48.
何が自分を拒否させるのだろう。
一昨日の夜、ようやく緋天を味わえる、そう思って腕の中の緋天に燻り続けていた熱を与えようとしたら、彼女は怖がって自分を拒否した。緋天自身がそれに驚いたようで、途端に泣き出した彼女を無理やり押さえ込む事もできず、ただその涙を拭う事しかできなかった。
そして。昨日。
センターの図書室での状況などを確認する為に、緋天を伴った検証を行う間。
当然湧き出る恐怖を和らげるのに、震えそうなその細い体に自分が腕を回す事で、彼女は安心を得る。その安心した表情に手を出したくなる自分を抑えるのは、治まることのない苦痛を生み出した。
男、を拒否しているのだろう。
男の自分、を拒否するのだろう。そうだと思いたい。
実際。腕を伸ばして柔らかく彼女の名前を紡げば、緋天は簡単に笑顔を見せた。あっさりとその身を自分に預けてくる。だからこそ、余計に。嫌だと言う彼女を再び見たくなくて、内側を這い回る欲望を抑える。悲鳴を上げる体を支配下に置くことに、神経を磨り減らす。
それでも、緋天は自分を必要としていた。
昨夜一緒にいなかったのは、一晩中自分を抑制し続ける自信がなかったからで。夕刻、寂しそうに自分を見上げる彼女を家に帰すしかなくて。
今朝、一番に自分の近くへと走り寄った緋天を抱き込んだ時。
激しく這い上がってきた衝動は、自分でも嫌悪を覚える程の強さ。それに気付いて、血の気が引いた。
二人だけで話があると緋天を呼び出したアルジェの部屋へ、急かすように送り届け、限界を感じたのだ。あれ程、アルジェやシンの言葉に同意したくなかったはずなのに、緋天の近くにいる事が怖くて、容易に彼女を手放す。
この、悪魔のような自分の行動が信じられなかった。
緋天を汚したくて仕方ない自分は、受け入れられない。
捨てきれない欲を吐き出す術が見つからないまま、センターを後にした。
「うわ!!蒼羽!?」
昼食をとる為に、家に帰って。
店先からではなく、裏の玄関へ足を向けた。門柱を抜けて目に入ったのは、汗だくになった蒼羽が庭の芝生の上に膝をついて倒れこんでいた、その瞬間。
「おい!蒼羽!!どうしたんだよ!?」
荒く息を吐いて、胡乱げな目線を向けられる。暗い色を放つ双眸は、自分の背筋を冷やした。冬へと向かうこの季節に、これだけ汗をかいているその理由は何だというのだろう。
「・・・フェン・・・部屋、貸せ・・・寝る」
「いいけど・・・お前、何してんだよ・・・何かあったのか」
額の汗を拭って、ゆっくりと体を起こした蒼羽が何事もなかったかのように立ち上がる。
そういえば、今と同じように。
蒼羽が突然、こうして疲労困憊になるまで走り続け、ベースに戻らずこの家で寝る事がたまにあった。それはもう、何年も前の事。そんな風に家に戻らない時の蒼羽は、とても冷たい空気を発していて。
目の前の蒼羽が、体を酷使していたのはその様子から判ったが、そこまで駆り立てる程のものが、今の彼にあると思えなかった。緋天という存在が蒼羽を支えているはずなのに、以前と同じ空気を放つのは、どういう訳だろう。
「・・・シャワー浴びてからにしろよ。オレのベッド、汗まみれにすんな」
問い質したい気分でいっぱいだったのに、結局それしか口に出せなかった。
片手を上げて家へと入っていく蒼羽の背中は、どこか痛々しい。
「緋天さん。あのね?」
左隣に座ったアルジェが柔らかな手で自分の左手を包み込んでいた。
俯きかけた視線を、その水色のきれいな目に捉えられる。
「・・・この前、何か言えなかった事があるんじゃない?」
「っっ、・・・」
透き通りそうな色のそこから、目を逸らすしかできなかった。首を振ってやり過ごせば、小さな吐息が聞こえてくる。アルジェと自分しかいないこの部屋で、もし口に出せばどうなるだろう。蒼羽に報告されるのは、避けられない気がした。
「蒼羽以外の男の人、まだ怖い、って思ってる?・・・サー・クロムやシン以外で」
急に切り出された別の種類の質問に、思考をめぐらせる。門番隊の隊長を、蒼羽のピアスの力で撥ねてしまった事。それが思い出された。
「・・・近寄って欲しくないのよね?」
頷いて、肯定の意を伝える。
「蒼羽がいれば平気?」
また頷く。
言葉を、どこかに置き忘れたような感覚が続いていた。
今日は蒼羽が傍にいない。それだけで、体の中がどんよりと重いもので満たされているようで。自分という存在をしっかり保てていない、そんな感覚。
「昨日の夜は、蒼羽がいなくても、ちゃんと眠れた?」
首を横に振る。
夕方、彼は家まで送り届けてくれたけれど。家に泊まる事も、自分を誘う事もしなかった。小さなキスを頬に落として、短く別れの挨拶を口にして。ベースに戻っていったのだ。去っていく車を見て、途端に泣きそうになってしまったのは、蒼羽の与えてくれる安心がなくなった喪失感のせい。
「・・・じゃあ、今日はこのまま寝た方が良さそうね。寝れそう?」
「ご、めん、なさ・・・っ」
覗きこんでくる瞳には、少しも自分を責めることのない暖かな光。
それを見るのが辛かった。
「・・・謝ることなんて、何もないのに・・・」
髪を撫でるその手が、自分に蒼羽を求めさせる。
彼はもう、自分に飽きてしまっただろうか。
身動きひとつせずに、深く眠り込んでいた蒼羽が、唐突に目を開けた。
それに気付いたのは、彼が気になって、結局午後の仕事をせずに部屋に行き。5分おきに蒼羽を見ていたから。
「・・・もういいのか?ベースに戻るのか?」
「いや・・・緋天を迎えに行く」
腕をついて起き上がる蒼羽の表情は、茫洋としていた。総会から帰ってきて、一体何があったのだろう。会えなかった分、彼は嬉々として緋天を手元に置いているのかと思っていたのに。彼女を迎えに行くという事が、こんなに億劫そうに見えるのは、どう考えてもおかしい事だった。
「どうしたんだよ?緋天ちゃん、どうかしたのか?オレが代わりに行ってやろうか?」
「やめろ」
蒼羽の左腕が、覗き込む自分の顔をはたくように振り払われた。
驚きながらも身を反らして、鼻先をかすめたその手を見やる。当たりはしなかったが、その軌道は確実に自分を狙っていた。
「緋天に近付くな。混乱する」
冷たい視線が自分を射る。
禍々しいとも言える光を帯びて、低い声を出す蒼羽は。
まるで、緋天に危害を加える輩を見ているようで。
「・・・・・・悪い」
ショックだった。
それを顔に出していたのか、一拍置いて蒼羽が目を伏せて謝る。
気まずい沈黙が流れていって、耳に届く衣擦れの音。
「っ蒼羽・・・どうしたんだよ・・・」
何の音かと視線を動かして、それが彼の手元から発せられたものだと気付いた。蒼羽の両手が、上掛けの毛布をぎりぎりと握り締めていた。そこに細かい震えが奔るほどに、強く。
「・・・蒼羽・・・そんな顔すんなって・・・」
確かめるように見た顔には、苦渋と怒りと悲痛。どれとも取れるが、鋭い目は変わらずにそこにあった。
「・・・緋天が」
ぽつ、と零れ落ちた声は、小さかった。
「俺を怖がるから・・・・・・抱けない」
「・・・え・・・?」
ほんの一瞬だけ。
泣きそうに顔を歪める蒼羽を見た気がした。
「・・・邪魔したな」
蒼羽の言葉と、何よりもその表情に驚いて出した自分の声に。すっかりいつもの無表情に戻った彼がベッドから降り、靴を履き、あっという間に部屋を出て行く。
つい先程まで、誰かが寝ていた、という形に崩された自分のベッドだけが残されて。
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