寒い冬は暖かい場所で 2

 

緋天の小さな口から吐き出される白い吐息。

 規則正しく、同じ大きさのそれが生み出されていたのに、右手の中に入れた掌が、びくん、と震えたのと同時に、その息も一瞬止まった。

「・・・っ」

「蒼羽様?」

 横に並んでいた彼女の体が、強張って、それから竦んでしまったその原因が、目の前の二匹の獣だと気付いたのは、一拍置いてからだった。雪を踏んで獣たちと一緒に近付いてきた御者の男は、それに気付いていない。

「緋天、これは大人しいから大丈夫だ・・・そこで止まれ」

 背中に隠れるように、こちらの右手にしがみつく状態になる彼女に。

 高揚しそうになりながら、我に返って静止の声を出す。

 

「緋天?・・・犬は嫌いか?」

 失敗した、と今更引き返すわけにもいかず、御者が制した黒毛の獣に目をやった。

 姿形は犬に似ているが、体格は馬と同じくらいで、緋天がこんな風に怖がるのも無理はない。自分にとっては、少し大きな犬、というだけのものではあるが、緋天が暮らす向こう側には存在しない生き物。

 牙が見えたのが良くなかったのだろうか。

 主従関係を教え込んであるので、野生のそれとは違い、大人しく安全であるのだけれど。

「・・・お嬢様、あの・・・お初にお目にかかります、グラファイトと申します。こちらは、トープとレグホーン。見た目は恐ろしいかもしれませんが、躾も行き届いておりますゆえ、ご安心下さい」

 戸惑いながらも頭を下げる御者は、同時に手を動かして、獣たちの身を低くさせた。

 要するに、伏せの状態に。

「いいか、吼えるな・・・緋天、ほら、大丈夫だから」

 彼女の髪を撫でてから、その手を離して、大人しく伏せるトープと名付けられた犬の首に手をやる。

 口を開きかけ、再び牙をのぞかせたそれを抑えて、緋天に示す。

 毛足の長いそこに半ば手をうずめるように触ってやると、嬉しさからかその尾が揺れた。体は大きくとも、基本は犬の気性だ。

「・・・噛まない?」

「命令しなければ何もしない。触るか?」

「う、ん・・・」

 びくびくと怯えながら、一歩こちらへ踏み出した彼女を引き寄せ、強引に腕の中に入れる。

 トープの体と、自分の体の間に挟み、その手をつかんで同じように首筋を撫でた。

「あ、・・・ふわふわ・・・」

 

 ほんのりと、彼女の口元に笑みが浮かんだのを見てほっとした。

 何しろ、これに慣れてもらわなければ、予定が全て無駄になってしまう。

 エレクトラムの家から借り受けた、御者と犬。今から向かおうとしている先へはこの移動手段を使うしかないのに、緋天がそれを怖がって取り止めになるのだけは避けたかった。無理にでも触らせて慣れさせるしかない。

「・・・大丈夫かな?」

 黙ってこのやり取りを見守っていたベリルがようやく口を開く。

 まさか緋天が嫌だと言い出すわけないと予想はしていたのだろうが、やはりほっとした顔をしていた。

「そうだ、これはお弁当。着くのは夕方くらいだと思うけど・・・グラファイト、よろしく」

「はい、お任せ下さい。緋天様、こちらへ」

「あ、はい・・・重くないの?」

 グラファイトの開けた荷台の小さな部屋へと入りながら、緋天が不安そうにこちらを振り返る。

「あはは、緋天ちゃん、犬はね、馬よりもすごいんだよ」

「え?」

 ソファに身を沈めた彼女の後ろから、荷物を入れて。

 もういい加減、暖かくしてやらなければ、と自分も中へと乗り込んで、ドアを閉めベリルのくだらない会話を断ち切った。窓の外で、苦笑する彼の顔を見つけて、緋天は眉を下げる。

「緋天、少し傾くぞ」

 御者台に上がったグラファイトに、出していいと合図をして緋天を引き寄せる。

 車輪が回る音がしたのは数秒で、間もなくその音も消えた。背の方へと荷台が傾いて、それに慌てる彼女を抑えた。

「・・・っ、飛んでる!!」

「怖いか?」

 傾く理由が空へと上っているからだと、緋天の視線が窓の外を捉えて気付く。先に話をしなかったのは、どれだけの反応をするか分からず、しかもそれが負の感情だと困るからだった。首を振る緋天の表情は、嬉しさからか輝いて見える。

「あ!ベース!!」

 座っていることがもどかしいのか、身を乗り出して窓へと顔を近付ける彼女から腕を離す。とにかく、怖がることもなく喜んでいるから、結果的には良かったのだろう。

 道程は、長くはないが、短くもない。

 陸路で行けば3倍の時間がかかるところを、まっすぐに飛んで半日。緋天が疲れないかどうか、それだけが心配だった。飽きもせず外を眺める緋天はもう少しこのままにしておこうと本を取り出した。

 水平へと戻った室内は、揺れもなく快適。

久しぶりに穏やかな時間を過ごせる、と気分は上々で。

自然と口元が緩んでいった。

 

 

 

 

 窓の下を流れていく景色は、ミニチュアの街並、それと深い森。

 双方に降り積もった雪が、白いシルエットを見せる。

「お砂糖みたい・・・」

「もういいか?」

 あまりにきれいで目を離すのがもったいない程。思わず呟いた言葉に、頭の後ろから声が返ってきて驚いた。腰に回った腕が蒼羽のものだと気付いて、外に夢中でいつの間にか彼の存在を失念していたことを知る。

「んっ、っ」

 後ろへと引っ張られて、蒼羽の腕の中に。

 いきなり塞がれた唇に、ずっと蒼羽を意識の外に置いていた事を責められているようだった。

「・・・っ」

 朝から濃厚なキスをされ、ついでとばかりに耳のふちに口付けられる。熱くなった頬に、まだコートも脱いでいなかった事に気付いた。蒼羽が手袋やマフラーを外してくれるのは、自分の体温が上がったせいでなく、この小さな部屋が暖かく保たれているからだと分かるのだけれど。

「っや、蒼っ」

 コートの袖を抜いて、それをもうひとつのソファへと置いたところで、くすぐるように首筋を撫でられる。ぞくりと背中を這い上がったのは、嫌悪ではない。

「・・・もう」

 彼の唇がもう一度耳を食んで、それを最後に囲いを解かれた。

 左手だけ背中に残され、何も言わずに蒼羽へと引き寄せられる。その口元は笑みの形なのだが、視線は既に蒼羽の右膝に置かれた分厚い本の上。

 ここで大人しくしていろという事なのだろうか。

 動けない体勢であることに諦めを覚えて、体から力を抜けば、驚くほど楽だった。蒼羽にもたれているせいと、その腕に包まれている安心感で。

 古めかしいその黄ばんだページのそれは、ベリルの家に泊まった時に目にしたものと同じに見える。

 それに目を落とす蒼羽の横顔は、どこか真剣で。そういえば、あの夜も蒼羽は自分を横に置きながら、本の中の文字を追っていた。それだけ面白い何かがあるのかもしれない。

「蒼羽さん、それ・・・何の本?」

「ん、・・・日記のようなものだ、・・・昔の」

 ちらり、と自分の方へ視線を向けてから、何となく歯切れの悪い答えが返ってくる。彼にしては珍しく。それ以上を聞いても、きっと誤魔化されてしまうのだろう、と予想がついた。蒼羽がこんな風になるのは、決まって自分の事が原因であったりもする。

「暇だろう? 緋天のは適当に選んできたぞ」

 薄い金属に何かの模様を掘り込んだ栞を本に挟み、重い音を立てて一旦それを閉じた彼は、腰を浮かせて向かいのソファにある革鞄に手を入れる。

 こちらに体を戻した蒼羽が手にしていたのは、数冊の、薄い布張りの本。

「わぁ・・・」

 手渡されたそのどれもが、高価だと一目でわかる装丁だった。金箔と銀箔でタイトルらしき文字と、繊細な模様が描かれている。中身はもちろん、自分には理解できない言葉の羅列なのだけれど。

「・・・えっと、これ見てる」

「ん」

 どうやら彼は本格的に自分に邪魔をして欲しくないらしい。

 蒼羽の期待する言葉を口にすると、彼は満足そうに微笑んだ。どちらにせよ、最近、こちらの文字を勉強し始めたところなので、蒼羽が用意してくれた、子供向けの絵本はありがたい。

 ありがたいのだけれど、少しだけ面白くない。

 ただそれを顔に出せば、蒼羽が困るのは分かっていたから、黙って彼の腕の中で本を開いた。

 この位置にいても、彼が嫌がらないことだけが嬉しかった。

 

 

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