寒い冬は暖かい場所で 3

 

「・・・緋天?」

 昼食を挟み、一時間ほど経った頃。

 本を読むことに飽きたのか、朝と同じように窓の外を眺めていた彼女が、体を完全にソファへと戻した。それならばこちらに引き寄せようと、左手を伸ばしたところで、同時に耳に届いた吐息が、妙に深い。

「っ、どうした?」

 自分の呼びかけに答えずに、深呼吸をするようなその様子に、何かおかしいと顔をのぞきこめば、その血色が悪い。思わず触れた頬は冷たく、気だるげに瞼が半分閉じられていた。

「・・・ちょっと、気持ち悪い・・・」

「グラファイト!! 下ろせ!!」

 緋天のその状態が何から来るものなのか判断できず、御者台に通じる小窓を開けた。

 説明もなく下した命令に、彼はこちらを振り返り頷いて、いつもより早く旋回させて下りていく。何故もっと早く気付かなかったのだと、緋天を抱えながら後悔した。

 

 ベリルがサンスパングルの名で先触れを出していたせいか、立ち寄る街では、緋天が無遠慮な視線に晒されることもなく、うまく休憩できていたのだが。

「蒼羽様、・・・少し回ってきます」

 外の空気を吸った方がいいだろうと、降りた場所は、街ではなく、集落。

 目に見える範囲に5軒ほどの家と、その先に小道。グラファイトが緋天の顔色を見て眉をひそめ、それだけ言い置いて背中を見せた。

「緋天・・・」

「・・・大丈夫・・・酔ったかも」

 ドアを開け放ち、緋天を膝に乗せて入り口に座り冷たい風を受ける。首元で緋天が大きく呼吸する音だけを聞いて、不安をどこかに押し込めた。目の前の真っ白な雪と、指先に絡ませた彼女の黒髪。その対比が妙に心拍を煽っている気がする。

 あと一時間もあれば、目的地へ着いているはず。

 周辺には何も見えないこの場所は、本当にただの集落だ。森と家畜を放す場所の境目で、静まりかえった空間に、犬たちが足場を踏み固めてわずかに身じろぐ音と、緋天の吐息がとけていく。

「・・・もうちょっとここにいていい?」

「ん」

 その呼吸が幾分落ち着いて、今度は風邪をひくかもしれない、と思い至り、上着に包んでいると。腕の中で小さく声がする。

こういうところが、駄目なのだ。

結局、願い事にもならない、緋天のそんな呟きが、もうどうしようもなく、心臓を甘く締めつける。

 本当は、狭い室内で彼女に手を出してしまいそうだったから、少しだけ距離を置いた事が、今のこの状況の原因なのに。

 

 

「蒼羽様、お湯を頂いてきましたので」

「あら、まぁ・・・立派な・・・」

 湯気を上げるポットを持ったグラファイトと、その陶器の持ち主らしき中年の女性が、道の奥から姿を見せた。開いた口をそのままに、声を失った彼女の視線は、サンスパングルの犬たちと、緋天を抱える自分に注がれる。

「・・・お待たせしました。ベリル様からお預かりしておりましたが・・・」

 差し出されたカップからは、薬湯の香り。

口に含んで、それが入眠効果のあるものだと分かった。ベリルがこんな事まで見越していたとは思えないが、メイドの代わりとして、グラファイトにある程度知識を与えていたのだろう。

「緋天には濃い・・・緋天、少しだけ飲んでおけ」

「うん・・・」

 二人が現れたせいで、緋天が腕の中から出ようとするのを押さえて。

 こちらを見上げる彼女にカップを渡す。緋天にとっては、グラファイトの感覚で淹れられたそれが強すぎるのだ。半分ほど飲ませたところで取り上げた。これ以上飲めば、きっと明日まで眠ってしまう。

 

 

「奥様、こちらはお返しします。ありがとうございました」

「あ、いえ・・・あの、その子は大丈夫なの?」

「ええ」

 

 周辺の地形などについて話をして、彼女の興味を緋天から逸らせていたグラファイトが、急にそれを打ち切る。髪を撫でている間に、緋天の瞼が下がってきたのをしっかり見ていたらしい。意外なその気遣いに驚きながらも、緋天を荷台の中へと戻した。

「・・・ひざまくら・・・?」

 横になるほどの広さがないために、ソファに座らせた状態でその頭を足の上に乗せたら。

 小さな呟きを落としながら、眠そうに彼女の目が開く。

「痛くないか?」

「ん・・・」

 首の下にクッションを入れて、頬に落ちる髪を流してやる。気だるいのだろうか、肯定とも否定ともとれる声を漏らして、後はその瞼が落ちた。

「蒼羽様、出してもよろしいでしょうか?」

「ああ・・・礼を」

「心得ております」

 扉を閉めにやってきたグラファイトに、目線で離れたところに立つ女性を示して。

 最後まで口に出さなくても、先を読む彼に満足した。冷たい空気を遮断した空間で、緋天の血の気の薄い白い頬を撫でる。今更ながら、緋天が自分よりも体力がないのだと思い知らされた気がした。

 今夜を楽しみにしていた。そんな浮ついた気分はとっくにどこかへ行ってしまって。

「緋天・・・」

 何となく声に出したそれは、持ち主の意識を呼び起こすことはせず、ただ小さな部屋に響いただけだった。

 

 

 

 

「・・・?」

 薄暗い空間に、落ち着いた橙色の灯りが、ぽつぽつと床近くに見える。

 完全な暗闇ではなく、最近良く目にするようになった、紗の帳。それが周囲を覆っているのが分かった。

「蒼羽さん・・・どこ?」

 なんだか随分とわがままだな、とそう思う。

 目が覚めたら、彼が傍にいない事が嫌だと感じるようになってしまった。

「〜〜〜っ、・・・暗いのやだって言ったもん・・・」

 ふつ、と目の前に浮かんできた水分を、どうにか流さないように上を向く。

「・・・緋天? 起きたか?」

「っ、う〜」

 時間にして、数秒。

 かちゃりと扉の開く音と、彼の声が耳に届いて。

 暖かい空気と一緒に蒼羽がふわりと薄布を上げた。間髪いれずに伸びてきた腕にこちらから身を寄せて。

「なんで泣いてる」

「・・・知らない・・・」

 困ったような蒼羽の声に、文句を言うのもなんだか違う。

 鼻声になってしまった答えは、蒼羽をもっと困らせるような気もしたが、何となくそのままにしてみたかった。わがままの延長だと頭では分かっているのに、それでも止められなくて。

「ん、・・・」

 両瞼と、前髪と。それから、唇に。

して欲しかったキスをようやく落とされて、彼の腕が体を持ち上げて、明るい部屋へと連れて行かれるのも大人しくされるまま。

「・・・蒼羽さんがいない、から」

 ソファに座らされ、周りを伺う間もなく、蒼羽の目がこちらを見据える。理由を言えと促すその双眸に、困らせることを止めなかった、つい先程の気持ちが小さくなってしまった。怒られる、と萎縮する幼い時分のような気持ちで。

 ふ、と小さく笑む音に、血が上る。

「気分は?」

「うん、大丈夫」

 腕が背中に回されたのをいいことに、ぴたりとくっついていると耳の上で声がして。ここがどこだとか、そんな事を尋ねる前に、随分と落ち着いてしまった自分がいた。

「・・・緋天」

 柔らかく響く、格別に優しい声音には、もうすっかり参ってしまう。

「んっ、っ、ぁ、・・・誰か、来た・・・」

 深いキスを落とされながら、耳は蒼羽以外の音を拾う。きれいにふたつ、リズムをつけたノックが蒼羽の向こうから響く。途端にむっとした彼の顔が見えて、一拍置いてからその体が離れた。立ち上がった背中は自分の位置からは見えない方へと消えていき、ドアを開く気配と、静かで落ち着いた男性の声。

「緋天、ここで食べるのと、食堂に行くのと、どっちがいい?」

 唐突に戻ってきた蒼羽の言葉を、理解するのに少し時間がかかった。眠りに落ちている間に、いつの間にか夕食の時間になっていたのだと、ようやく気付く。

 自分がいる場所を把握しておきたい気持ちもあったが、この部屋から出て、別の泊り客が大勢いる場所に行くのなら。それを考えて、首を振る。口には出さなかったそれを蒼羽が確実に読み取って、奥でやり取りをする声をぼんやりと聞き流した。

 蒼羽に構われていたい、と思う。朝からはぐらかされていたから、余計に。

 笑みを浮かべた彼が、ソファへともう一度腰を下ろして。

 伸ばされた腕に、また体を寄せた。

 

 

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