暑い夏は涼しい場所で 6
薄暗くて狭い裏路地。
表通りの喧騒が耳に届くのに、ここには誰もいない。
性質の悪い男達と、自分以外は。
無理やりに塞がれた唇。
嫌悪感と恐怖。鳥肌。
吐きたくなるような異質な感覚。体を這い回る手。嘲笑。
黄色い目からの舐めるような視線。
「やぁぁっっっ・・・」
白い天井が目に入った。涙がこめかみを伝っている。息が荒くなっていて、嫌な汗が背中と額ににじんでいた。さらに頭痛が不快感を煽る。
ここはホテルで。あの場所ではなくて。今のは夢で。
そう判ってはいるのに、なぜか震えが止まらない。ものすごく広いベッドから身を起こす。
「蒼羽さん?」
思い出してしまった恐怖を抑えてくれるはずの彼が見当たらなくて。
急いで手近にあった服を引き寄せた。
シャワーを浴びて火照った体を冷やそうと、ベランダで風を受けていた。幸せな気分に満たされていて、ぼんやりとする。こうやって意味もなくじっとしているのも悪くない。
夕焼けに染まる景色を見ながら、何故こんなにも大事なのだろう、と少し哲学的な気分になった。
緋天の存在自体が自分にとっては特別で。
誰にも見せたくないし、触れさせたくないと、強く思ってしまう。絶対に他の人間では代用がきかない。そんな事がはっきりと確信できるのに、何故緋天がその対象になったのかが判らなくて。
理由なんて見つからない。彼女の全てが愛しい。
「蒼羽さん、どこー・・・?」
小さな声に名前を呼ばれて、ぼんやりとした思考から現実に戻る。
「外だ」
目を覚ました彼女に素早く答えた。
「蒼羽さん」
バスローブを着た緋天が駆け寄ってきたのを、膝の上に乗せる。
「蒼羽さん」
強張った表情が夕日に照らされた。すがるように自分を呼ぶその声。睫が濡れていて、涙を流していたのが判った。途端に焦りが背中を這う。
「どうした?」
急いで目を覗き込む。緋天を支えた腕に、細かい震えが伝わった。
目を伏せた緋天が肩口に顔をつけて。そっと口を開く。
「頭痛い・・・嫌な夢、見たの。・・・だけど平気。蒼羽さんいるから平気」
小さくつぶやいたその声は、弱く響いて。何となく、その夢の内容も想像できた。何故、眠る彼女がうなされている時に、目覚めたその時に、傍にいなかったのだ、と。それを悔いた。奥底から甦った怒りと、緋天が思い出しただろう恐怖をなだめる為に、その髪をなでる。
「・・・足、しびれない?」
太陽がちょうど沈みきった時、緋天が体を離して顔を見せた。
そこには微かな笑顔が戻っている。
「何でだ?」
意味が判らず問い返すと、困ったような表情で膝の上から降りようとする。
「だって重いでしょ?」
「全然。むしろ軽すぎだ」
その腰をつかまえて、元の場所へ戻した。
「ええ?前から思ってたけど、蒼羽さん平気であたしの事抱えたりしてるのって、すごい力持ちって事だよ?普通はそんなに簡単にいかないと思う、と付け足す彼女の髪に口付ける。
「そうなのか?・・・まあ、運動能力を維持する為に適当に鍛えているけど。緋天を抱えるくらい出来ないと色々不便だろう・・・」
そう答えてから緋天を抱き上げて立ち上がる。日が暮れた後の風は、その体を冷やそうとしていた。
「・・・明日は遊びに行きたいな。だめ?」
ふいに緋天が口を開く。下から見上げられて、たじろいだ。
首をかしげたその表情に、本当は閉じ込めて独り占めをしたい気分が打ち砕かれる。否定の言葉など吐ける訳がない。
「ん。どこに行く?」
「わかんないけど、後でホテルの人に聞いてみるー」
嬉しそうに弾む声を出すその唇に軽くキスを落とす。
「夕飯までまだ時間があるから。少し休んでろ」
部屋に入ってベッドに緋天を寝かせた。灯りの下で見ると、頭痛のせいなのか、やはり顔色が悪い。おとなしく目を閉じたのを確認して、ベッドから離れた。
「やっ。蒼羽さん、どこ行くの?」
急に声を上げた緋天を振り返ると、一瞬前までは落ち着いていたのに泣き出しそうな表情に変わっていた。
「薬をもらってくるだけだ」
「やだ。そんなのいらない。すぐに治るから、行かないで」
思っていたよりも、夢から受けた恐怖は大きかったようで。必死に自分を引き止めるその様子は、不謹慎ながら甘い刺激を与えた。口元が緩むのを感じつつ、緋天の髪をなでる。
「判った。薬は持ってきてもらうから」
「う、ん・・・ここにいてね」
抱きしめたい衝動に駆られながらも、緋天にうなずいてみせる。
そのままフロントに連絡する為に、サイドテーブルの電話に手を伸ばした。
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