58.

 

 遠くで閉まった扉の音。

 蒼羽が腕を伸ばして抱え込んでくれるのを。

 それに甘えて。何か判らない不安と焦燥を、彼の腕の中で消化する事に専念するべきなのに。

 

「・・・緋天」

「っ、フェンさん帰っちゃった」

 理由も判らないのに、無闇に介入するのは良くない。

 ましてや蒼羽とフェンネルのこと。蒼羽が何か自分に黙っていて隠そうとしていたとしても、それが悪い事なのだとは思っていない。彼なりの考えがあっての事なのだから、自分が何も知らないままで口を挟むのはおかしい。

頭では判ってはいたが、嫌だった。二人が争うようにしていた先程の光景は、ただただ自分を驚かせて。蒼羽が怒りの空気をフェンネルにぶつけていた事も、フェンネルがそれを引き出して、それから茫洋としていた事も。

「緋天、どこに行く」

 落ち着くべき彼の腕の中から体を引いた。立ち上がって、蒼羽の腕が再び伸びてくる。

 力はかけずに、ただ手首と腰に柔らかく置かれた蒼羽の手。このままでいる事は簡単だけれど、後で嫌な思いをしそうだから。

「・・・フェンさん。おかしかった」

「っ緋天、ここにいろ!」

 一歩引いた体に、すかさず蒼羽の左手が追いついた。

 少し強めに発せられた声は、何となく納得できない。先程、フェンネルの言葉の意味を問いかけた自分に、何でもない、と返した蒼羽の声に感じたのと同じ違和感で。

「だって、フェンさん帰っちゃった、もん・・・」

 帰る、と言った彼と目が合った。それはどこか寂しそうで、泣き出したくても泣けないような、そんな色で。

「・・・っ緋天!!」

 蒼羽の手を振りほどく事が、こんなに怖いとは思わなかった。

 けれど、彼の所にはすぐ戻れる。すぐに戻れないのは、フェンネルの方。

 

 

「フェンさん!!帰らないで!!」

 外に飛び出して、遠くを歩くフェンネルの背中を見つける。

 走って、少しでも近付いて。もう一度大声を出した。

「・・・なんだよ。元気じゃん」

 くるりと振り返って、困ったように笑うフェンネルは。いつも通りのようで、やはりどこか違う。

「喧嘩じゃないよね?すぐに仲直りするよね?」

「さあ。どうかな」

 必死で言い募れば、ぼんやりと見下ろしてくる彼。

 赤い髪が風に揺れる。青空の下で映えるその色が綺麗だった。

「お許し頂くのは蒼羽次第。それより蒼羽が怒るから戻れよ。嫉妬すんぞ、オレが瞬殺される」

「っ・・・フェンさんのばか!!そんなの友達じゃない!!」

 冗談だと判ってはいたが、その投げやりな態度とわざと意地悪く見せる言葉が。

 蒼羽に感じた違和感と同じで、どこか嫌で。

 

「友達・・・?そう思ってたのは、オレだけかもな」

 

「何、言って・・・」

 背筋が冷える感覚を。

 初めて彼に対して感じた。赤茶の、いつもは温かい目が、今は冷たい。

「蒼羽はオレの事、うるさくて邪魔な奴だと思ってるだけじゃねえの?」

「フェンさ、」

「・・・なんか、めんどくせー・・・もういいよ。じゃあな」

 

 何か言わなければ、と色々探したのに。

 間に合わずに、彼が会話終了の合図を告げる。そのまま丘を下っていった。

 彼の背中が見えなくなるまで。遠くでも目立つ赤い髪がぼやけるまで。

 立ち尽くして見送る事しかできないのが、ものすごく、痛い。

 

痛い、と感じているのに気付いた頃に。

 いつの間にか傍にいた蒼羽が黙って手を引いて、零れ落ちる前に涙を吸い取ってくれたから。

 すぐに戻ってこれた場所。

自分は蒼羽の優しさを独り占めしているのではないかと、そう思った。

 

 

 

 

「そこまでやる必要あるのか?」

 約一ヶ月前のこと。

 ピアスが出来た事をベースに知らせれば。頼みに来た時と同じ様に、緋天と手を繋いで仲良くやってくると思っていたのに、予想に反して蒼羽は一人でやってきた。

「緋天が何かに攻撃される確率がゼロだと言い切れない。それを潰す為なら何でもする」

 部屋に入るなり、血の封印を施すから作業机の上のガラクタを片付けろ、と言い出す蒼羽にぎょっとして。ガラクタじゃないと反論しながら、言われるままにスペースを確保した。

ポケットから折りたたんだ薄紙を取り出して、それを大事そうに開く彼の手元を覗き込めば、中身は長い黒髪。一目で緋天のものだと判って、本人がいないのに何故そこまで、と思ったから問いかけたのだ。

「・・・緋天には言うなよ」

「なんで?オレ、緋天ちゃんのいるところで普通レベルの鍵かけるつもりで用意してたんだけど」

 

 朝一番に井戸から汲み上げた地下水で満たされた水盆。

 蒼羽の父が施した仕掛けをある程度解く為の、清めの水を。

 

 今では緋天のものになっている、青い石のピアス。元々は、蒼羽の父親が母親に捧げたと聞いている、その蒼穹の色。家や大事なものを守る鍵、そういうものとして使われる種類の石だ。

ところが、ピアスにされていた小さな丸い粒は、大きさに反比例してものすごく純度の高い塊で。

蒼羽の父親、ウィスタリアが仕掛けた同じ類の術が施されたままの石は、緋天が持っていても何の意味も成していなかった。守るべき対象の蒼羽の母も、石の力を保つべきウィスタリアも、もうこの世に存在していないのだから。

ただ、その根幹はひっそりと生き続けていた。予報士の実力を全て詰め込んだとも取れる、時間と手間のかかった、幾重にも施された術。だから、それをある程度解いてから、蒼羽と緋天の情報を上手く入れ込むと思ったのだ。

 

 何よりも、蒼羽の両親の形見。

 普通に考えれば、蒼羽の父親がかけた術を利用するだけで、充分な守りとなる。それを飛び越えて、更に強力な血の結界、血の封印、と呼ばれるそれを仕掛けようとする蒼羽は、やり過ぎだという感が否めない。

 蒼羽の心配が過度のものだと言い切るわけにもいかないが、その大きすぎる力は果たして緋天が使えるものなのだろうか、という疑問もあった。いくら父のものとはいえ、他人のかけた術に無理やり上塗りすれば暴発する恐れがある。何も知らない緋天がそれを制御し、尚且つ咄嗟の判断で使えるのか、と。

 

「余計な事を教えて、怖がらせたくないだけだ。何もなければ、それでいいんだから」

 

普通ならば、これだけ強力な術をかける際は、守護対象がその場にいる事は必須。

蒼羽は緋天本人がいない代わりに彼女の髪を、そして自分の情報として、この種の術の中では髪よりも強力な媒体となる血を使う、そういう論理を適用しようとしている。

 

青い石を水盆の中へ。

陽光が充分当たる場所へと動かし、水面が落ち着くのを蒼羽はじっと待っていた。

 

「でもさ、緋天ちゃんだって何かあったらどうすればいいか、それくらい知っておいた方がいいんじゃねえの?」

「・・・いい、緋天に完璧に同調できるとも限らない」

 蒼羽の視線は、ただ水の中の石に注がれる。

 少しも自分の言うことを聞かずに、既に術を施そうという空気を纏っていた。これ以上の問い掛けは、蒼羽の意識を殺ぐことになりかねない。彼の中で、強固に決められた事だと判ったから、一歩下がって見守った。

 生まれては消える、淡い青。

 愛しそうに緋天の髪をそっと差出し熔かす所も、その後にナイフで指先を傷つけて赤い血の雫を落とす所も。蒼羽の清浄な空気が部屋を満たすのを、静かに見続けたのだ。

 

 蒼羽の手が、それを作り出すのを見ていたのに。

 何も判っていなかったのは、自分の方だった。蒼羽がそうやって布石を仕込む事よりも、傍にいて直に守りたいと思っていたのは当然。

 

 仲間はずれにされた、とか。

 そんな事を思っていた訳じゃない。

 ベリルや蒼羽、さらに門番達が。仕事の内容に関して口を割らないことがあるのは、いつもの事。ただ、蒼羽があれだけ参っているのを目の当たりにして、その原因の緋天もどうやらピアスを発動させた、と。その事実の経緯、それを知りたいと思うのは、罪なのだろうか。少しくらい、蒼羽は人に頼るということをしても良かったのではないだろうか。

 それが、頭を巡って離れなかった。

 もういい、と口にした時の虚脱感。それを聞いた緋天が見せた、驚いた顔。その緋天の頭の向こう、ベースの入り口で、立ち止まり言葉を交わす自分達を窺っていた、蒼羽。

 

妙な喪失感も、それらの映像も。

一緒に廻って、離れない。

 

 

 

 

「・・・蒼羽さん」

「ん」

「喧嘩、じゃないよね・・・?」

「・・・ん」

 何故、どうして、何の目的で。

 簡単に口に出したフェンネルの言葉は、自分に動揺をもたらすのに充分だった。

 言い知れない戸惑いを追いやるように、緋天の髪に指を絡ませては解く事を繰り返す。

 フェンネルが帰ると言った時には、泣き出しそうになっていた彼女を。抱え込んだのに、自ら望んで緋天はそこから離れていった。悲しそうに(すが)めた目が、上から自分を見下ろしていたそれに、身動きが取れなくなって。

自分の手を振り払った手、フェンネルを追って走った背中。

緋天は自分のものだと、確信があったからこそ。センターで、彼女を追いかけない事で、シュイの接触を許してしまったからこそ。立ち上がって、緋天の後についていく事ができた。

それでも。フェンネルと話す緋天を、距離を置いて見守るしかできないくらい、彼女の視線は自分を責めているように見えていたのだ。一人になった緋天に近付けば、その悲しそうな色は深みを増して。

「蒼羽さん・・・聞いたらダメ?」

「・・・・・・緋天」

 怖がらせたくはないから。怯えさせたくはないから。

 だから、黙っていたのに。

 真っ直ぐ自分を見てくる緋天の目には逆らえない。どうせ調べようと思えば、すぐに判る事。

「緋天のピアス・・・フェンに頼んで直しただろう?」

 頷く緋天の左耳、青い石の上に、唇を落とす。

 そうせずには、いられなかった。

「俺は、出来上がったこれに自分の印をつけた」

 緋天がセンターにいる間、一人でピアスを受け取りにフェンネルの家に行き。

 彼の部屋で、石に仕掛けを施した。諸刃の剣になると判っていながら。

「フェンが血の結界と言っていたのは・・・緋天が何か嫌だと感じたら、それに反応した石が、対象を緋天に触れさせない。センターの俺の部屋がシュイを近付けなかったのも、同じ理由なんだ。ピアスが反応して、その力があまりに強かったからあの部屋は今までにない程、働いた」

 実際、ベリルの話によれば。

 暴走と呼べるレベルの力を部屋の鍵が発揮したとの事。もしかしたら、ピアスの力と混ざり合ったのかもしれないが、それでも緋天が引き起こしたにしては大きい。大きすぎる。

 腕の中で大人しく話を聞く緋天が、何かを拒否すれば、それに従順に反応してしまうという事実。

 彼女を守る為にそれが発動するならば、自分の狙い通り。

 図書室でのシュイ、今日の中庭でのシュイ、それらに反応したように。

 それなのに。

 

「緋天・・・」

 抑えきれない衝動の延長線上、唇に冷たい感触を残した石の上から彼女の柔らかなそこへ移動する。

「なんでアルジェの言う通りにしなかった・・・?」

 くたりと力の抜けた緋天の体を抱えなおして、その潤んだ目に問いかける。

 急に言い出した事にも関わらず、細い肩がびくん、とはねた。質問の意図を理解している事が伝わる。

「危ないと知っていたのに、自分から外に出た緋天の気持ちは判らなくもない。アルジェが巻き込まれると思ったんだろう?でもここに居れば、すぐにベリルかシンが来たはずだ。何故待っていられなかった?」

 緋天を護るはずの、その青い石が。

 怪物化した雨が待ち受けている外へ、咄嗟に出て行こうとする彼女を引き止めたアルジェに。

 何故、発動して結界を張るのか。

 

「・・・狙われてると判っていただろう?何をされるか、どうなるかも判らないのに、簡単に飛び込まないでくれ」

 

緋天を守ろうとしたアルジェに対して力が働いて、そして彼女が心から怖いと感じる雨に対しては、何故その威力を示さないのだ。

憤りを通り越して、ただただ怖ろしかった。緋天がその身を軽んじたような行動を取ったことも。

 

「緋天・・・緋天、もう嫌なんだ、緋天が何かに傷つけられるのを後から知りたくない」

 抱きしめた体はわずかに動いて、背に緋天の腕が回るのを感じた。細い指先がそっと肩甲骨の上に置かれる。

「どうすればいいか、判らなかったの・・・」

 そっと響いた声は、指先と一緒に小さく震える。

 少しは、この身の内を駆けずり巡る焦燥と後悔の念に気付いてくれただろうか。

「蒼羽さん、ごめんね・・・もうしない。・・・約束、する」

「・・・絶対に?」

「うん。絶対に」

 きつく抱き込んでいた緋天から少し体を引いて、どこか困惑したようなその表情の中、双眸に真剣な光を見つけた。それでどうにか落ち着きを取り戻して、もう一度、腕の中に緋天を入れる。

手放すことのできない温もり、それを感じて安堵は得られているはずだった。緋天さえいれば、と思えるのに、彼女以外の事が頭の中へと入り込んでくる。

「・・・あのね、フェンさん、きっとね」

 中断していた、緋天の髪を指先に絡める行為を再開したところで、それが聞こえて。思考の渦の半分ほどまで侵入していた彼の名に、手が止まった。

「寂しい、ってちょっと思ったのかも。蒼羽さん、あたしの事ばっかり優先してるから・・・」

「・・・当然だろう?・・・フェンだって判ってるはずだ」

 最後は消え入りそうな程に小さくなった緋天の声音。

 罪悪感を持つ必要なんて、どこにもないのに。フェンネルも、そんな事を気にする男ではない。

「でも、頭では判ってても、心では違うよ・・・だって、」

「緋天」

泣きそうな顔で必死に説明しようとする彼女の言葉を遮る。

 センターで、シュイに唇を奪われて。自分の事を、汚い、と口にしたばかりの緋天だから。その手の感情を打ち消してからでなければ、話を先に進めたくはなかった。

「俺の中では緋天が一番なんだ。それを変える気はない」

 真っ直ぐにぶつけた想いが、緋天の中を塗り替えられればいい。再び塞いだ唇から、甘い声がこぼれたのを確認して彼女を放す。

「・・・蒼羽さんはフェンさんの事、友達、って思ってる・・・?」

「ああ・・・」

 覗き込めば、不安そうに揺らぐ目。

 髪を撫でながら問いかけられたそれに返事をすれば、笑みが浮かんだ。

「その辺の人とは違うよね?大事な友達だよね?」

「ん?・・・そうだな」

 大事なのは、緋天だけ。そう答えたいのに、口から出たのは肯定の言葉だった。

言われて、初めて気付く。子供の頃から傍にいた彼を説明する言葉はそれしか見当たらなかった。

「そっか・・・良かった・・・」

 ふわりと微笑んで、首元に顔を埋める緋天が小さく呟く。

 早く仲直りしてね、と肌の上で響いたそれが胸の奥を掻き乱した。フェンネルに対する困惑した気持ちは残されていたが、彼女が言うように、確かに彼は自分の唯一の友人だった。

気付けば傍にいて、何か面白い事があったから一緒に行こうと誘ったり、自分にはどこがおかしいのか判らないような些細な事に大笑いをしていたり、ベースに入り浸ってベリルと何か楽しそうにしていたり、逆に自分が彼の家のにぎやかな空間にいつの間にか馴染んでいたり。

付き合ってきた時間の中で一度も喧嘩などした覚えはなかった。

思えばそれは。隣で煩くしていたフェンネルが急に怒り出し、その場からいなくなって、次の日にはいつもの笑顔を浮かべていた事が何度かあった、あの事ではなかったのだろうか。気付かぬ内に彼は自分と喧嘩をしていたのだ。そして一人で結論を見出し、いつも通りに振舞っていた。

 

気付かなかったのは、あまりに自分が周りを見ていなかったから。

フェンネルはそんな自分に懲りずに付き合ってくれていたのだ。一緒にいても面白くもない、いかにつまらない人間だったかなんて、自分で一番良く判っている。賑やかな街の、同年代の仲間といた方が楽しかっただろうに。

それを口にしても、フェンネルはいつも首を振っていた。お前の方が面白いんだ、と冗談めかして言ったそれにどこかで救われていた自分がいたのは確かだ。

 

「・・・蒼羽さん?」

 感謝の気持ちを表す事も、それから本気で彼の心を覗くことも。

 今までしてこなかった代償がこれだ。フェンネルを怒らせ、緋天を不安にさせ、こんなに苦い気分になる原因は自分にあった。指に絡めたままの緋天の髪を梳いて、触れ納めに頬にキスを落とす。

「すぐ戻る。フェンに出す飲み物でも用意してくれるか?」

「あ、うんっ、わかった」

 一瞬驚いた顔を見せて、そしてにっこり笑った彼女の唇に、我慢ができずもう一度口付ける。

 

立ち上がって、顔を上げたら。

 普通の人間に、近付いた気がした。

 

 

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