9.
「緋天ちゃん、おはよう!」
寝不足の体を引きずって、ベースの扉を開けるなり、ベリルが満面の笑顔と共に待ち構えていた。
「あ・・・おはようございます・・・?」
戸惑いつつ挨拶を返すと、その高い背を屈めてから青い目を細めこちらを覗き込む。
「うーん。やっぱり顔色悪いね。今日は昼まで寝てなよ。ね?」
「え、でも・・・」
「いいから寝てなさい。午前中は有休の半分使う事にすれば問題ないからさ。センターにはもう連絡してあるから」
昨日の蒼羽と同じ事を言い出すベリルに反論しかけると、そう遮る。
どう返そうかと思考を巡らせていると腕を掴まれた。
「はいはい。そんな顔して平気とか言わないでよ。倒れたりしたら、緋天ちゃんのご両親に申し訳ないし。蒼羽は上にいるから」
そのまま引っ張られて階段の前にたどり着く。
いつになく強引な、少し厳しい口調のベリルにそれ以上反論できなくて。
「・・・ありがとうございます。でも、お昼になったら起こして下さいね?」
「うん。よしよし。素直が一番」
感謝の言葉を口にすると、ベリルは破顔して、それから久しぶりに頭をくしゃりと撫でる。
ほんのり心が温まって、階段を上った。
「蒼羽さん?」
ノックしてつぶやく。つぶやいてから、彼はもう眠りについてるはずだと思いついて、どうしようかと逡巡する。
そっと扉を開けようとしてドアノブに手をかけると、内側からそれが開いた。びっくりしていると中から腕を引っ張られる。パタンと、背中で扉の閉まる音がして。
「そうっ、んっ」
気付けば蒼羽の腕の中で唇を塞がれていた。口の中を激しく攻められて体から力は抜けていった。そこを抱え上げられる。見上げれば鋭い表情。声をかけようとする気力が削がれてしまう。
「眠れなかったんだろう?」
ベッドの上に降ろされて、サンダルを外しながら蒼羽が口を開いた。それは冷たい空気を含む声で。その目も咎める様に自分を見ていた。
「緋天が仕事の事を気にかけてるのは判る。だけど昨日みたいに1人で抱え込むな。何でそうやって遠慮するんだ?」
「ごめ、」
「謝るな」
鋭い口調のまま、言葉を遮られる。その顔に浮かぶのは間違いなく怒りの表情。
「謝って欲しいわけじゃない。緋天に1人で震えて欲しくないんだ」
「ご、」
「だから謝るな」
思わず出かけた言葉にさらに苛ついた声が重なった。
何だか、彼のことを怖いと思っていた頃に戻ったような。そんな声色。
蒼羽を怒らせたかったわけではないのに。
みるみる緋天の目に膨れ上がる涙を目にして、浅はかな自分を呪った。
ただ判って欲しかった、頼りにして欲しかった。
知らず知らずの内に緋天を責める様な口調になっていて。さらに彼女を追い詰めてしまった。
「・・・緋天」
ため息を吐き出して自分の言動への怒りと後悔を沈める。
「だ、って・・・っ!蒼羽さ、んの邪魔になるんだもんっ」
目にたまった涙があふれるのと同時に緋天が声を上げる。その言葉を否定したいのに、その前にそういう風に思っている緋天がショックで。
「1人でいるのが嫌だなんて言って、蒼羽さん達を困らせたりしたくないっ・・・。1人占めなんてできないもん!っ、そんな我侭言ったら追い出されるっ、だけ、っだもん!!」
一気にそう言い切ると、その目から次々に涙がこぼれ落ちる。
「緋天・・・」
「っ!うっ・・・っく」
顔を隠すかのようにその涙を拭う彼女に。
手を伸ばして、それを拒否されはしないかと恐れが湧き上がった。
それでも、ただ見ているだけということは到底できずに、背中に腕を回し抱き寄せる。びくりと反応する緋天に離れるなと言い聞かせるように。腕に力を入れた。
首元から伝わる、嗚咽。抱きしめると張りつめていた糸が切れたように泣き始めた。そうやって自分の腕の中で泣いてくれるのが唯一の救いで。違うんだといくら言葉を重ねても、今の緋天には届かないのだろう。その不安を取り除く事ができない自分が腹立たしかった。
「ん・・・」
声を上げて、しゃくりあげて。
しばらく泣き続けていた緋天が、いつのまにか静かになっていて。体を少し離して覗き込むと、ぼんやりとした目で自分を見上げていた。
「昼まで寝るか?」
そう言うと、こっくりと頷く。濡れた瞳から残っていた涙をなめとって、ベッドに横にさせても抵抗せずに自分に動かされるままだった。引き寄せて、そのぼやけた視線を受けとめる。
昨夜の不安を今吸い上げるように、髪をゆっくり撫でると彼女はほんの少しだけ微笑んだ。それに救われて、自分の口元にも笑みが浮かぶのを感じた。
夢を見ずに深い眠りについていた。
その眠りに落ちる前に、自分がした事を思い出す。
子供じみた振る舞いを、暗に自分の我侭を。そして涙を止められずに。
疲れている蒼羽を困らせて。何がしたかったのだろう。蒼羽は自分だけの傍にいてくれる、都合のいい存在ではないのに。
目が痛くて、体がだるいのは。寝不足と、みっともない位に大泣きしたせい。蒼羽の腕が背中に回っていて、その暖かさが心地良かった。それにすがるように、目の前の蒼羽の首元に体を寄せる。紺色のTシャツから覗く銀の鎖が外の光を反射していた。
体を完全に動かしきった瞬間、背中にあったぬくもりが外れる。驚いて蒼羽を見上げると、目を見張った表情が飛び込んでくる。
蒼羽が起きていた事にさらに驚いていると、彼の掌がまた背中に置かれた。
「・・・急にくっついてきたから・・・・・・びっくりした」
そう言われて急に恥ずかしさが込み上げる。赤くなっていると蒼羽の唇が髪に降りるのを感じた。
「緋天」
「な、に・・・?」
ふいに真面目な蒼羽の声が頭の上で響く。思わず身構えると耳の輪郭をそっと蒼羽の指が撫ぜた。
「俺は緋天が少しでも・・・怖さを感じたり嫌な思いをしたりするのが嫌なんだ」
頭の上で響く声は、穏やかなのに、何かを抑え込んでいるように聞こえた。
「それなのにお前はいつも・・・俺やベリルの邪魔になると思ったら、自分の事を後回しにするだろう?緋天が家に独りの時は一緒にいてやりたいし、もし忙しくてあまり構えなくても、目の届く所に居て欲しいんだ。緋天が誰かと一緒にいる事を把握していたい。これは緋天の我侭になるのか?」
ゆっくり落ち着いた声が空気に溶け込んでいく。
「・・・違うだろう?朝、お前は邪魔だと言った。誰かがそう言ったのか?」
蒼羽の言葉がすんなりと頭の中にも溶けていくようで。
「そんな事、誰も言ってないし思ってもいない。緋天がそう思う原因は何か判らないけど、できればもっと甘えて欲しいんだ。本当に緋天が俺の事を好きだと思ってるなら」
「・・・そ、んな事できないもん」
「何で出来ない?」
優しく静かに蒼羽が続きを促す。
「だって蒼羽さんに嫌われちゃうよ。ベリルさんたちも絶対呆れて、きっとここにも来れなくなっちゃうもん」
「何でそう思う?そんな事で誰も嫌いになったりなんかしない。それとも緋天は誰の事も信じられないのか?」
声のトーンがひとつ落ちた。急いで答える。
「違うよ。そんな事ない」
「じゃあ問題ないだろう?俺は緋天が何もしないよりも甘えて来る方が嬉しい。ベリルだってそう思ってる」
そう言い切ると蒼羽の体が少し離れて自分を覗き込んだ。
「約束してくれ。今度からは1人で抱え込んだりするな。俺がいなくてもベリル達といてくれ。そうしてくれないと緋天がどうしてるか気になって集中できない」
返事は、と視線が訴えてくる。
「うん・・・判った」
頷くと目の前の蒼羽が笑顔を見せる。それが嬉しくて自分の口元が緩むのを感じた。そこへ蒼羽のキスが降りてくる。
横になっていたのに、いつのまにか仰向けになって、右頬に蒼羽の手が添えられていた。
この部屋に入った時のようにそれは強引ではなくて、優しい口付けが続けられる。とろけそうになりながらも、一向に離れる気配がない事に不安を覚えた。
「んっ、ちょ、蒼羽さ、っん」
頬にあった蒼羽の手が胸に移動して、瞬時に頭が現実に戻る。
「や、待って。下にベリルさんいるよ」
「ん」
制止の声を上げると蒼羽の唇は右耳へ移動する。くすぐったさの後を電流が追いかけた。返事をしながら耳の中を蒼羽の舌が動いていく。
「お昼になっ、たら起こしに来、てくれる、って言ってたもっ、ん」
それに反応してしまって途切れ途切れに言葉を出す。
「判ってる、けど」
「っ!!やぁ」
「止められない」
首筋にまで降りてきた蒼羽の唇から離れようと、必死で胸の上の腕をつかむ。力が入らないせいでそれは全く蒼羽の動きを止める事にならなかった。それどころか逆にその手をシーツに押さえられてしまう。
「ん、っ〜〜〜」
蒼羽の与える刺激に思わず上げそうになった声を、唇を噛んで抑えた。
首元でくすり、と蒼羽が笑みを漏らした音が、肌の上に直に響いた。
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