56.

 

――― ルーの存在はとても稀少なんだ。

 

 彼は確かにそう言った。

 当時理解できていなかった言葉が、今なら良く判る。

 キーディスは、シュイの言う、あの地方の伝承か何かをどこかで聞いたのだ。もしくは家の書庫の古い書物からおとぎ話のようなそれを見つけたのかもしれない。そして、たまたま自分の妹が、その稀少な存在の娘だと気付いた。だから、自分と婚約しようとしていたのだ。

 愛していると囁いたのも、甘くキスを与えたのも。

 全ては、自分が作り出すであろう富を手に入れる為。

 

 シュイの。

 彼の目が地下会議室で自分を捕らえた時。抗えない何かを感じた。あの、とろりとした銀色が縁取る、不思議な光沢の黒鋼の目に、怖ろしい程惹きつけられたのだ。ベリルが途中で目を覆ってくれなければ、あのままシュイの言いなりになっていたのだろうか。それとも、過去の事をもっと思い出していたのだろうか。

 あの力は、確かに特殊で貴重。

 それが自分にあるのだと言われたが、覚えている限り、人を惑わせたり操ったり、そんな芸当が出来たという記憶がない。その事実は、自分を安堵させることはしたが、慰めにはならなかった。

ただ、最後の謎が解けただけ。キーディスが自分を欲していた理由が。

 執着している、とそう言ったのは、彼の部屋にいたあの女性。

 オーキッドに手紙を書き、髪を切り、両親に婚約破棄を聞き入れてくれと頼んで。そうやって行動を起こした当日の夜、キーディスは必死で自分を引きとめようと説得した。それは、今思えば、彼女の言った通り。きっと彼は、この世の権力や財力や、そんなものに執着していたのだ。

自分が無理やり抱こうとしたのが悪かったのか、それとも他に気に入らない事があるのか、婚約を破棄せずとも勉強はできる、と。謝り、怒り、諭し、ついには、頼むからここから出て行かないでくれ、愛しているから離れたくない、と懇願を。

 その全てに、少しも心を動かされなかった時点で、恋を捨てた。そう気付いたのは、かなりの時間が経ってからだったけれど。

 

 ひとり、だと。そう感じて。

 ずっと信じていたキーディス、その彼の、想像もしていなかった裏の顔を知った時に。誰にも相談できなかった。相談できる相手がどこにもいなかった、両親にそれを告げるわけにはいかなかった。付き合いのあった同じ年頃の少女は、家とつながりのある名家の令嬢達。頻繁に会う訳でもなく、心を砕いて話をする訳でもなく。信頼できる、友人と呼ぶべき人間もいなくて。

 それまで何の不自由もないと思っていたが、ひとりだと気付けば、只々それが寂しくて。

 

 あの時、それを感じたのに。

 同じ事を繰り返したのだ、自分は。

 こうして信じられない事実を聞いた、怖くて仕方ない、それなのにまた。誰もいない、相談できる相手がどこにもいない。

 その生き方を選んだのは、紛れもなく自分だったけれど、

 悔しくて、怖くて、悲しくて、切なくて。

 零れ落ちていくのは。

 結局。八年前と何も変わっていない、自分の。

 弱さ、そのものだった。

 

 

 

 

 

「お嬢様。夕食ですよ」

 

 柔らかく響くその声は、誰のものだったろうか。

 耳の上の髪を、ゆっくりと撫でる手。それが随分と心地良くて、目を開けるのが勿体ない気がした。

「・・・起きて下さい。薄着で寝たらダメでしょ」

 困ったように紡がれるそれが、違和感を呼び起こす。そんな風に自分を起こす使用人は、家にはいなかった。

否、そもそも今の自分には、使用人など関係のない生活。

 

 重い瞼を急いで開けて。

目に飛び込んできたのは、青いシャツを半ばまで折り上げて、そこからのぞく節のついた腕、繋がる大きな掌が。

自分のベッドの生成りのシーツに乗って皴をつけている、それだった。

目線を動かせば、真上からこちらを見下ろすベリルの顔。

髪を撫でるのは、もうひとつの手。

 

「・・・っ、カギは・・・?」

「物理的な方は大家さんに借りた。君が仕掛けた鍵は弱くて脆いから簡単に開いたよ。おはよう」

 

「貴方にとっては、どんな鍵だってそうなんでしょう・・・!?」

 

 何故。

 不法侵入、これは犯罪。

 勝手に自分の領域に侵入してきたベリルの、その。

 軽薄さ、無礼さ、奔放なその態度。

 嫌で仕方がないのに、それを怒る以前に、髪を撫でる大きな手が。

 暖かくて、怖い。

 怖いのに、振り払えない。

 

「・・・君はね、優しすぎるから。誰にとっても同じ」

「っ!!優しくなんか・・・!!」

 

 窓の外はとっくに日が落ちていた。

 地下会議室を出た後に、蒼羽を追いかけて、それから最低限の事後処理をして。

 オーキッドに呼ばれるだろうと判ってはいたが、それを待たずに家に帰って、一人で泣いて。

 それから、そのまま寝てしまったのだと。眠りに落ちてから、三時間は経過しているのだと悟った。

 

 痛む両目を開けているのが辛かった。

 薄暗い部屋の中で、ベリルの口元が少し緩む。それを見ているのも辛い。

 

「優しいね。皆にいい顔してみせる。疲れるだけだよ、それじゃ」

 

 乾いた喉が、水分を欲している。

 体の中を潤して、それからベリルに何かを言い返さなければ。言い負かされてしまう、彼の前で油断をしてしまえば、また何をされるか判らない。

 

「・・・そんな涙いっぱい溜めた目で睨まなくても・・・何で素直に言えないの?」

 動かない体は、ベリルがきっと目に見えない戒めの力を使っているからだ、と。

 そう思いたい。

 困ったように微笑む彼の手が、ゆっくり頬に移動して、髪の代わりに今度はそこを撫でていく。

「いつも一人で泣くよね。寂しいでしょ」

 こんな誘導に引っ掛かったら。

 絶対に、後悔する。

 明日からも、自分一人でやっていかなければいけない。誰にも頼らず、生きていかなければならない。今、寂しいなどと口に出せば、これからも寂しい人生を送るのだという事が決定的になってしまう。そんな事を言えば、それが事実になってしまうから。寂しいと認めることになるから。

 

 飽きもせずに温もりを与え続けるベリルの右手を押しのけた。

 重たい体をのろのろと起こして、大きく息を吸う。

「サー・クロム」

 一瞬目を見開いた彼は、それ以上何かをする事なく、黙ってこちらを見ていた。

「勝手に鍵を開けて私の家に侵入した事は、誰にも言いません。ですから、お早くお帰り下さい」

 一気に言い切って、ベリルが寝台から立ち上がるのを待つ。

 どこかで虫の鳴く音が聞こえた。それだけの、沈黙。

 

「・・・サー・クロム」

「ヴァーベインのお嬢様。・・・そう呼んで欲しいの?」

 彼を促そうともう一度口を開いた途端。口元を歪めてベリルが返す。その言い方は意地が悪く、嫌な気分を引き起こす事しかしない。こちらがベリルを敬称で呼ぶのは当然のこと。ただ彼がそれだと堅苦しいからとセンターの人間に免除を与えているだけだ。だからと言って強要はしないで欲しい。

「私はもうあの家の人間ではありませんから。でも貴方は違います」

 落ち着けない、一人で泣くこともできなくなったこの状況が。

 苦痛で仕方なくて。

「そうだね。違うよ。だけど、私はそう呼ばれるのは好きじゃ、」

「サー・クロム。とにかくお帰り頂けませんか?そうでなければ私が出て行きます」

 彼の言葉を途中で遮って逃げ出すことしか思い浮かばなかった。

 間近に腰掛ける彼の、反対側からベッドを降りようと体重を移動させる。

 

「っっ、聞けよ!!」

 

「やっ!! やめて!!」

 摑まれた腕は強い力で引っ張られた。

 彼らしくない、その口調。それに驚く間もなく、体ごとベリルの腕の中に捕らえられる。

「いや!!ふざけないで!!放して!!」

 敵うはずがない。

 そんな事は判っていた。彼の、男性の力に自分が太刀打ちできる訳がない。

 これが。

 これが彼の本性なのだろう。

「やめて下さい!!」

いくら足掻いても、その腕の拘束から逃れる事ができなかった。

自分がただ暴れて叫ぶだけで、彼はその間一言も話さず、黙って押さえつける。

「サー・クロム!!放して下さい!!サー・クロ、っ、っ!!」

 

 上から。

 覆いかぶさるように塞がれた唇には、抵抗する術を持たない。

 一方的なそのキスの、好き勝手に口内を這い回る彼の舌。強く腰を抱き寄せてくる腕にも、少しも抵抗できなくて。苦しくて、ただされるがままに操られる体が嫌なのに。

「っ、ん」

 息が苦しくなる頃を見計らったかのように。

 先日この家の前で与えられたキスの再現を、彼はやってみせる。

 優しく啄む唇にも、抗えないのはどうしてだろう。

 

「アルジェ。・・・いい加減、認めて」

 

 部屋は薄暗いのに、彼の瞳のその青さが判る。

 キーディスと同じ色だなんて、何故そう思ったのか不思議なくらい。

 それは、とても澄んでいて、鮮やかで、清らかな水の色だった。

 

「寂しいって言ってごらん」

 

 魅入られたように、そこから目が離せずに。

「強がりなんか、聞きたくない」

 シュイのそれと同じ様に。むしろ、それ以上に惹きこまれて。

 

「ほら。言って」

 甘く響く声は、何かを溶かしていく。

 力の抜けた自分の体は、勝手に首を振った。弱々しく、そんなことはできないと答える代わりに。

「大丈夫。言えるよ。言っても悪いことなんか何も起きないんだから」

 柔らかに浸透していく、その音。

「そんなに頑張らなくてもいいんだよ。ひとりじゃない」

 

 逸らせない目。

 少しの偽りもみせる事のない、その双眸。

 頼っても、いいのだろうか。

 本音を口にしても、いいのだろうか。

 

「無理しないで。我慢しなくてもいいんだってば。私の前ではね」

 

 微笑む彼は、信じるに値するか。

 誰もが彼を悪く言わない。能力も、人柄も、全てを誉められる彼。

 下の者にも慕われて、平気で冗談を言い合って。

 あの蒼羽ですら、彼を信頼して背中を預ける。

 そして。

 蒼羽以外の男性に怯えていた緋天は、無意識下でベリルを味方だと感じていた。

 

 だから。

 

 

「・・・本部には・・・あの組織には、行きたくない」

 

「うん。判った。他にも迎えが来る可能性あるけど、来たらきっちり断ろうね」

 シュイの属する組織は、何か怖い。

 だから、強制送致はしないで欲しい。

 上の命令には従うべき自分が出した、不敬な言葉。それにあっさり頷いたベリルに、肩から力が抜けた。

「もちろん、うちから送るような真似もしないよ。大丈夫」

 よしよし、と頭を撫でる暖かい手は、両目から涙を落とす引き金となった。

 ぽたり、と手の甲に落ちたそれを見て、ベリルはゆっくりと背中を引き寄せる。

「そんなに心配してたの?大丈夫、叔父さんだって君が嫌だと言えば、それだけで動くんだから。緋天ちゃんと同じだよ」

 

暖かい腕の中から。抜け出す気になれなかった。

 無理やりに押さえつけられた先程とは違って、どこまでも優しく包み込まれる。

 

こんなにも穏やかに人に触れたのは、何年振りだろう。

 こんな風に、誰かに優しくしてもらったのは、何年振りだろう。

 

 きっと。

 自分は怖ろしく長い年月を。無駄にしてきたに違いない。

 

 それが、判った。

 ようやく、判った。

 

 

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