49.
「蒼羽、朝ごはんー、っていうかもう昼だけど・・・あ」
扉を開けて目に入ったのは、携帯電話を耳に当てる蒼羽。
普段から、彼の睡眠時間はあまり長くない。朝食を摂りに一階へと降りてこない蒼羽の事をベリルに言えば、放っておけと返された。日曜日でベースに来る必要のない緋天、彼女絡みで蒼羽の機嫌がいいとは言えないのだから、と。出掛ける様子もみせず、部屋にいるという事から察知しろ、とまで。
「・・・眠れたか?」
一瞬。ちらり、と。
ドアの傍に立つ自分を一瞥した蒼羽の眉間には、はっきりと刻まれた皺。
「緋天・・・今からなら眠れそうか?」
溜息を吐きながら、蒼羽はベッドに腰を下ろした。電話の相手は緋天。昨日の様子からも、彼女が弱っていると判る。あれだけ蒼羽に傍にいて欲しがっていたのに、何故、彼は今ここにいるのだろう。緋天が熱を出していた時は、ずっとその家に泊まっていた彼が。
「俺が・・・」
心なしか、蒼羽の声に疲れが混じっている気がする。その顔にも、苦く痛いような表情を浮かべているのに、目だけが恐ろしく鋭い光を放っていた。自然に、体に緊張が走る。
「判った・・・・・・っ緋天」
緋天は何を言っているのか。蒼羽がこんな顔をしている事を、彼女は気付いているのか。
無性にそれが気になった。
一日の殆どを、自分は関係ないという顔で過ごしていた蒼羽を、これだけ変えた緋天。
「・・・明日な」
優しく。とても優しく。
別れの言葉を口にした蒼羽の、その鋭い双眸が閉じられていた。
しばらく携帯を耳に押し当てたまま、黙っていて。緋天が電話を切った事を確認したのか、パチン、と音を立ててそれを閉じた。その時にはもう、両目が開けられていて。立ち上がりながら、こちらに目を向ける。
「・・・食べないの?」
「お前にやる」
今の蒼羽の空気を具現化したような、黒の上下を身に纏った彼が、すれ違いざま返事をした。そのまま部屋を出て、階段を下りていく。
「蒼羽っ、どこ行くんだよ?」
なんだか体が竦んでしまい、反応が鈍っていた。ようやく口から出た問いに、蒼羽は振り返らずに黙って玄関を目指す。
「蒼羽、・・・蒼羽ってば!!」
「はいはい、シン、落ち着け。・・・蒼羽、どこででもいいから夕飯は食べろ」
彼の姿が階段の上の自分から見えなくなった時点で、やっと体が動いた。蒼羽を追いかけて一階へと降りれば、ベリルが両肩を押さえつけて、それ以上進むのを阻止して。そして、静かに蒼羽に声をかけていた。
それにも答えず外へ出て行く彼の背中。
目を逸らさずにいるのが、自分にできる唯一の事。
「・・・オレ、こういうの、・・・なんかイヤだ」
玄関の扉が閉まった音を耳にして、まだ肩に手を置くベリルに呟いた。
「・・・・・・蒼羽は蒼羽で緋天ちゃんの事考えてるんだからさ。今はそっとしとこう」
「判んねーよ・・・なんで蒼羽は急にあんなんになるんだよ・・・あれだけ甘やかしておいて、なんで今はダメなわけ?・・・緋天は蒼羽と一緒にいたいって思ってるの、蒼羽だって知ってるくせに」
どこか歯車の噛み合わない、蒼羽と緋天の、先程の電話。
おかしな空気を纏う蒼羽。
「・・・。うん、でも今は。もう少しだけ」
頭の上から降ってくるベリルの声は。
穏やかに響く。
肩に乗った手の、その指が。
少し、痛かった。
「抱けない、っていうのはさ、やっぱ言葉通りって事?」
「・・・私に聞くかな、それ」
ソファの背もたれに上半身をだらしなく預けたフェンネルが、その仕草とは裏腹な真剣な顔で口を開いた。それに対して曖昧な言葉を返す。一昨日、家に蒼羽がやってきて、かなり参った様子を見せた、とわざわざ報告に来たフェンネル。余すことなく詳細を話し終えて、その顔に浮かぶのは、純粋な心配。
「・・・・・・当の本人は?センター?緋天ちゃんも?」
「ああ、うん・・・」
昨日の蒼羽は、昼頃に外へと出掛け。散々体を動かしてきたのだろう、フェンネルが今話したのと同じ、汗だくでベースに戻ってきた。それも、日が落ちてから2時間以上経過して。
緋天どころか、蒼羽の様子もおかしい。
今ではそれが明らかだ。
今朝、蒼羽は早くからどこかへ出掛け、緋天は一人でセンターへと向かった。彼女を出迎えもせず、蒼羽の行動はまるで緋天を避けているかのよう。
その緋天はと言えば、顔色が悪い。蒼羽がいないと知って、ますます沈み込んでいた。きっと寝不足だと思われる彼女を、今日もアルジェが呼び出していた。二人でいる事で、何か改善が見られればいいとそれを許可する。
「あー、じゃあさ、緋天ちゃんが蒼羽怖がってるっての、マジすか?」
「うーん・・・それは・・・どうだろう、ね・・・?」
「何なんですか、もう。・・・あ、もしかして機密事項?」
好奇心からではなく、本当に蒼羽の事を気にしているだけに、フェンネルには答えづらい。それに加えてこちらとしても、図書室での一件からの緋天の状態を完全に把握しているわけではないので、簡単に動けない、そんな状況なのだ。
「・・・今の緋天ちゃんってさ、蒼羽が傍にいないと常に何かに怯えてる感じ」
それだけならいい。
それなら、判る。
図書室で何者かに捕まえられそうになったから。それが男だったから。だから蒼羽以外の男が怖いというのは判る。蒼羽に傍にいて欲しいというのも判る。それ以前はずっと会えなかったから、甘えたい、安心を手に入れていたい。
犯人さえ確保できれば、一瞬で解決できることなのだから。
「だけど、その蒼羽を怖がるっての変じゃん。蒼羽が普通にしてたらべったりだけど、抱こうとしたら怖がった、って事ですよね?もし蒼羽が言った通りなら」
「・・・・・・そう、だ、よな・・・」
フェンネルの言葉が、頭に入って、それから考えたくない事態が浮かんできた。
つまりは。
性的な行為を緋天が嫌がる、という事。
それが意味するのは、最も簡単に思いつくのは。図書室で犯人にそれを迫られた、という事ではないか。そして、最大の疑問点は、蒼羽相手に拒否してしまう、今の状態。似たような出来事の、6月の事件の後は、蒼羽が抱くことでその恐怖を払拭してさえいたのに。
「良くあることだけど・・・でも・・・」
性犯罪の被害にあった者は、男性恐怖症に陥りやすい。例え相手が好意を寄せる彼氏であったとしても、拒否してしまうという事例はある。特別おかしい事でもない。口に出してみて、確信に近い感覚。
緋天は違うのではないか。
そう思うのは、前例がある、それ以上に蒼羽を全面的に信じきっている彼女を見てきたからこそ。そして、文字通り襲われかけた、という事実を知らないにしても。犯人が捕まらず怯える緋天に対して、蒼羽は殊更優しく包みこんで抱こうとしただろうに。
それでも、蒼羽を拒否した。
暖房が効いているはずなのに、肌寒かった図書室。
緋天の髪に残っていた、甘い香り。
あの香りの薬を図書室に流す、緋天にそれを吸わせ、襲う事に失敗した後に香りを逃がす為に窓を開けた。わざわざ換気したその理由は、薬の存在を知られたくなかったから。犯人の誤算は、蒼羽がピアスを緋天につけさせていたこと。逃げた彼女の髪に香りが移ったこと。それに、あの日センターに行く予定のなかった自分が、緋天を迎えに出向くことで、後手に回るはずだった指揮を執り、ついでにその香りに気付いたことだ。
蒼羽さんはまだ帰ってきてないですよね、と。
本人が一番判っているであろうことを確認した、緋天の意図は。
あの日、蒼羽を見たから。
正確には、犯人を通して、蒼羽を見たから。
彼の幻影を見て、身を委ねようとして、犯人のミスでも発生したのか、とにかくそれが蒼羽でないと気付いて逃げ出した。気付いたけれど、半信半疑で蒼羽の居場所を確認したかったのだろう。
蒼羽を呼び捨てにし、幹部フロアに足を踏み入れる事が可能で。
人を惑わせる、そんな芸当ができる人間を、自分は知っている。
「・・・ベリルさん?」
「ちょっと、・・・センター行ってくる」
「ああ、はい、行ってらっしゃい」
緋天を確実に安全なところへ隔離する。それが先だ。蒼羽に知らせるよりもそれを優先し、目星のついた犯人に勘付かれる前に、こちらから接触する。
「土産持ち帰って下さいよ。悪いのじゃなくて、いい報せ」
「了解」
軽口をたたくように出されたフェンネルの言葉に。
安心しろと言う代わりに、右手を挙げて返事をした。
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