく引き寄せて、自分の体で彼女を隠す事を思いついたが、もう既に遅く。指先にも腕にも、何もまとっていない肌の感触。強引に湯の中に入れ座らせて、これは露出しすぎではないか、と密かに嘆いた。

 腕の中の彼女をもう一度見ると、一般的な型の水着ではあると気付く。それなのに、どうしても目に見える肌の面積が多いような気がするのは、普段、緋天がこんな服を着ないからだろうと勝手に結論をつけた。

「ピアス怖いから外したんだけど、指輪は大丈夫だよね?」

「ああ・・・外すな」

 起きた時にも確認したが、昨夜つけた口付けの痕がそこかしこに散らばっている。男避けにはなるだろうが、逆に煽るような気もするし、何より自分がそれを目にしながら手を出せない状況が腹立たしい。

 半身をひねって自分を見る緋天に答えてから、首筋の傷が湯に浸かっている事を確認する。

「・・・蒼羽さん、あの、恥ずかしい・・・」

「ん?」

 指先に伝わる、その正常な肌とは違う感触を撫でていると、緋天が小さく呟いて。わずかに身じろいで下を向いてしまう。充分に距離は置いているつもりだったが、やはり緋天が他の入浴する人間に見えている。隠しもせずにこちらに視線を向けているのは、主に男達。

 湯の中とはいえ、透かし見ることは可能。緋天の了解を得る前に、その腰に手を回してこちらに向けた。足の間に入れて、所有者は自分だと主張する。

「なんで閉じるんだ?」

 戸惑うように目線を泳がせて、緋天の瞼が落ちた。力を入れて閉じているのがわかる。そこに唇を寄せると、ぴくりと震えて濡れた目がこちらを見る。

「恥ずかしいもん・・・」

 緋天がそう言う理由が、見られているから、という先程のものとは違うことを示しているのだと。またも目を閉じたその行動が物語る。

 明るい陽射しの中で、自分と入浴している事が緋天の羞恥を煽っている。水着など着ていない状況で、二人だけで入浴したことも何度かあるのに。そもそも緋天は自分が上着を纏っていないと目を逸らす。いつまで経っても慣れないのは未だに謎だ。

「・・・これは他でも着るのか?」

「え? ううん、海とか行かないし・・・」

 緋天の気を別のところに向けようと、彼女の白い肌を覆う白い水着の、背で結ばれたリボンを触る。これと、首の後ろの同じようなリボンを少しでも引っ張れば、脱げてしまうではないか、と妙な焦りと、実際にやってみたいという衝動が混ざり合う。

「そうか・・・、暑くなければいいんだな」

 ぱち、と開いた目が不思議そうに自分を見る。緋天が海に行かないというのは、蒸し暑い夏に出かける気力がないからだろう。昨夏、どれだけ体力を消耗していたかはこの目で見た。

「ベースの近くに湖があるんだ。誰も来ないし、今年は泳ぎにいくか?」

「うん!」

 人がいないところで、思う存分、この格好の緋天に触りたい。

 そんな煩悩に駆られているからか、緋天の言葉からそんなことを思いついた後。

「・・・泳げるのか?」

 嬉しそうに頷く彼女を見て、若干不安になった。夏が苦手で外に出ることもできないのなら、泳いだ経験などないのでは、という心配。それを口に出した途端、緋天の頬がふくらんでいく。

「ひどい・・・ちゃんと25メートル泳げるもん」

「楽しみだな」

「っ、なんか蒼羽さんが久しぶりに意地悪・・・」

 小さな水音を立てて緋天が後ろへ体を引く。そんなに簡単に離れられないように、片手を背に回しているのに。

「んっ、ずるい・・・」

 もう一度近くに引き寄せると非難の声があげられる。

「あまり変わらないな」

 先程から撫でている傷跡から指をどけてみたが、それが薄くなっているようには見えなかった。口にした途端、緋天の眉が下がる。言葉にすべきではなかったとその表情を見て後悔した。

「・・・のぼせてないか?」

「うん、まだ大丈夫」

 宿の人間の話では、湯そのものではなく、この場の岩に治癒効果のある成分が含まれているらしい。ただ、それだけでは普通の薬程度の効果。それが湧き出る温泉に混ざることで、何故か治癒速度が数倍になるとの事。

 どちらか一方では駄目なのだ。また、湧き出た直後の湯でなければ、効力もない。結局、外へ持ち出す事は不可能で、この場に直接赴かなければ意味がない。

 だからこそ、外部へあまり伝わらない。ベリルが知り得たのも、相当調べての末。

「緋天、ここが駄目なら、別の方法で消すから気にするな」

「・・・、でももうちょっと浸かってく」

 少しだけ笑みの形になる口元を確認して、空を仰ぐ。晴れたままなら、夕食後にも来てみる価値はあると思う。時間は惜しいが、できるだけここにいた方がいいのだろう。

 

触れるだけ、と言い聞かせながら、緋天の背を引き寄せる。

これだけ近いのに我慢をするという状況が、なんだか試されている気がした。

 

 

     小説目次     

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送