7.

 

初めてアルジェと会ってから、10日間。

 その間、一切彼女からの連絡はなく、今までどおりに蒼羽にくっついて彼のこなす仕事を傍らで見学する、資料整理を手伝う、そんな事をして過ごした。自分を仕事の対象とするアルジェ。彼女からいつ呼び出されるかと初めは気にかけていたが、その内蒼羽の仕事を手伝う方に集中して、あっというまに10日が過ぎていた。

 9月に入ってから本格的に蒼羽の仕事の流れを把握し始めて。

 違う世界の言語の読み書きなど出来ないのに、どうしてその手伝いができるのかと不思議に思ったが。驚いた事に公的文書として残される資料は全て英語で綴られていて。何故なのかと彼に問いかけると、

「英語の方がここの言語より便利なんだ。もともと初めに穴が開いてから、言語能力が優れていたのはアウトサイドだった。文字として書き記すのも英語の方が格段に短く収まる」

そう微笑みながら返されて。

「こっちの文字は地方によってかなりの違いがあるし、その表記もややこしいしね。かなり昔からこういう文書は英語を使ってるんだ。本もそうかな、大体半分位は英語で書かれてる。英語の読み書きが出来る出来ないで出世に開きは出るね」

 ついでに、ベリルが補足をつけてくれた。

 驚きながらも判る範囲で言われるままに作業を手伝う。

 センターに行かずに週末の休みを挟んで、蒼羽とずっと一緒にいる事が嬉しくて。

少し視線を動かせば蒼羽がすぐ近くにいる。雨の多いこの時期の、気を抜けない忙しさの中でも、柔らかい微笑が降りてくるのがものすごく嬉しかったのだ。

 

 それだけに、10日たった昨日の夕方、センターに出かけていた蒼羽が戻ってきて、アルジェが今日会いたいと言っていた、と聞いた時。少し残念な気持ちになってしまった。どうやらそれは顔に出ていたみたいで。

「どうした?・・・2人になるのは嫌なのか?」

 眉をひそめた蒼羽が頬をなでてきた。びっくりして首を振る。

「ううん。最近蒼羽さんとずっと一緒だったから。・・・ちょっと寂しいだけ」

 そう返すとほっとした顔が目に映る。次いで優しい笑みが浮かぶ。

ああ、忙しい彼にいらない心配をかけている、と実感した。けれど、彼がこうやって笑ってくれるととても嬉しい。

それを見てアルジェが内面に抱える、蒼羽が察した何か、複雑なものがあるという事を思い出した。

「あたし明日アルジェさんと仲良しになれるように頑張ってみる!」

 とりあえずは彼女が自分に気を遣わないように、それぐらい気軽な存在になろうと思いついて、そう告げた。すると蒼羽がさらに笑みを浮かべて右目の横に唇を寄せた。体の中の、奥底の。どこか心臓に近いところがその刺激に震えた。

「もう遅いから帰った方がいいな。待ってなくても良かったのに」

「うん、あの、でもなんか帰る前にね、蒼羽さんがこうしてくれないと変な感じがする」

 朝の挨拶と、夕方の挨拶。

 軽くキスをしてくれるのが当たり前のように体に染み付いて。それがないと中途半端な気分になってしまう事に最近気付いた。気付いた時にびっくりして、いつの間にこんな風に慣れてしまったのかとしばらく頭を働かせてみたり。

「・・・なんか。あれですね。緋天さん、蒼羽さんのペースにまんまと乗せられた、って感じですねぇ」

 ふいに傍からマロウの声が上がった。

「あー、そうそう、そんな感じ。なんだかねぇ」

 続けて上がる声に視線を向けると、カウンターで頬杖をついたベリルが苦笑していた。隣のソファではマロウがこちらを見て同じような笑いを浮かべていた。

「変な事を言い出すな。うるさい」

 2人の言葉の意味が判らず蒼羽を見上げると、彼は苦虫を潰したような顔ですぐ近くにいるマロウを睨んでいる。

「うわっ、邪魔してすいません」

「蒼羽、弱い者いじめするなよ。マロウの言う事、本当だしね。だって緋天ちゃん、一番初め、髪にキスされたって言って真っ赤になってた位だしさー。あの頃に比べたら随分慣らされた、って言うか丸め込まれたって言うか」   

 ふう、と溜め息をついてみせるベリルの言葉にかなり恥ずかしくなる。

顔に熱が集まっていくのが自分でも痛い位に良く判った。

 

「そう言われればそうだな・・・」

 何か反論してくれると思っていたら、蒼羽も面白そうな顔で自分を見ている。薄い笑みを浮かべてまだ頬に置かれていたその左手の親指を唇に滑らせた。それがゆっくりと横になぞられて。背筋に電気が走る。

「でも面白い程すぐに反応するから。・・・いいだろう?」

 蒼羽がにやりと意地の悪い笑みに変えて、横目でマロウを見やった。

彼がからかい半分でそうしている事は充分判っているのに、それでも頬から熱は逃げていかない。

「っ。あー、っと。緋天さん、困ってますよ?」

助けを求めてマロウに視線を向けると、何故か少し赤くなって、自分から顔を逸らしてそう呟く。それを見た蒼羽が笑みを消して再びむっとした顔をした。

「・・・緋天、暗くなる前に帰った方がいい。本当は送って行きたいけど」

 真顔になってガラス扉の向こうの空を蒼羽が見る。どんよりした雲が空を覆っているせいで、いつもの同じ時間よりも、薄暗い。日が暮れるにはまだ時間があるのだが、今日は母親が家にいない事を心配した蒼羽がそう言った。

「大丈夫だから心配しないで。蒼羽さん、仕事の続きしてて」

「あ、そういえば今日は緋天ちゃんのお母さん、お父さんの所に行ってるんだっけ?気をつけてね。戸締りはしっかり確認する事」

 蒼羽がこれ以上自分に気を遣わないように、一気に言って立ち上がるとベリルがカウンターから離れて、心配顔でこちらを見る。

「ベリルさん。・・・本当、お母さんみたい」

「あはは。それも心配性のね」

 マロウが楽しそうにそう交ぜ返した。

「じゃあ、お疲れ様でした。蒼羽さん、働きすぎないでね」

「ん。気をつけろよ。後で電話するから」

 ベリルが開けてくれた扉に向かおうとすると、蒼羽も立ち上がる。手を振ろうとしていた右腕をつかまれて、短いキスが唇に降りた。きゅ、と甘い感覚が駆け巡って、恥ずかしさを紛らわせるのに必死になる。

 電話をしてくれる、という言葉にお礼の代わりに笑ってみせてから。

黒雲が立ちこめる空の下に、足を進めた。

 

 

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