47.
外界の全ての煩わしいもの。
例え、ほんの少し砂埃の混じった風だとしても。それが彼女の目を傷める可能性があるならば、防ぐ事に注意を払う。
ベースに現れた彼らを見て。緋天を蒼羽の密度の濃い空気で守りきる、そんな彼の強い意志を感じた。
「・・・本を、読んでて・・・」
ぽつり、と。声を発し始めた緋天を、アルジェもベリルもじっと見る。
ここに居るのは自分を含めて5人。病み上がり早々に、緋天が図書室で襲われた話の細部を聞く事になっていた。今日は蒼羽がついているから聞いてもいいだろうというベリルの判断で。
「そしたら、・・・急に後ろから、捕まえられて・・・それで」
目を伏せる彼女に、蒼羽が手を伸ばして髪を撫でる。引き寄せた緋天の小さく震える体。完全にそれを腕の中に入れた蒼羽の顔は、兇悪とも言える鋭い表情。反対にその手つきだけが優しい。
「バチ、って。静電気みたいなのが、その人が触ったところから出て・・・痛そうにしてる間に逃げられたの」
後半部分を蒼羽の顔を見上げて言う。一瞬でその怒りを抑え込んで、緋天のこめかみに唇を落とした蒼羽が少し笑った。
「追いかけてくるのにびっくりしてたのに、いつの間にか蒼羽さんのお部屋の近くにいてね?それで、部屋の中に入ったら、青く光って、その人が入れなくなってたんだよ」
完全に蒼羽だけを見て話を続ける緋天が珍しいと思った。それでも長く離れていた反動なのかもしれないが、蒼羽以外の人間がこの場にいるという事を失念しているかのような様子。もっと言えば、本当に蒼羽しか識別できないとでもいった感じで。
「蒼羽さんの加護か、価値も判らないくせに、って。言ってた。あ、蒼羽さんのこと、呼び捨てしてた」
微笑む蒼羽をもっと見たい、というように。必死で犯人の手掛りになりそうな事を緋天が言う。もう怯えた様子は見せてない。
「蒼羽を呼び捨て?・・・緋天ちゃん、その人の顔は見た?」
いぶかしげな顔を緋天に向けるベリル。それが本当なら、かなり犯人が絞り込める。アルジェも驚いた顔で緋天を見ていた。
「・・・緋天?」
横のソファから発せられたベリルの言葉に、びく、と大きく肩をすくめた緋天に。
蒼羽がその目を覗き込む。
「え、あ、ベ、リルさん・・・?えっと、何ですか?」
ベースの扉を開けて、入ってきた時。
彼女は確かに自分達の存在を認めていた。微かに笑みを浮かべて朝の挨拶を交わしていたから、それは確かだ。そして適当に体の調子などを尋ねるベリルに受け答えして、それでこの話をするに至ったのに。記憶を遡って話した事で、蒼羽だけを視界に入れていたのだ。あまりに怖いから縋る事のできる彼だけに目を向けていた。
「・・・相手の顔は判ったか?」
呆気に取られたベリルを目で制して。蒼羽が緋天に囁く。意図的に彼女の視線をベリルから外し、自分の元へと戻させていた。
「ううん・・・逃げるのに必死で判んなかった・・・」
ほっとしたように蒼羽を見上げる彼女の様子は、どう見てもおかしい。今ではそれが明らかだった。
「でもね、多分右利きだよ?あと、すごく甘い香りがした・・・香水かな?」
「まだ判らないけど・・・だいぶ範囲が狭まったからな。すぐ見つかる」
髪を撫でて、緋天に微笑んでやる蒼羽が、一番。緋天のそのおかしな様子に気付いているのだろう。それなのに、その光景はとてつもなく綺麗なものに見えた。2人だけが、どちらの世界からも隔絶された空気の中にいる。
「あのバチってしてたのは、なぁに?」
「護符みたいなものだ・・・今も緋天の耳にあるだろう?」
「・・・ピアス?・・・あ、蒼羽さんの青いの?」
嬉しそうに細い指で左耳に触れる、緋天の笑顔は以前と変わらないものに見えた。
その頬が病的に青白い事を除いたら。
「なんか・・・疲れた・・・・・・眠い」
「少し寝るか?・・・顔色も悪いな」
返事を待たずに緋天を抱き上げた蒼羽が、無言で2階に向かう。
「あ、シン君。・・・まだ治らない?」
唐突に自分に掛けられた声は、緋天のもの。
「もう治るよ。痒いから、まだガーゼかぶせてるだけ」
「ふふ、そっか」
蒼羽の肩越しに向けられた視線は、柔らかくて。反射的に答えた言葉に彼女は小さく笑う。
それでも。今の緋天に笑顔を返す事は、なんだか怖くてできなかった。
「・・・緋天ちゃん、寝た?」
「ああ」
深く息を吸い込んで、そして吐き出す。
正直。
緋天が見せた、ベリルの発した言葉で初めて彼がいる事に気付いたような様子や、自分だけを見ているようなそんな反応に。困惑はしたが、悪い気はしなかった。異常だと言われればそうなのかもしれない。けれど、今の緋天は自分だけだと、はっきり確信してしまったからこそ、その居心地の良さが、甘美な誘惑を仕掛ける。
「昨日とかも、ずっとあんな感じだった?」
「いや・・・何かに怯えてはいたけど・・・今程じゃない」
「離れてた分、甘えたいだけかもしれないけどね・・・最後はシンを見てたし、そんな気にするものじゃないかな」
ベッドに寝かせてすぐに。あっけなく眠りに落ちた緋天の白い頬は、あまりに透明で触れる事すら躊躇われた。昨晩、充分に睡眠を摂ったにも関わらず、こうして疲れを見せたのは、やはり体がまだ本調子ではないからなのだろうか。それとも。
「気にしろよ。おかしいって、絶対」
訪れた静寂をふいにシンの声が割って裂く。
「何があんなにさせる訳?図書室で襲われたから?雨の中で怖い思いしたから?だからって普通あんな風になる?」
ソファに深く腰掛けたまま、自分達の言葉が気に入らないとでも言うように、シンが顔を顰めていた。
「・・・私も。私も放っておくのはどうかと思います。緋天さん自身、今何がどう怖いから、何をしてほしいのか、それを認識しないと良くないと思います。このまま蒼羽が傍にいるだけでは、何の解決にもならないわ」
ずっと黙っていたままのアルジェも口を開く。
何故、そうやって。
自分よりも緋天を判っているというような言い方をするのだろう。
今、彼女を追い詰める事だけはしたくないのに。
「・・・・・・今日は何も聞かない。少し話しただけで、あんなに疲れてた。また熱を出すかもしれないから嫌だ」
「蒼羽、でもそれは、」
「お前の言う事に従って、緋天が泣かない保障があるか?何かいい方法があるなら言え。無いなら口を出すな」
何かを重ねて言いかけたアルジェの声を遮る。
自分がいない間の不透明な時間が鮮明にならない事に苛ついた。言い返さないアルジェからベリルに目を移す。
「・・・判った。しばらくは君に任せる」
両手の平を挙げて見せるベリルの顔は、アルジェと同様、何かを言いたそうにしていたが、結局頷いた。
「犯人探し、早くしろよ」
「了解」
唯一の感情のぶつけ所である、それを早く引きずり出せと念を押してから。
苦笑するベリルの声を背中に受けて、2階に戻った。
「緋天・・・」
気分よく寝ているとは言えない、眉根の少し寄った額に落とした唇。
それだけで満足だと、笑顔を浮かべられる程。
無邪気な子供でも、欲の無い大人でもなかった。
「今寝れば・・・夜は起きてられるか・・・?」
小さな寝息を漏らす口元に、限りなく近付いて囁いてみる。
煩いくらいに高鳴る心臓の音を無視して、柔らかなそこを自分のものにした。
起きる気配のない緋天は、これほどまでに、自分を満たす。
目を覚まして。
眠る前に、自分が何をしていたか、しばらく思い出せなかった。
優しい目で蒼羽が自分を見下ろしていて、そのきれいな指先でそっと耳の上の髪を撫でる、その感触が。心地良くて、その空気を味わうのに体全体が従っていたから。
図書室で自分を襲った人物が、蒼羽に見えた、という事。
その彼と、キスをしてしまった事。
どうしてもそれが言えなくて、曖昧な言葉で誤魔化してしまった。犯人の本当の顔も、記憶に霞がかかったような感覚があって、どうしても思い出せない。蒼羽が自分を見てくれるか。それだけが心配で、蒼羽の反応が怖くて。彼だけを見ているうちに、ベリル達の存在を忘れてしまい、急にかかった声に驚いてしまう始末。
起きても蒼羽が話の続きを、嫌な記憶を掘り起こそうとはぜずに、彼の不在中、京子の家に泊まりに行った時の事など、全く関係ない話を聞いてくれたので、ほっとした。
右耳を甘く噛んでくる蒼羽の唇に甦った、ずっと遠かった感覚。
熱を孕んだ双眸で、今夜も一緒にいればいいと言ってきた彼の言葉に頷いたのは、一人で夜を過ごす事に不安があったから。蒼羽がずっと傍にいるという安心感に填まり込んだ今の自分には、抗う理由などない。
静かなホテルの室内に、時折蒼羽の唇から発せられる、自分を呼ぶ声だけが溶ける。
深く落とされる口付け、頬を優しくなでる手と、寝間着のボタンを外していく、もうひとつの手。
そして。
首筋を這う、舌。
「っ、・・・ぁ、・・・っや!!」
これは、蒼羽。
「緋天!?」
「や!!っや、だ・・・っ」
唐突に訪れた、不快感を伴う記憶。
図書室の彼と同じ、首筋を舐めた蒼羽に悪寒を覚えてしまった。今自分の前にいるのは蒼羽なのに。必死で突っ撥ねた腕は、あっさりと蒼羽を離した。驚いた声で昼間と同様に彼が自分を覗き込む。
抑えたいのに一向に治まらない体の震え。蒼羽に疑問を抱かせるだけの自分のこの反応は、どうすればいいのだろう。もう後戻りできなくて。
「・・・緋天。緋天、落ち着け」
蒼羽に恐怖を覚えたという事実が、信じられなかった。
溢れ出てしまった涙を、躊躇いがちな蒼羽の指が掬い上げる。
「怖かったのか・・・?大丈夫だから、泣かなくていい」
静かで低い彼の声が、今は怖くて堪らなかった。拒否をした自分は、蒼羽を困らせ、そしてがっかりさせただろうに。彼はそれを表に出さないだけで。
「・・・っごめ・・・っなさい・・・!」
「怒ってない。緋天が嫌がる事はしない・・・前にそう言ったのを覚えてるか?」
髪をゆっくりと梳いて、そのままベッドの枕に頭を置いた蒼羽が上から見下ろす。
それは確かに蒼羽なのだけれど。
もう一度、続きをしようとは言えなかった。
けれど、このまま蒼羽がもうひとつのベッドで寝るのは嫌だと。それも口に出せなくて。
「・・・判ってる」
卑怯かもしれない。目でそれを懇願すれば、蒼羽が困ったように笑って呟き、背中に腕を回した。
判ってると言ってくれた、彼の実際のもどかしさが、痛いほど伝わってきた。
頭の上に落ちたキスが。
とても熱かったから。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||