46.

 

「意外と元気だったから大丈夫よ?熱はひいてたから、そんなに心配しなくても」

「いえ、迎えに行ってきます」

 玄関で笑顔で出迎えてくれた緋天の母親に背を向け、急いで車に戻る。

 昨夜、食事を摂って、薬を飲む事ができたのが良かったのか。午前中、ベースに戻る時には緋天の熱は下がっていて、自分を一安心させたのに。ベリルやオーキッドを交えての会議を終え、こうして彼女の家に再び来てみれば。母親から聞かされた、信じ難い事実。

 彼女は市立図書館から借りた本の返却日が今日なのだと思い出し、体慣らしのついでに歩いて出掛けたという。朝、彼女の具合が良くなっていただけに、笑顔を見せて自分を出迎えてくれるのではと甘い想像をしていた。代わりに実行してくれたのは彼女の母親で、本人は不在。いくら熱が下がったとは言っても、どこかでふらついているのではと、心配も最高潮に達していて。おまけに夕暮れの時間も近く、冷たい風が吹き始めている。

 とにかく、緋天を見つける事が先決だと焦る心に言い聞かせ、アクセルを踏み込んだ。

 

 

 

 

 蒼羽が帰ってきてくれた。

 熱で朦朧とする意識の中で、彼が抱きしめてくれた。それだけで、ものすごく嬉しいはずだった。

 嫌な夢から目が覚めても。すぐ傍で蒼羽が髪を撫でてくれて。何度も名前を呼んでくれて。眠る時は必ず手を握ってくれた。普通に起きても、ぼんやりしている内に蒼羽がすかさず顔をのぞきこんでくる。そうやって、ずっと近くにいてくれた彼。

 それなのに。

 今朝、ようやくまともに動く体と、頭で。ベースに戻る蒼羽のキスを受けた瞬間。先日の、センターでの事を言わなければいけないのだ、と思い出した。

そして、目の前で微笑んだ彼に、それを言えば。何てふしだらな奴だ、と嫌われてしまう。それが怖くて。考えがまとまらないから、蒼羽が家に来る前に、彼から逃げ出すように外に出た。図書館への道を歩き、そして辿り着いた今も、まだ、どうすればいいのか判らなくて、蒼羽の顔を見るのが怖いのだけれど。

意味もなく、本を取り出して開いては元に戻す。

同じ動作を、知らない本の書き出しを読み流す事で楽しむ、そんないつもの気分には到底なれなくて。脈絡なく、棚から取り出した本を、文字を眺めるだけですぐに戻す事を、自分はどれだけ続けているのだろう。

周りの人には、まともな人間に見えているだろうか。知らない相手に好きな人を重ね、それに気付かずキスをねだる人間には、見えていないだろうか。

 

また一冊、右手を伸ばして、一番上の棚へと本を戻した、その時。

「何でじっとしてないんだ・・・?」

腰に回った腕。背中に、ごく近くに人の気配。伸びた右手も、暖かい手に掴まれる。

「っっ、や、・・・っ」

「緋天!?」

 一瞬で、血の気が引いて。

 硬直した体に、自分を呼ぶ声が響く。

 それが、蒼羽の声だと。確かめるには、体を捻り自分に回ったままの腕のその持ち主の顔を、しっかり見なければいけなくて。センターの時と似たようなこの状況が、否応なしに、自分を緊張させていた。

「緋天?どうした?」

 心配そうに眉をしかめる、疑いようもなく、蒼羽の顔。なかなか動かない自分の体。それでも何とか動かして、後ろを向いて。目の前でそんな表情を見せるのは、本物の蒼羽だった。頬に触れた手も暖かい。

「蒼羽さん・・・」

「どうした?気分が悪いのか?」

 力の抜けた腕で、彼にしがみついた。震えてしまった手で、蒼羽のシャツを握ると。背中に暖かい手が回る。

「緋天・・・とにかく帰ろう。歩けるか?」

 髪を撫でて、静かに耳の上で発せられた声。ようやく安堵して、頷くことができた。

 右手を彼の左手にのせ、いつもより力を入れてつなぐ。蒼羽にすがる事、それは今の自分には許されないかもしれないけれど、そうせずにはいられなかった。

確実に、蒼羽が傍にいる。その事実が、これだけ自分を安心させるから。

 

 

 

 

 ベッドに入って眠る体勢を取る彼女が。頬にキスを落として離れた自分に目線を向けていた。

 こうして緋天が眠りにつくのを見守るのは3日目。もう熱はひいていたので、明日はベースに行けそうだと話してはいたものの、夕刻見せた様子が気にかかる。

「・・・蒼羽さん」

伏せ気味の双眸は、それでも相変わらず自分を捕らえてくる。彼女の呼びかけに応じて、額の髪を撫でた。

「今日は一緒がいい・・・」

「緋天・・・」

 少し揺れる目は真剣で。緋天が望む事を叶えたい、そう思いながらも、これでいいのだろうかと疑問が頭をかすめていく。同じ部屋にいる事は許しを得ていた。彼女の母親なら、一緒に眠る事くらい許してくれるのだろうと判っているのだけれど。

「だめ・・・?」

 躊躇う自分にもう一度視線を合わせた緋天。

 駄目だと言える訳がない。今朝、熱の引いた彼女に、3週間ぶりのキスを、触れるだけの、ごく軽いそれを落としただけで、どうにかなってしまいそうだった自分。それ以上を手に入れようとする正直な自分に嫌気がさしたばかりなのに。少しでも近くに緋天を置く機会を逃せる余裕もなかった。

 黙って彼女の横に並ぶ。緋天がそうしたいと言う、その根源を。何も解決できていないのに、こうして誤魔化すように、彼女に手を伸ばすのはいい事なのだろうか。

「緋天」

 首元に頭を寄せる彼女の背中に手を置いてから、髪に口付けて、その甘さに酔いしれてしまう。わずかに身じろぐ緋天の吐息が首筋をなぞっていった。髪の毛先に指を絡ませ、何とか自分を抑え込む。

「・・・蒼、羽さん・・・」

「ん・・・?」

「・・・・・・嫌い、にならないで・・・」

 指先からこぼれ落ちていく髪。小さな緋天の呟く声。さらりと簡単に空気にとける。

 何をどうしたら。そんな風に思えるのだろう。

「ならない。この先ずっと。緋天だけ好きだ」

「・・・うん」

 これだけ近くにいるのに。どこか彼女が遠くにいるように感じる。こんな違和感は、早く消してしまいたい。それでも、まだ。緋天を問い質すのは先延ばしにしたかった。腕の中の、何かに怯え続ける緋天を。抱きしめる権利は、確かに今は自分だけのものだったから。

 

 

 

 

「おはよう」

「・・・おはようございます」

 蒼羽が帰ってきた日から、一日おいて、今日。

 昨日はセンターで自分なりに情報収集をしていたつもりで。ベリルの呼び出しがあるかもしれないと、びくびくしながら過ごしたのだけれど。結局彼も、今回の一連の事件で忙しいのか、直接は顔を合わせずに済んだのだ。

 まるで恋人にするかのように、一昨日の夜、甘く囁いて優しいキスを落としていった彼の真意は、どんなに考えても判らない。彼に対して油断しないと思っていたのに、それを許してしまった自分も判らない。

初めてされたものは、悪戯半分で。その翌日、2回目にされたものは、笑顔を浮かべるなと怒ったような彼の、またしても嫌がらせのようなキス。それに手を上げてしまった自分も自分だが。そもそもは、彼が上司という立場で、自分が何も言えないのを判っていてやったようなものだから。

叩いて当然。平手でやった分、感謝して欲しいくらいだと。

そう思ったのに。

非常時とはいえ、同じ事をやった彼は、一応謝ってきた。しかも、あれだけ気まずさの続いていた後に、優しくするなんて反則だと思う。

どうせ、数ある女遊びの一人に過ぎないのだろうから、何もないという顔をしてればいい。けれど、実際に彼の前でそれをする自信が全く持てなくて。ベリルを避けていたのだけれど。

「昨日さ、近くにいたのに逃げたよね?」

「っっ、いえ、お見かけした覚えはありませんけれど」

 にこにこと笑顔を浮かべて、そんな話を始めるのも卑怯だと思う。

 昨日、センター内で彼の姿を見たのだけれど、急いで違うフロアへと移動した。呼び出しがないから、いいだろう、と。そう言い聞かせて。彼の視界に自分がいたのは一瞬の事で、絶対気付かれていないと思ったのに。

「嘘つきだね。顔を上げて同じ事を言ったら信じてあげるよ」

「・・・っ」

 この間も見た、狐色のジャケット。目に映るのはそれと、鎖が光る彼の首。

「信じて頂かなくても構いません。・・・足をお運び頂いたご用件は何でしょうか?」

 何とか目線を彼の口元にまで上げて、そう言えば。

 人好きのする笑みから、意地の悪い笑みへとその形が変わる。

「ふーん、そう来たか・・・まあ、いいや。あ、明日の朝は、緋天ちゃんが来れると思うから、ベースに来てね」

「はい」

 その笑みのまま、急に仕事の話へと切り替えるベリル。忙しいはずなのに、そんな事をわざわざ言いに来たのか、と疑問が浮かぶが、正直ほっとする。用は済んだから帰ろうというような、彼の仕草にも。

「・・・隙、ありすぎ」

「え・・・?」

 肩の力が抜けかけていたところに、くすり、と小さな笑い声。そして囁かれた言葉。それが聞こえたかと思えば、こめかみに、ちゅ、と音を立てて柔らかいものが触れる。

「な・・・!」

「君の顔、見に来たんだよ。逃げられたら、追いかけたくなるでしょう?」

 キスをされたのだと、気付いた時にはもう遅くて。

「じゃあ明日ね」

 鼻歌を歌いながら、彼は背中を見せて去っていく。

 ふいをつかれた悔しさと、誰も見ていなかっただろうかという焦り。廊下を見れば、人影は見当たらなくて。

それだけが、救いだった。

 

 

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