52.

 

 硬質の石材の床の上で響くのは、かつかつという三人分の足音。

 目的の地下会議室へと近付くごとに、それは大きく反響していく気がした。

 

「・・・問答無用で取り押さえられた俺の罪状は何?わざわざ人払いまでしてくれてありがとう」

「何をしたか自分が一番判ってるだろう?君は特別だから、こうして騒がれないように隔離してるだけだよ。そうでなければとっくに蒼羽が殺してた」

見えない鎖で、蒼羽とベリルの力による戒めの鎖で。後ろ手に腕を押さえられ大人しく歩くだけだった彼が。

完全に人気のなくなった廊下まで辿り着いたところで口を開いた。

いつもよりも厳しい声のベリルが、双眸に冷たさを湛えたままそれに答える。

「・・・あんな女なんか、さっさと消しとけばよかった」

 彼がどこの誰かは判らない。

 ベリルも蒼羽も知っている、このセンターの、それも割と上位の。そんな立場の人間なのだと思う。

 一介の職員である自分が、無礼な事を口にするのは許されない。それは判っていた。

判っているけれど、彼は加害者だ。

だからという訳でもないけれど、一向に悪びれない様子と、その、最低な言葉。

 

「何なの?何が気に入らなくて緋天さんを攻撃したの!?何が悪いのよ!!あの子がどんなに怖がっていたと思うの!?何もしてないじゃない!!緋天さんは何も悪い事なんてしてない!!」

 完全に自分をコントロールする術を手放していた。

 あれだけ怯えて。息もできないほど怯えきって。

 泣きながら震える手で必死に蒼羽のシャツをつかんでいた、緋天の。

 その緋天を馬鹿にした言葉、それは許されないものだと。それがぷつりと自分の糸を切るのには充分で。

 斜め前で、ベリルが振り返り驚いた目で自分を見下ろしている事も。そんなものはどうでも良くて。

 

「・・・ひどいな、仲間なのに」

 

 ぽつりと、けれども確実に。

 地下会議室の中へと彼の体が完全に入った時に、その声が響いた。

「な、にを・・・」

 扉を開けたまま支えていたベリルが、呆然とした顔を彼に向けて口を開く。

「知らなかったのか?あれだけ躍起になってアルジェの事を調べていたくせに。調査の腕、落ちたな」

 嬉しそうに口元を歪めた彼が、自分の名前を口にした事。

 ベリルがこれ程までに驚いている事。

 その理由は、一体何だと言うのだろう。彼に仲間だと言われる、その屈辱こそが。

「・・・髪を見て、何も気付かなかったって? ふ、これだけ目立つ」

 忌まわしい。

 忌まわしいのに。

「それともベリルでさえ、俺たちにはノータッチってことか?・・・笑えるな」

 髪の色が、珍しいから。

 だから、放り出された。母親ごと、排除された。

「奇跡としか言いようがない。本部にいたのに、俺たちに見つからなかったなんて」

 愉快で仕方ない、と言うように笑みを浮かべ続ける、その彼の。

 仲間、だなんて。

「・・・まさか、ここに来たのは」

 

「さすが。察しがいいな。迎えに来たんだよ、アルジェを」

 

 何かを言わなければ、とそう思うのに、何も出てこない。

 迎え。

 彼の言う迎えとは、どこへ迎えるためのものか。

 

 すたすたと部屋の奥へ向かい、勝手に腰を下ろした彼が、自分を見上げていた。

「・・・アルジェ。入って」

 扉を支えたままのベリルが腕を伸ばす。その手が自分の肩を押して室内へ導き入れるそれに、抗う気も起きない。

 逸らせない目で、彼のその双眸が見える。

 とろりとした銀色に囲まれている、不思議な色合いの黒。

 磨いた鋼のような艶を放つその濃い色の周りに、溶け出しそうな銀。

 それが自分を絡め取って、眩暈に似た感覚が頭の中を巡っていく。

 

「シュイ!やめろ!!」

 遠くでベリルの怒りを孕んだ声が聞こえて、目の前が暗くなる。

 背中に暖かな感触と、両目を覆う大きなそれが。

「ゆっくり目を開けて」

 ベリルのものだとようやく気付く。背後から回された彼の腕が腰を抱きこんで、目の上を手で塞がれていると判って。咄嗟に身を捩る。その行為は抑えつけられることなく、あっさりと体が自由になった。青い目が少し細められて、それが自分を覗き込む。

「・・・何か、見た?」

「・・・・・・いいえ」

 首を横に振って。

 否定の意を示したけれど。

 脳裏を這い回る、思い出、とでも言うべきか。とにかくその記憶が、鮮明に浮き彫りにされたのは確かだった。

 

「まぁ、ついでに蒼羽にちょっかい出しただけ。ムカつくんだよな、蒼羽もあの女も」

「・・・ついでと言うにはやり過ぎだ。どのみち蒼羽を怒らせたんだから、ただでは帰れない」

 緩く笑うシュイと呼ばれた彼の言葉も、自分から視線を外して厳しい口調で返すベリルの言葉も。

 どちらも、ただ頭の隅を流れていくだけ。

 けれども。

ベリルの青い目が、今日は自分の兄であった男に重なって見えなかっただけ、少しはまともな思考を保てているのだろうか。

 

――― もう、会わない。キー、・・・お兄様には、もう迷惑をかけませんから。

 

そう、言い置いて。

必死で前を向いて、あの家を出たのは。

何年前の事だったろう。

 

 

 

 

「そんな・・・破棄したいだなんて・・・何があったの?」

 目の前で母が、育ての母が顔色をなくして自分を見ていた。

まるで、知らない人間を目にしているように。その表情は、信じられない、という驚きで満ちて。

「何も。・・・お兄様に非があるわけではないんです。ただ・・・」

 母の肩を抱いた父、養子だという差別なしに育ててくれた、優しい父が。じっと自分の言葉を待ってくれていた。口を開きたいのを必死で抑え込んでいるような、そんな顔。

「・・・ただ、自分が相応しくないとそう思いました。私はヴァーベインの当主の妻を務める自信がありません」

「自信なんて後からついて回るものよ。そういう不安はキーディスが推して量るものだわ、埋めるのはキーディスの務めよ」

「違うの、そういう事ではなくて」

 慈愛の眼差しで、母がゆったりとした言葉を出した。母は母の解釈で、そういった事を口にした。つまりは、マリッジブルー、世に言うそれが自分を(さいな)んでいると。だから、唐突に婚約破棄を言い出したのだと。

「独り立ち、をしたいの。何不自由なく育ててくれたお父様達を、こんな風に裏切る形になって申し訳ないと思っています。だから、縁を切ってくれて構わない。いい子でいられなくて、ごめんなさい」

 

 一気に言い切った自分を。

 父も母も、呆然とした表情で見ていた。

「・・・・・・ルー」

 その視線に耐えられなくなって、下を向きそうになったその時。

 父が自分を呼ぶ声を耳にして。それに自然と顔を上げる。有無を言わせない響きが、そこにはあった。

「・・・キーディスが何か・・・何かお前を悲しませたのかな」

「いいえ・・・いいえ、何も。何もありません」

 声が。

 声が震えないようにするのに、精一杯だった。

 目に浮かび上がってくる涙を、決して流すわけにはいかなかった。それだけは、絶対に今はできない。

「そうか・・・。ルー・・・アルジェ」

 どこか遠くを見るように、自分を見て呼ぶ父の声は、今は優しくて。

「お前がここに来てから。一度もいい子でなかった日はないんだよ。私達にとっては、賢くて、愛らしくて、皆を笑顔にさせてくれる、いい子だった」

 ずっといい子だった、と穏やかに響く声。頬を、そして目の奥を熱くする。

「・・・急ぎすぎたのかもしれないな。お前をいつまでも手元に置いておきたかったんだ。だから、キーディスとの婚約を勧めたし、一日も早くと急かしもした。お前は誰にも人気者で、色んなところから欲しいと申し出があるからね」

 あまりに優しく浸透していく父の言葉、その音色。

 堪えきれずに零れ落ちる涙は、手の甲にぱたりと落ちた。

「何かやりたい事があるのか?・・・それとも、その髪は気持ちが固まっている表れかな。もう決めてあるんだろう?どうしても・・・残念で仕方ないよ」

 バスルームで、腰まで届いていた髪を切り落とした。

 首が見えるくらい、短く。

 生まれて初めての、その心もとない感触の頭。けれどもそれは、自分を怖ろしく冷静にする時間を与えてくれた。ライティングデスクに向かい、知り合いの男性へ手紙を書き、速達扱いで送った。数日中に返事があればいいのだけれど、贅沢は言えない。けれども、この家の子供になってから幾度も顔を合わせているその男性なら、自分を遠くの組織へと入れる事に難儀を示すとは思えない。

 会うたびに、自分の興味の幅を広げてくれる話を披露して、こちらの質問に詳しく答えてくれた彼。一度だけ、彼が自分を誘ってくれた事があるのだ、勉強する気はないか、と。

 

「ここを・・・出ようと思うの。予報センターの本部の、そこの研修生になって、それで勉強がしたいんです。だから、何年かかるか判らないから・・・婚約を、破棄に、して下さい」

 

「・・・アルジェ」

「ユナ、やめなさい。ルー、好きなようにやってごらん」

 自分を引き止める言葉を口にしようとする母を、父は制止する。

「お前が望むものを与えたいんだ。それが可能なら。婚約は・・・言う通り、破棄にしよう。だけど、縁を切るなんて、そんな事は言わないで欲しい。それだけは、聞き入れられない」

「・・・でも」

「まだ親でいさせて欲しいんだ。成人した時に、その考えがまだあるなら考える。だからそれまでは、親でいさせて欲しい」

「・・・・・・判りました」

 暖かいはずの、父の言葉。

 それが、重くて怖いのは、今だけなのだろうか。

「ルー、・・・その髪は、後でそろえましょうね」

「はい、お母様」

 目にうっすらと涙を浮かべた母が、同様に涙交じりの声でそれだけを言う。

 ばらばらになっているだろう後ろ髪は、見苦しい。

「きれいな髪だったのに・・・惜しいわ」

 惜しい、と言われたそれは。

 髪に対してなのか、それとも、自分も含まれているのか。

 

 怖くて怖くて。

 顔を上げ、母の目を見つめて。

確かめる事は、できなかった。

 

 

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