50.

 

 緋天のいない時間は、空虚で色がない。

 イギリスにいる間、散々それを実感したはずだった。どんなに足掻いても伸ばした腕は空を切るばかりで、緋天が何かに危害を加えられてはいないかと、消える事のない焦燥感を抱き続ける。

そんな想いに我慢がならずに、緋天の元へ帰ってきたつもりだったのに。

 

「・・・ですから、彼女が持ち場を離れたのは、唐突ではなく元々の予定だったんです」

「それを把握していたのは誰だ?」

 

 昨日、家にいる緋天に電話をして、眠れなかったと言う彼女に、自分が行けば大丈夫かと声をかける事ができなかった。そのまま何も言えず、心配するなと言い置く緋天の声は泣き出しそうだったのに、それにも応えられなくて。募る罪悪感と嫌悪感が、それでも汚らしい欲望を凌駕する事はなく、ひたすら醜いものが澱んでいく。

 

 緋天が攻撃された日の図書室受付の行動の裏付けを取ろうと、直属の上司に報告をさせる。同じ事は、既にオーキッドが調査済みなのだけれど、自分の目と耳で確かめたかった。目の前の彼や受付係が、自分達側の人間であるかという確認をしたい。

 しばし逡巡してから男は口を開く。

「・・・私と、他の図書室受付、それから情報部の一部です」

「確実にそれだけか?その全員は、上からの審問をもう受けているか?」

「はい・・・知っていたと申告した者は全て。・・・申し上げにくいのですが、彼女の予定など調べようとすれば誰でも簡単に知ることはできます」

「それは判ってる。・・・判ってるから、お前の口から聞きたい。俺が知りたいのは、隠れた鼠だ」

 

 緋天はどうしているだろうか。

 泣くなと伝えた時は、焦がれる想いを音にしたくて仕方がなかった。帰ってきた今は直接耳元で囁けるはずなのに、こんな風に顔を合わせるのが辛いと感じるなんて、予想もしていなかったから。

 

「私には、思い当たりません・・・ですが、」

 意図的に。

 緊張の解けない男に、強い視線を送っていた。

「この身は・・・貴方達に託しております」

 意志が弱ければ、必ず目線は外す。疚しい気持ちがあれば、同様に。

それを見越して投げた圧力を退け、彼はこちらを見返してきた。

 

「・・・経歴と階級を。それと、名前も。覚えておく」

 驚く程に、真っ直ぐで涼しい視線を返されて。

 突然発掘した、使えそうな人材に。口元が緩んで笑みがこぼれていった。

 

 

 

 

「蒼羽さん・・・」

 紅葉した木々と、落ち葉でいっぱいの芝生の。その向こう側。

 中庭を挟んだ奥の建物の窓際に。

 蒼羽がいた。

 

 自分の知らない、中年の男性。彼を前にして、蒼羽は小さな笑みを浮かべている。

「あら・・・珍しいわね、蒼羽がああやって誰かに笑いかけてるのって」

 隣のアルジェが、正に今、自分が思っていたのと同じ事を口にした。

 途端に胸の中の心臓が、痛みを持って跳ね上がる。

 ここのところ、蒼羽はあまり自分を見てはくれない。それは自分が彼を拒否してしまった夜の、その次の日から。じわじわと何かが侵食していくように、蒼羽の目が苛立ちを含んだような色を見せる、そんな気がしていた。彼がそうなるのは、間違いなく自分の行動が招いた事だと、充分すぎる程、判っている。

 それなのに、全身が蒼羽を求めていた。

 彼に傍にいて欲しいと、手を伸ばしたくて仕方ない。

 

 かさかさと枯れた葉の音のする芝生を踏みしめる。

 アルジェが強く勧める、“今の自分を把握する”という作業。

その為に。蒼羽がいなければ何もできない自分の為に。

心療内科のような専門の人間を呼んだのだ、と彼女は柔らかな声で自分に告げた。そこまで施してくれる価値が、果たして自分にあるのだろうか。蒼羽を満たすこともできない今の自分は、何の価値もないように思われる。笑顔を向けてくれる、ベリルもアルジェも。本当は、もうこんな人間はいらないと、そう思ってはいないだろうか。

 

「おはようございます」

 先に声をかけたのはアルジェだった。

 蒼羽がその笑顔のまま自分を見てくれるか、それが怖くて。彼女の斜め後ろから、そっと見る。

「あ、おはようございます」

 三歩先から、蒼羽の笑顔を向けられていた男性が、こちらに気付いて小さく頭を下げた。少し背中を向けていた蒼羽が、ゆっくりと頭をこちらに向けて。そして。

「・・・っ!!」

 

「緋天、っ」

 朝の光に美しい色を放っていた、その目。

 深みのある濃い紫と、赤と、紺色が綺麗に溶け合って、それから淡い光に透かしたような、その双眸。

 

 逸らされた。

 自分を捕らえたその目が伏せられ、それから左に逸らされるのを。

 見てしまったから。

 

「っ緋天!!」

 

「・・・っ、ぅ、あ・・・っ」

 背を向けて、走り出すしか出来なくて。

 我慢できずに零れだす涙を止められない。

 

 蒼羽には、もう。

 自分はいらない。必要ない。関係ない。

 好きでも何でもない。

 

 

 

 

「・・・おっと・・・何処に行くんだ?」

 どん、とぶつかった壁は、低い声を吐き出した。

 脳に入り込む、甘い香り。

 口元を塞ぐ白い布が、視界の端に映って。

 

「この前逃げられたから、今日はリベンジ。さぁ、俺にキスして」

 耳の上で響く、甘い声は。

 蒼羽の優しく穏やかなそれと。

「緋天」

 一致するはずなど、ないのに。

「ほら、今ならまだ間に合う。誰かさんは追いかけるのを迷ってるみたいだ」

 

 体がとろけそうで、心地良かった。

 たった今、自分は一体何をしようとしていたのだろう。

 甘い香り、甘い声、背中に回った腕、髪を撫でる暖かな手。

 自分の為だけに、微笑んで囁く蒼羽。

 

「・・・緋天、ほら。キスして。それとも俺からしてほしい?」

「蒼、羽さん・・・」

「ん?」

 とても近いところで微笑む彼は、蒼羽のはず。

「・・・してほしいのか?・・・お前は簡単だな」

 一転して、冷たい水の底から吐き出されたような、そんな響き。

 唇の上で、彼が話す。

 

「・・・っ!!」

 落とされた口付けに、体の芯が冷えていく。

 その、感覚は。

 どこかで。

 

 

「・・・ゃ、っ違う!!っや、だ、ぁ!!」

「っっ!!また・・・!」

 

 バチ、と駆け上がった青い光は、確実に彼を呑み込んだ。

 弾いた体から抜け出して、後ずさる。

 目に映る彼は、もう蒼羽ではない。

 

「・・・っ、う、・・・っも、ヤ、・・・やだ・・・!!」

 ずきずきと目の奥を刺激する痛さは、蒼羽ではないこの男にキスをした罰だ。

 霞がかかったような頭を、視界をそのままにして、震える膝を押さえつけ踵を返す。

 

 

「緋天!!」

 前方から自分を呼ぶ声。

「緋天っ」

 それは間違いなく、蒼羽。

「緋天!?」

「っぁ、っ蒼、・・・っ蒼羽さん!」

 前に倒れそうになる体を引きあげたのは、暖かい腕で。

「や、・・・怖、あの人、・・・っや、後ろ、・・・っ、ぅ」

 何を言えばいいのか、それすらも判らずに。

 言葉にならない声が漏れてくる。働かない頭と、弛緩した体。必死で蒼羽のシャツを掴んだ。

 

 蒼羽の心配そうに自分を呼ぶ声だけ。

 確かに聞こえて。耳にとけていく。

 それだけが、本物。

 

 

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