51.

 

 隣で小さく息を呑み込む音がした。

 それが緋天の発した、とても小さな悲鳴だと頭が理解した時には、もう。走り出していた彼女。

「っ緋天!!」

 はっとした顔の蒼羽が、焦りを含んだ声で彼女を呼んだのに、それに立ち止まる事もなく駆ける緋天のその背中が。小さくなっていくその様子を、どういった訳か動かない体で見送る。気付けば彼女は見当たらない所まで遠ざかっていた。

「緋天さんが・・・蒼羽?」

 追いかけない蒼羽は、固く拳を握りしめて立ち尽くしている。その横で困惑した表情を浮かべる図書室の室長。

「っっ!!」

 暗い光を宿した目は、自分だけでなく見た者全てを凍りつかせるのだろう。

 激情を閉じ込めた鋭い双眸が、緋天の去っていった方角を見つめていた。動かない蒼羽が何を思うのかは知らないが、今の緋天を放っておく事など愚の骨頂。

枯葉の散った芝生に足を戻す。心臓が不規則に喚いていた。

何か判らないが、とても嫌な予感がして。

進んでいるはずの足元が、どこか覚束ない。

 

「・・・っ・・・緋天!!」

乾いた音を立てる足元、その後ろから早い足音が近付いて、あっという間に自分を追い抜いた。

 右頬に、蒼羽の走る風を感じて。ほっとしながら、その背を追いかける。

 木の重なった影の向こうに、緋天がこちらに向かうのが見えた。戻ってきたのだ、と安堵したのは一瞬で、その頬の血色がとても悪くどこか苦しそうな顔。

「緋天っ・・・・・・緋天!?」

 駆け寄った蒼羽の腕の中に倒れこむように抱きとめられた彼女の頬には涙。

「緋天さん!?どうしたの!?」

 泣きながら何かを言うが、それは抱きしめる蒼羽にも聞こえないような小さな声で。

 呼吸がどこかおかしかった。全力疾走の後のような息をし続けていて、少しもそれが落ち着かない。震える手が蒼羽のシャツを握りしめていた。必死で何かを訴えようとするその様子。

「・・・っぅ、・・・っあ、っうし、後ろ・・・!やっ、あ、っ!!」

 

「蒼羽!!緋天ちゃん!?」

「あ、っサー・クロム!!」

 一向に治まらない激しい呼吸。以前、ベースで見たのと同じなのでは、と思い当たる。

 緋天の体を蒼羽に寄りかからせ、座らせたところで、後ろから響いた声に振り返った。緊迫した表情を浮かべたベリルが走り寄ってくる。

「どうした!?緋天ちゃんは・・・っ!!蒼羽、口を塞げ!」

 一旦膝をついた彼は緋天を見て顔を歪め、蒼羽を見やる。

「っ緋天・・・」

「過呼吸だ・・・緋天ちゃん、落ち着いて・・・鼻から吸って、一度止めよう」

 血の気の引いた緋天を抱きしめる蒼羽が、彼女の唇に掌を当てる。恐怖の色を浮かべた緋天は、涙の粒を零す。

「緋天・・・ゆっくりでいい・・・長く吐けるか・・・?」

「そう・・・大丈夫だから・・・吸って・・・吐いて・・・吐いて」

 

 穏やかな声を発しながらも、ベリルの目線は違う方向を向いていた。右手を自分と蒼羽に見えるように上げて、この場にいろと命じて立ち上がる。

「・・・動くな。騒ぎにしたくない」

 下から見上げたベリルの、その顔の。両目に灯った冷たい炎は、ただ一人に向けられていた。

 先程も、蒼羽に対して感じた畏怖。あまりにも強すぎる目は、射抜かれていない自分にも恐怖を抱かせる。何人か、もともと中庭やその周りを囲む廊下にいた人間が、既に何事かと集まり始めている。

 けれども。

 ベリルに話しかけられているのは、明らかに、一人の男。

「・・・・・・あいつ、なのか・・・?」

 左側で、緋天と同じように血の気のひいた顔で蒼羽が呟く。

「ベリル・・・」

「・・・残念だけど。私の予想では、犯人は彼だ」

 

 背丈も身頃も、標準。

 髪の色は濃い茶色。歳は蒼羽と同じくらいだろうか。

 これといって特徴のない、5メートル程先で、じっと立つ彼が。

 犯人。

その根拠は一体何だろうと思う前に、ベリルも蒼羽も、彼を知っている口ぶりで。

 

「・・・バレたなら仕方ない」

 

 ベリルの強い視線。おまけに、予報士である蒼羽の前で。

ニヤ、と笑ってみせた、それ。

 

「っっっ!!!捕らえろ!!」

 

 氷の。

 冬に湖に張った厚い氷。その、上を。

 素早く亀裂が奔る、音。その音が。

 

 蒼羽から発生した。

 中庭全体を蒼羽の力場が瞬時に覆う。青い糸が、笑みを浮かべた彼を絡めとる。

 

「・・・お前が・・・緋天に手を出したのか・・・?」

「・・・っ、く!!」

 緋天を腕の中に抱いたまま、蒼羽がぎらぎらとした凶悪な視線を投げる。四方八方から押さえられる見えない蒼羽の力場に、もがく彼は何も答えない。

「蒼羽。ここだと目立つ。移動する。お前は緋天ちゃんを連れていくんだ」

「・・・っ」

 膝をついた犯人の両手を背中で掴んだベリルが静かに発した声は、蒼羽を鎮めた。その言葉に含めた緋天の名前がそうさせたのかもしれないが、ざわざわと騒ぎ始めるギャラリーの前では何もできない。それを受け入れた蒼羽は無言で緋天を抱き上げて背中を見せた。

 

「マルベリー!!」

「っはい!!」

 残った自分達を囲む外野。その中から飛び出してきたマルベリー。

「地下の会議室を使う。叔父さんを連れてきて」

「はい」

 静かな声のまま、用件だけを告げたベリルは。

 その静けさが際立てば際立つ程、深海の海溝のように冷たい色を発していた。

 

 

 

 

「緋天・・・」

 逸らされたと思っていた蒼羽の目。

 それがとても近いところから、自分を見ていた。

「・・・蒼、羽さん」

 苦しかった呼吸は、いつの間にか自然なものに戻っていて。中庭にいたはずなのに、蒼羽に抱えられている場所は、これで三度目の彼の部屋。

「・・・大丈夫か?」

 頬を撫でる掌の温もりと、心配そうな声と表情。手に握りしめたままの、蒼羽の黒いシャツ。

「〜〜っ!!」

 ここは安全だ。

 蒼羽しか見当たらない部屋と、自分。

 目の前の彼は絶対本物だと。脳が告げていた。

「っ蒼羽さんじゃない人のこと、蒼羽さんだと思ったの!!」

 あの場にいた彼は、捕まったのだろうか。

 靄がかかったような意識の奥で、蒼羽の怒った声を聞いた気がした。

「判ってる・・・やっと判ったんだ」

「・・・っ、あ、図書、室で・・・あの人が」

「判ってる。緋天に俺だと思い込ませたんだろう?」

 言わなければ、と勢いこめば。彼は反対に静かで穏やかな声を発した。判っていると言うそれは、嘘でも何でもなく、本当に犯人の手管を把握しているようだった。

「緋天。それは後でいいから落ち着いて・・・もう苦しくないか?」

 頬に置かれていた左手が、前髪を横に流してから頭の後ろを支えた。優しいその仕草は、自分に期待を抱かせてしまう。じっと見つめてくる蒼羽の、そのワイン色の双眸は変わらず美しかった。頷いてみせるのが精一杯。

「・・・っ、ん」

 観察するようにそれを見てから、唐突に唇が塞がれる。

 ものすごく優しく啄んで、甘い感覚を与えられた。ふわりと包む蒼羽の空気は、全てを忘れてしまいそうに心地いい。髪を撫でながらゆっくりと離れた蒼羽を、自然と目線が追いかけた。

「・・・嫌って離れたわけじゃない。あのまま緋天の傍にいたら、・・・無理やり抱きそうだったから」

 小さくなっていく声は、それでも自分に安心を与えるのに充分だった。

 そもそも蒼羽を拒否した自分が招いた事。悪いのは自分なのに。

「緋天・・・ずっと近くに置いとけば良かった・・・もうこんな想いしたくない。ごめん・・・」

「っっ、言えなかった、の・・・嫌われる、って思、った、から」

 じわ、と浮かんでくる涙を流したくない。蒼羽の目が、痛みを我慢しているかのように細められるから。

 目の端に唇を寄せる彼に、結局涙腺を刺激される。零れた涙を優しく舐められて、心臓は締めつけられる一方で。

 

「・・・何をされた?」

 ゆっくりと吐き出された言葉は、髪を梳く蒼羽の手の流れに合わせて、恐れというものを自分の中から完全に排除した頃に発せられた。

「緋天。大丈夫だから。俺は緋天を嫌わないし、緋天に対しては怒ってない」

「・・・あの」

「ん・・・?」

 口にするには、かなりの勇気が必要。それでも言わなければ、いつまで経っても罪悪感が増すばかりだ。

「・・・キス、されて・・・首、も。・・・さっき、も・・・キスされ、た・・・」

「そうか・・・」

 小さく嘆息して、髪の上を蒼羽の手が滑る。

 それを繰り返すばかりで、何も言わなくなった彼。

 

「・・・っごめんなさい・・・」

「緋天は悪くない」

「っでも・・・図書室で、・・・気付かなかったら、もっとして欲しいって思って・・・それで・・・」

 自分がキスを強請ったのだという事は、許されないから。自分自身で許せないのに、蒼羽が悪くないと言うそれが、とても悲しくて。

「蒼羽さんじゃない人に、キスして欲しいって、思った・・・っごめ、んなさい・・・!!」

 止まっていた涙がまた零れていく。

 汚いと思う自分の唇も、体も。全部なくなってしまえばいい。

「緋天。緋天、それは終わった事だ・・・落ち着け」

「・・・だって・・・っ汚い、・・・もうヤダ・・・っ」

 

「っっ、緋天!!」

 

 びくん、と肩が撥ねる。

 突然の蒼羽の大きな声は、とても厳しい色を含んでいて。

「っぅ、っ、っ」

「・・・誰が汚いなんて言った・・・?」

 怒りを孕んだ彼の目を見返す事ができなかった。けれど俯くことは許されず、頬と首を支えられる。

「あいつか?そう言われたのか!?」

 蒼羽が怒っている。

 肌にびりびりと感じるような、鋭い視線がとても怖かった。背に回った手も、痛い程に強く押し当てられて。

「・・・言、われて、ない・・・」

「じゃあ何で緋天はそんな事を言う?・・・緋天は汚くなんかない。相手を俺だと思ってたから、緋天は続きを望んだ。違うか?」

 厳しい声のまま紡がれたそれ。汚くないと蒼羽は言うが、そう思う気持ちは拭えなかった。

「それとも、違うと判ってて望んだのか?」

「っっ!そんなことしない!!」

 冷たく問われて、思わず大きな声で反論した。怖いと思っていた蒼羽の目が、ふ、と和む。

「じゃあいい」

「っんぅ・・・」

 微笑と共に甘く口付けられる。

 先程よりも深く、触れない部分がないくらい、丹念にキスをされた。

「緋天・・・今緋天の前にいるのは誰だ?」

「っ、っん、蒼羽さん、っ本物の蒼羽さん」

 唾液が零れてしまいそうになり、それを蒼羽が舐めて。

 至近距離で彼の目が自分を見て問いかけた。

「あとは、首か・・・どっちだ?」

「・・・っあ、右・・・っ」

 犯人にキスをされた部分を、蒼羽が上からなぞっているのだ、とようやく気付いて。口付けながら下がっていく彼の頭を、抑えようとは思わなかった。先日のような感覚は既になく、確実に蒼羽だと、教え込まれるようにキスを落とされる。

「っ、・・・ぁ、や、痕付いちゃう、・・・っ」

「・・・緋天・・・このまま・・・・・・抱きたい・・・」

 きつく肌を吸い上げる蒼羽に、ようやく我に返った。正直、甘さに侵食されて、ぼんやりしかけていたのだが。

「や・・・だめ・・・」

 トントン、と遠慮がちなノックの音が、蒼羽の動きを止める。

 ほっとして、それから今自分が何を思っていたのかを悟って頬が熱くなった。

「あの・・・蒼羽さん。地下の会議室に皆さん集まってますが・・・その、・・・審問に同席されますか?」

「っ、ああ・・・もう少ししたら行く」

「はい。お伝えしておきます」

 マルベリーのものと思われる声が、蒼羽に何かを伝えて。その内容が理解できない内に、彼は去っていった。目の前の蒼羽は困ったような顔で自分を見下ろしている。

「・・・緋天・・・ここで待ってられるか?」

「え・・・う、ん・・・」

「少し寝てろ。その間に済ませてくるから。ここは誰も来ないし、入れない」

 どこかに行ってしまうという事実は、少なからず自分へと動揺をもたらした。蒼羽の手が自分の体を横にして、寝る体勢にする。目の上に掌がのせられて、自然と瞼を閉じた。

「次に起きたら、帰る時だ。すぐ戻るから、ここから出るなよ」

「うん・・・」

 耳の傍で囁かれた言葉に、本当に眠くなってきて。

 髪を撫でる蒼羽の手の感触。

眠りに落ちる寸前まで、それを感じていた。

 

 

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