55.
「・・・お、仲直りしたんだ?」
「フェンさん?」
玄関の扉が開く音と、ひとつではない足音。
門番かベリルか、渦中の蒼羽と緋天か。そのどれだろうと立ち上がって、廊下に続くドアを開ければ。
手を繋ぐどころか、その細い腰に左腕をしっかり回した蒼羽。それに誘導されるようにする緋天だった。二人の間に漂っていた空気が、ぎすぎすしているとか、蟠りがあるとか。そういったものが何も感じられなかったので、安堵と同時にするりと出てくる言葉。
「別に喧嘩してた訳じゃない」
こちらがどれだけ気を揉んだのか知りもしない蒼羽は、すかさず眉根を寄せてそんな事を言った。
「可愛くないぞ〜、お前あんなにぼろぼろだったくせに。緋天ちゃん、聞いてよ。こいつさ、一昨日」
蒼羽に引かれながら自分の横を通り抜けた緋天に、彼の所業を教えようと目線を移す。
「っと・・・なんか調子悪そうだな。大丈夫か?」
泣いた、と一瞬で判る目元と。蒼羽といれば常に紅潮しがちのそれがない、白いだけの頬。
気付くのが遅いとばかりに不満げな視線をちらりと寄越して、蒼羽は緋天をソファに座らせる。
「緋天?もう少し寝てから帰るか?」
「ううん、平気」
彼女の肩の横、ソファの背もたれに手をついて、身を屈め。間近から覗き込む蒼羽に小さく首を振って、ようやく微笑を見せる緋天にほっとした。その様子が愛しくて堪らないと、双眸を和ませた蒼羽はそのまま唇を落とす。軽く目の横に触れたキスは、たった今自分が危惧していた事をあっという間に覆して。頬を染めた緋天をいつも通りにからかう余地はあるようだった。
けれどそれが少しばかり、自分の生来の口の悪さを呼び起こした。
後悔先に立たず、と言うが。ベリルが出て行った後の短い間に、何があったのかなどと知らなかったから。
拍車をかけたのは、二人の世界にこのまま突入しそうな雰囲気。さんざん心配したのに、とどこか腹の立つ思いが自分の口を開かせていたのだ。
「・・・ピアス役に立ったんだよな?良かったじゃん」
「っ!!フェン!?」
「血の結界まで施したもんな。いやぁ、無駄にならなくて良か、」
「フェン!!・・・黙れ」
穏やかに緋天の頬を撫でていた蒼羽が、いつの間にか、本当に怖ろしい速さで自分の腕をつかんでいた。きつく握られたそこが、ぎりぎりと痛みを訴える。無理やりに口を封じてはこない蒼羽は、友人だからという理由で手加減してくれているのだろうか。
「・・・血・・・って・・・な、に?」
蒼羽の肩越しに、緋天の呆然とした顔が見えた。突然動いた蒼羽と、その蒼羽が黙れと言い腕をつかむ相手の自分。肌を刺すような蒼羽の殺気が、ゆったりしていた空気を瞬時に切った事。それに驚いているのと、自分が口にした耳慣れない言葉を聞きとがめたのと。両方への戸惑いだろう。
「何でもない」
「・・・っ何でもないなら、何でフェンさんに黙れなんて言うの?」
鋭かった目を元に戻して。緋天を振り返った蒼羽は、静かに言葉を置いた。言い聞かせるようなそれに、眉をひそめた緋天が蒼羽の背中に返す。彼女にしては珍しく強い口調だったけれど、既に涙声。こちらに向き直った蒼羽が力を入れたままの左手を見て、それから目線を自分の顔に向けて。憤っているだろうと思っていたそれは、困惑と悲嘆にしか見えなかった。
緋天に害を与える敵を見る視線で、自分を見ていたのは一昨日。
だから、今日もそれを向けられると思っていたのに。
そんな風に、衝撃を隠しきれない表情を浮かべるのは、何故。
「フェン・・・お前、は・・・っ」
「・・・あー・・・あー、・・違う、そうじゃない。なんかイラついてて・・・ごめん」
空虚な間が通り過ぎる。
何を言っても、遅かった。
「もういい・・・、緋天」
腕から外される、蒼羽の左手。後ろを向いて緋天の隣へと座る蒼羽の目は、一度も自分を見なかった。
「緋天ちゃんもごめん。オレ、帰るわ」
蒼羽の腕が抱き込んだ、泣き出してしまいそうな彼女。その目が自分を見上げて何かを言いたそうに口を開いたけれど、結局声は発せられなかった。
後悔だけが残る、苦い想い。
緋天には言わない、そう決めた蒼羽に従ってピアスに加工を施したのに。
それを破った自分は、一体何がしたかったのだろう。
蒼羽はこれに罰を下すだろうか。
「・・・全く。次から次へと」
溜息混じりに吐き出したそれを、ベリルは苦笑して受け止める。
最近、何かが起こる時に自分が居合わせない、そして自分の手の内で解決の手掛りすら掴めない、そんな事が多い。六月の大通りでの緋天への攻撃、それの後処理と対策関連が落ち着いたかと思えば。今度はセンター内での緋天への攻撃ときた。犯人は毛色が違うとはいえ身内。それだけでも許せないのに、捕獲する前に二回目の接触を許し、おまけに両方が自分の領域、センター内での出来事。
「もう知らせました?」
腹の底を他人にかき回される様な感覚、とにかく己が許せなかった。
自分の知らないところで、あのアウトサイドの娘はどれだけ傷つき泣いた事だろう。それを思うと自分を呪いたくなる。
「・・・溜息はもういいですから。本部に報せは?シュイはとりあえず、あの部屋から出ないようにさせましたよ」
「妙に落ち着いてるな、・・・いや、違うか」
ライティングデスクを挟んだ、すぐ先に。ベリルが自分を見下ろして立っている。
いつものような調子で話を始めたから冷静である、一瞬そう感じたが、見上げたベリルの双眸に浮かぶ青がいつもより濃く見えた。それ相応の情報入手を彼に任せたのは自分で、その方法をいちいち聞く気もない。欲しいのは、シュイが何を知り、自分達が何を知らないのか。彼の目的は何だったのか。それだけだった。
「本部に知らせるのはこの後だ。先に聞かせてくれ」
「そうですね。じゃあ、結論から言いますけど」
暖かい陽光が、窓から降り注いでくるのに。
甥の目は、濃く冷たいままで。
「シュイの目的はあくまでもアルジェの迎え。そのついでに緋天ちゃんに手を出しただけです」
「ついでだと!?よくもそんな事が言えたものだな!」
ベリルが淡々と告げた言葉に、収まりかけていた怒りが沸点を超えた。自分でその大声に気付いて、椅子に腰掛けなおす。微動だにせず、立ち続ける目の前の男。そう育てたのは自分であったが、それが少しばかり悔しかった。
「・・・ですが、事実ですよ。緋天ちゃんはおそらく・・・幸いと言いますか、せいぜいキス止まりでしょうし。それに対しての報復は先程の蒼羽のあれで充分でしょう。逆にこれ以上は、シュイの立場的にも反論されかねません。他の者にも、もう見られていますしね。私達がシュイを拘束していたのを」
「っ、腑に落ちん」
全てが甥の言う通り。
センター内での暗躍、それが枷だった。そこを突かれたら、こちらの立場が危うくなる。
「・・・唆されていないか見にきただけだと言っていたな・・・蒼羽はそんなに人気者だったか?」
「叔父さん、その言い方は蒼羽が嫌な顔をしますよ。緋天ちゃん以外にモテても意味がないんですから」
小さく笑うが、ベリルの目は未だどこか強いままで。
「シュイは割と蒼羽の事を気に入っていたようですね、つまり・・・以前の蒼羽ですが」
話の軌道をあっさり元に戻して、口を開く。
何か急いでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
「ですから、今日の蒼羽の対応には割と満足しているようですよ。何しろ容赦のない動きでしたし」
「ああ、もう・・・それならそっちは蒼羽と緋天さんに任せよう。それで?」
きっと蒼羽はシュイの処遇を聞いてくる。それは彼らで話し合えばいい。
緋天の望みに従う蒼羽に、自分達は従えばいいのだから。
「それで、とは?」
「判っているだろう?迎え、というのは額面通りに受け取っていいのか?」
冷えた空気がベリルの回りを渦巻いている気がした。
濃密なそれが、ただ流れてくる。
「そのようですね。シュイが言うには、ああ、これは別に彼らが秘密にしていた訳でもないようですが・・・判断基準は色だと言っています。体に現れる色が銀で、それが強ければ強い程、能力は高いと」
耳にするそれは、初めてのもの。
「アルジェの生まれた、あの地方。突然変異で生まれる子供の確率が他よりは高いらしいですね。親の色を受け継がない子供、という意味での突然変異です」
アルジェの髪は、特殊だった。
最初に彼女を目にして、飛び込んできたのはその美しい髪の輝きと。愛らしい笑顔。
孤児院という子供だらけの場所で、確かに彼女が一番光り輝いているように見えた。特別な美しさ、特別の笑顔、特殊というこの言葉が良い意味で相応しく思えたのだ。
「・・・あの子が、彼らの仲間だと。アルジェは知っているのか?自分の力を」
「いえ、私達と同様、初耳だったようですね。あの髪の色を見れば充分だそうですよ、確証としては」
人を惑わすその力は。
自分達が利用するものではあるが、今からそれをアルジェに課す事は、どうにも落ち着かない。落ち着かないのは、幼い頃から彼女を自分が見てきたから、娘にそれを課すのかという理不尽な思い。その感覚に近い。
「とにかく。向こうがどう言ってきても、彼女の意見を尊重する。それしか出来ない」
それだけは、全力で取り掛かる。
無理を押し通す事だけはしたくなかった。
何もかもが後手に回っている、今の自分にできる事はそう、それしかない。
「・・・そう仰ると思ってましたよ。では、そういう事で」
手配はしておく、と言うベリルの目には、更に言い知れない力が増していた。
「ここからは、関係ない事ですが。いえ、関係ないとも言い切れませんが」
「キーディス、という男をご存知ですか?」
それを紡いだベリルの声は殊更冷たかった。
射抜くように自分を見る目が、早く答えろと急かして。
「アルジェの兄だよ。知っているだろう」
九月に赴任したばかりの彼女を訝って、ベリルは独自に調べていたのだから、家族構成くらい基本情報だろうに。それを敢えて聞いてきた、彼の意図が判って。体の奥を緊張が走る。
「あの家の時期当主だ。優秀であるのは昔から変わらないし、文句のつけようがないと思うが」
幼少から教育を受けていたのだから。常に彼は自分が中心になる人物だと、それを弁えていた。弁えていたからこそ、大人に混じって来客をもてなし、聡い子供だと賛美の声を受けていた。
「私が聞きたいのは・・・叔父さんの印象ですよ」
何を根拠に、今、彼の名前を出した。
彼が、この厄介な問題の最中に、どう関係するのだろうと。
それを思ったが、口にはしなかった。
青年になっての、キーディスという男は、どこか。
「・・・今イチ、食えないな。優秀ではあるが」
全幅の信頼を置いている、彼とアルジェの両親。それなのに、その子供のキーディスという男は、何か違和感を覚えるのだ。自分がアルジェに外の話を、殆どがこのセンターでの話だったりと仕事関係ではあったが、とにかくそれらを話すのを見れば、遮るように割り入った事が幾度かあった。10代の好奇心旺盛で、しかも勉強意欲の高いアルジェに、令嬢という立場では経験しがたい話をすることを嫌っていたのだ。
その当時は、ちょうど。
「ああ・・・そういえば、アルジェと婚約話が出始めた頃だな。内輪ではあったが」
一年も、経っていなかっただろう。
彼女が突然、家を出ると言って。
自分に本部の研修生となる便宜を図ってくれないかと、手紙を寄越したのは。
「そうですか」
静かに踵を返した、ベリルの。
その身に纏うのは、喩えるなら炎。
暖かい色よりも、冷たい色の方が温度が高いという、それだった。
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