57.
湧き上がる声を押し殺すかのように。
ぽたぽたと両目から涙を落とす、アルジェの。
下を向いて現れた首筋は、いつにも増して細く見えた。
彼女の口が、サー・クロムと紡ぐのを直接的に塞いだのは、今日で二度目。
キス自体は、これで四度目。
全て自分が一方的にしたものではあるけれど。
でも、本当は。
そう呼ばれる度に、体の奥底がざわりと音を立てた。やめろと怒鳴りたくて仕方がなかったのだ。そんな風に他人行儀な関係を保っていたくない、と肌で感じていて。ただ、それを全面的に認めて、踏み込む勇気がなかっただけ。
先日、彼女の家の前で三度目の口付けを落とした時は、大人しく受け入れてくれたような感触を得たから。嬉しかった、彼女が少しは自分に興味を持ってくれているのではないか、と。そう思っていただけに、先程の取り繕うアルジェを見て、腹が立って、どうしようもなくて。
「ごめんね。・・・乱暴に扱ってばかりだ」
まるで10代の、節操も落ち着きもない子供になったかのように、彼女と二人になれば無理やりキスをしてしまう自分を。当の本人が制御しきれないのに、それを何度も受けた彼女はどう思ったのだろう。今更ながらに申し訳なくて。謝る意味さえ無いように思えた。
それでも、そんな自分の前で、本部には行きたくないと切ない声で告げて。
静かに泣き始めた彼女を、自然と伸びた腕で抱き寄せれば。
それを嫌がらずに、自分が作り出した囲いの中に収まってくれる。髪を撫でて、あまつさえふわりと甘く香るそこに小さく口付けても、気付いていないだけなのか抵抗しない。蒼羽がいつまでたっても緋天を腕の中に入れておきたがるのが、判った気がした。
「・・・アルジェ」
吐き出す毒は、最後まで吐き出した方がいい。
仕事への不安は見せた気がするが、根本的なそれを未だに口にできずにいる彼女が、痛ましくて。
そう思うのは建前かもしれない、本当はただ単に彼女が自分を。
「信用、してくれない?言った方が楽になるんだよ?」
ぴくりと肩を動かす彼女の表情は見えないけれど。狭間で彷徨っているのは充分見てとれた。つまり、勢いで泣いてしまったはいいけれど、心の内を吐露する事が後で困ったことになりはしないか、と。
「寂しいって言ってくれたら、今後は絶対にそんな想いさせない。約束する」
自分でも随分必死だな、とそう思う。
全く根拠も説得力もない言葉は、懇願に近かった。
「・・・約束、なんか・・・」
「できる人間、私以外にいるとは思えないけど」
震える声を。予想していた疑問や反論を。言われる前に消してしまう。
「君みたいな見栄っ張り。本当は泣き虫だって気付いて、おまけに影で支えられる男なんて。そこら辺の若い奴にできるとは思えないけど」
くす、と。
腕の中から甘やかな声が響く。
泣き笑いで。小さくそれを漏らしてから。
「・・・自信満々、ですね・・・」
「そりゃね。蒼羽と何年付き合ってると思ってるの?君の不安とか、そんなの。蒼羽に比べたらオマケみたいなもんだよ」
彼女が笑ったことで、緊迫していた全身がほぐれた気がした。
調子にのって、いかにも些細な事のように言ってみる。
「だからさ、そろそろ・・・どうぞ? お嬢さん」
少しだけ、体を離す。
揺れた目線を捕らえて、微笑んでみる。
潤んだそれがあまりに美しくて、眩暈がしそうになった感覚はどこかに押しやって。
「っ、・・・ずっ、と」
小さく吸い込んだ息。
戸惑いがちに開いた唇。
すべてを追いかけた。今、彼女に信頼されずには、帰れない。
「ずっと・・・」
「うん。大丈夫。言って?」
震えている指先を包みこむ。温もりを与えることしか、思いつかなくて。
「っ、さ、みしかった・・・っ、寂しい・・・!!」
痛みを誘う、その慟哭は。
再びアルジェの双眸に涙を浮かび上がらせる。
「・・・今日からは、寂しくないよ」
目の端に唇を寄せて涙を含んでも、彼女は嫌がらなかったから。
自分なりの、誓いを。
誓いの証に、五度目のキスを。
もう、カウントする立場から脱却したいと願いを織りこんで。
柔らかなそこに、落とした。
体の奥から搾り出したような、本音は。
零れ落ちた後、こんなに簡単な事だったのか、と驚きをもたらした。重かった荷をようやく肩から下ろしたような感覚。とにかく、何年もきつく張り巡らせていた糸が切れた気がした。
自然と吐いた溜息で、いつまでも止まらないのかもしれないと思いかけていた涙が、もう止まっていることに気付く。それから、暖かい腕の中、広い胸板に自分がもたれかかっている事にも。
「・・・っ」
「あれ、もう終わり?」
力の入らない手で、目の前のそれを押す。
笑い含みで降ってくる声は、優しい色を伴っていて。耳の上で響いたそれに、頬に熱が集まる。いくら弱っていたとは言え、二人だけの部屋、ベッドの上で。はしたない事をしてしまったから。それで、こんなに恥ずかしいに違いない。
「・・・す、すみませんでしたっ、・・・それから・・・ありがとうございます」
「どういたしまして。って、謝る必要はないよ」
こっちも色々あるしね、と小さく付け足される。
何故、キスを許してしまったのだろう。
何故、その腕の中で落ち着けたのだろう。
何故、彼にだけ本音を零しているのだろう。
思考能力の限界はとっくに突き抜けていた。
彼とのキスに対する考察は、今日だけでなくこれまでも、結局一度も導き出せなかったから。
「とりあえず、夕飯作ったから食べてよ。お腹すいてない?」
何の不思議もない、とばかりに。さらりと理解しがたい事を口にするベリル。
勝手に台所を使われた事に怒るべきなのに、おかしな事にそんな気持ちになれなかった。それを察したのか、彼は黙ってベッドを降り、一足先にダイニングに消える。慌てて追いかければ、ぱっと灯りがともされて。その光の中、金色の髪がその輝きを発していた。
「はい、座って。リゾット食べれるかな?」
ぼんやりしている内に、あっという間に目の前に湯気を上げる皿が置かれる。柔らかい香りを吸い込んで、ようやく食欲というものを思い出した。
とにかく食べろと促す目線に従って、口に運んだそれは。
どこか、遠くの。
暖かな何かを引き寄せる。
「不法侵入した甲斐、あったでしょう?」
得意げに響いたその言葉に。
頷いてみせるのが、精一杯だった。
「鍵、かけようか」
美味しいと感じた食事は久しぶりな気がする。
反応の薄い自分を然程気にする様子もない彼は、ただふわりと笑っていた。食べ終わるのと同時に急に声をかけるから、いきなりの言葉に何を返せばいいのか判らなくて。
「いくら脆かったとは言え、君がかけたものを無理やりこじあけた事に変わりはないしね。私が強力なのをかけてあげるよ」
口の端を上げるその笑みは、どこかシニカルなものを感じたけれど。逆らう気がおきなくて、黙って頷く。
彼がかけると言うのなら、それは確かに何よりも安全で。それに、今から新しい鍵をかけるような覇気が残っていない自分には、都合のいい申し出。
「じゃあ、早速やろう。おいで」
椅子から立ち上がったベリルに従い、玄関へ向かう。
この家にもともと備えられている物理的な金属の鍵ではなく。
彼の本来の力で作られるもの。センターの幹部に名を連ねるベリルであるからこそ、見せられる自信。
「この手の細工に関しては蒼羽よりも得意なんだけど・・・ああ、もう過去形だな」
玄関の天井を仰ぎ見ながら、ベリルはそこに右手を翳す。
「今の蒼羽には大得意だと言えるよね、緋天ちゃんがいるから」
蒼羽より秀でていたというその力が、緋天の存在によってあっさりと覆された事を。こんなにも嬉しそうに語るベリルは、心から蒼羽の幸せを願っている。それが判って、体の奥底が暖かくなる。
きっと、彼は信用に足る人物。
そんな事。
とっくに判っていいはずだった。
「・・・サー・クロム」
「それで呼ばないで。って集中できなくなるから、この話は後でね」
明日から、自分はどう生きるべきなのだろう。
寂しいだなんて口にして。そんな想いはもうさせないと約束する、と言い出したのは彼。
少なくとも、彼を信じて悪いようにはならない。そう思えたから、声をかけたのに。
「おいで。君の家だ」
翳した右手はそのままに、残った左手を差し延べてくるベリル。
お前がいなければ鍵をかけても力は半減する、と暗に含まれたその仕草。促す手に従って一歩近付く。
「・・・髪を使おうか。守りは強くなる」
一瞬で引き寄せられて、頭の上で響く声。
「っ、そこまでしなくても」
「いや、その方がいい。君は人気者だし、その内ストーカーとか出てくるよ。それに、シュイの組織か本部からお客さんが来るかもしれないしね」
緋天の家に仕掛ける鍵だというなら話は判るが。こんな下位の者に、彼の力を無駄使いする必要性はない。それを言おうとすれば、即座に遮られる。冗談交じりの前半部分と、真面目な声音の後半部分。彼の言葉に否定の意を唱える隙間はなかった。シュイ云々というのは特に。それが悔しくて、唇を噛む。
「抜くと痛いよね・・・じっとしてて」
後頭部に手を添えられて、更に腰に手が回る。
髪の中に入り込んだ、ベリルの大きな手。それが自分の髪一本を得る為だけに、優しく動いた。梳かれていくその感覚は、心地いいと思える程に穏やか。
緋天が蒼羽に髪を撫でられて、目を瞑ってじっとしているその姿が浮かんだ。こんな状況で。
「・・・あの、まだ・・・?」
「ああ・・・もうちょっと・・・」
優しいだけの声が甘く空気を震わせる。
背中に回る手がやけに気になって。指先の輪郭ですら判る気がした。異様な焦りに全身が支配される。
「・・・取れたよ」
ほんの少しだけ、体を動かすと。
くすりと笑う声と同時に髪を梳いていた手が離れた。
「さて。じゃあ、後は」
私の分だ、と言いながら。金の髪に手を差し込んで、少し乱暴に引っ張る。
「うん。準備完了」
す、と目を細めたベリルが右手を天井に持っていって、空いた左手は再び自分を引き寄せる。
今度こそ本当に。
彼が鍵を仕掛け始めたのが判った。静まり返った自分の家の壁、天井、床。全てが脈を打つような音を自分とベリルに放ち、淡い緑色の光が生まれては消える。
蒼羽の部屋の前でも見た、彼の力のその色。
畏れ。それに近い気持ちを抱かせる、強い力が。
自分の部屋に満たされていくのは、不思議と安心した。
「・・・はい、終わり」
玄関の天井に埋め込まれている鍵。その石に融けだすように消えたはずの、自分と彼の髪。
一般人の家には不相応な、ベリルの力による守り。
「なんで・・・?」
そんな価値は、自分にはない。
それだけは、判っていた。
判っているのに、彼に縋った。これは、自分の弱さが招いた事。
「・・・それを今更聞くの?」
「君は緋天ちゃんに必要なんだよ。あの娘が心を許して話ができる人間、今はそれが君だから。緋天ちゃんに必要なものは、蒼羽にとっても必要。蒼羽に必要なものは、絶対に揃える」
ベリルがすらすらと答える言葉は、残酷なようでいて、むしろ現実的で嬉しいと。
どこか遠くの自分が思っている。彼の言う約束は彼の手の中の幸せを守る、その為に自分を必要とし、守備範囲を広げて温もりを分け与えてくれたのだから、と。
口元に笑みが浮かんだのが、嫌だな、と思った。
今笑える自分が、とても浅ましい。
「そう言えば満足するんだ?・・・あのね、怒るよ」
間近から放たれた、言葉通り怒りを孕んだ真っ直ぐな視線。
背に触れる手に、力が入って。
「・・・君が心配だから、私が自分で鍵をかけるのはいけない事?」
思いがけず、怒らせてしまったベリルは。てっきり厳しい口調で口を開くと思ったのに。
「緋天ちゃんが、とか。蒼羽が、とか。それが無くても、私は今日ここに来ていたよ」
青い目は、怒りを解いて優しい光を投げかけてくる。
静かに静かに言い置く声は、どこまでも甘い。
「寂しくなくなったら、君は余裕ができる。そしたら私を好きになる」
「え・・・? あの、サー・クロ、」
「二人だけの時は名前で呼ぶように。他に人がいるならそれでもいい。不本意だけど」
逃げられない。
体が動かなかった。混乱する脳内で、逃げろと喚くのは本当に自分だろうか。
「・・・一人で寝れる?寂しいなら添い寝してあげるから」
「〜〜〜っ、か、帰って下さいっ!!」
離れた唇が、再度触れそうな距離で囁くそれに。
ようやく体が動いて、自分を包む体を押しやった。
「ああ、怒った?でも、君の寂しさを埋められるのは私しかいないって言ったよ?」
崩れ落ちそうな膝に力を入れて、腕に体重をかけて彼を押す。
これだけ押しているのに、少しも動かないベリルの体が憎かった。苦笑交じりに、落ち着いて、と言うその何ともない飄々とした様子も。
「・・・という訳で、覚悟しといてね。明日からは人目も憚らず、君に付き纏うから」
扉に手をかけて、一応帰る素振りを見せながらも。
伸びてきた左手が、またも自分の背を捉えた。
「はい、おやすみ。明日ね」
軽く落とされたキスに、硬直する体。
自分のものなのに、彼のそれには動けない。
ぱたん、と閉じられたドア。
その向こうに消えたベリルの背中。
耳を、ひやりとする扉に押し付けて。
彼の足音が完全に聞こえなくなるのを。
目を瞑って追いかけた。
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