45.
「・・・え、シン君・・・?」
通された部屋で。
赤い頬をした緋天が目を丸くして自分を見ていた。蒼羽の腕の中から。
あとは任せると言われて、蒼羽の意図を悟った。
つまり、彼は緋天の所にしばらくいるから、その間の仕事を任せてくれるという意味で。自分の失敗への罰は下さない上に、これまでと同様、蒼羽が接してくれるという合図。感謝の言葉をかける前に、彼がベースを去ってしまったから、何も言えなかったのだけれど。傍で一部始終を目撃していたベリルは笑顔になっていたので、それでようやく自分も気持ちが晴れたのだ。
夕方になり、今日はもうやる事がないと気付く。気付いてから、蒼羽は今日も泊まるのかと思い、そしてそれは緋天の具合が良くないのだという事実を知った。自分が引き起こした事だけに、彼女の様子だけが気がかりだった。緋天には、謝らなければいけない。ずっと居心地が悪いような感じがするのは、それが引っかかっているからだった。同じ事を思ったのか、見舞いに行けばいいと言い出したベリルに従い、こうして彼女の家を訪れたのだけれど。
「・・・何でお前が来るんだ?」
思いきり嫌そうな顔で。緋天を隠すように立ち上がった蒼羽が口を開く。
横に立つ、緋天の母親だけが嬉しそうな顔をしているのだけれど、蒼羽に嫌がられるなら帰るしかなかった。
「・・・ごめん。・・・お見舞いに来たんだけど・・・」
「え!?・・・うそ・・・ありがとう。嬉しい・・・」
蒼羽の体の向こうから、小さな緋天の声が聞こえた。それだけで、救われた気がしてきて。
「あの・・・オレ、・・・っ謝らせて・・・だめ?」
眉間に皺を寄せている蒼羽に窺う。声が自然と震えてしまった。彼を前にして緊張が高まる。仕事の事は許してもらえたけれど、こちらはまだ、許してくれないのかもしれない。
「あらら、どうしたの?緋天ちゃん、シン君、お花持ってきてくれたのよ。お礼言いなさい。活けてくるわねー」
「・・・えっと、シン君?ありがとう。・・・蒼羽さん、見えないよ、座って?」
立ち塞がる蒼羽の上着の裾を引っ張って、緋天がそう言った。蒼羽は相変わらず不機嫌な顔でこちらを見る。
「蒼羽さん、どうしたの?」
「・・・緋天」
戸惑った彼女の声に促されて、蒼羽が溜息を吐く。そして緋天が上体を起こしているベッドに座った。蒼羽の許しが出たと判断して、近付いて彼女に目線を合わせる。熱のせいで頬は上気したまま、だるそうにしているから気分は良くない様子で。それらは全て自分のせい。
「・・・あ・・・緋天、ごめん。オレ、緋天のこと、置いていかなかったらあんな風にならなかったんだ・・・本当にごめん」
「もういいよ。だって、あれは急な事でしょ?シン君のせいじゃないから」
何故、この場で微笑むのか。
怒って、気の済む限り攻撃してくれた方が、どんなに楽だったのだろう。
少し笑って自分を見る緋天の顔を見るのが辛かった。
目の前で、恐怖に支配されていた緋天の事をただ見ていただけの自分を、心底、最低だと思っていたのに。
「・・・っ、もう、緋天のこと、放ったりしないって誓う。オレ、ちゃんと守るから。だから・・・っ」
込み上げてくる、苦い思いを飲み下す。許してほしいとは口にできなかった。
「ごめん・・・・・・っ、蒼羽もごめん」
これ以上、口を開けば。涙がまたこぼれそうだったから。俯いて、頭を下げるしか、謝罪の気持ちを表せなくて。
「・・・シン君。そんなに謝らないで・・・」
「シン。緋天が困るだけだから、もういい」
後頭部に置かれた手のひら。蒼羽の暖かいそれに助けられて、顔を上げた。
少しだけ、彼の口元が緩んでいるような気がする。もう一度見直した時は、既に無表情だったのだけれど。
「シン君もゼリー、食べる?」
謝る事で、かなりの労力を要したのか。
シンがぼんやりと黙ったので、緋天が戸惑いがちに口を開いた。元々、彼がこの部屋に入って来た時に、ベリルが持たせたそれを緋天に食べさせようと思って、彼女の体を起こしたところだったのだ。自分の体の後ろにいるシンへ視線を向けようと上半身をひねる緋天の肩を抑えた。ふらついた様子を見せた彼女を支えたかったのと、パジャマのままの姿をあまりシンの目に映したくないという理由から。
「・・・蒼羽、何してんの?」
「お前は階下に行け」
「え、何で???」
これ以上、邪魔をするなと言おうとしたら、囲った腕の中、緋天から疑問の声が上がった。目を潤ませて自分を見上げてくる彼女に当然たじろぐ。熱のせいでそうなっていると頭では判ってはいても、その姿には何も言えない。
「・・・えっと、あのさ、いてもいいの?」
「あらー、もちろんいいのよー。スプーン持ってきたわ」
茶色い木製のトレーに、湯気の立つマグカップを3つ載せて。緋天の母親が明るい声を出しながら部屋へと戻ってきた。床の上の小さなテーブルにそれを置いて、彼女はシンに、にこにこと笑顔を向ける。言われるままに、腰を下ろしたシンはスプーンを手に取り、自分へと渡した。ゆっくりしてねと言いながら去っていく母親から、少し目線を離して。
濃い葡萄色をした物体が鎮座するグラスを、ベッドサイドのテーブルから持ち上げる。いくらか弾力のあるそれを、スプーンですくって緋天の口元へ持っていった。床の上ではシンが大人しく同じものを食べ始める。相変わらず目を潤ませた緋天が、黙って俯いてしまう。予想はしていた事だけれど。
「緋天」
「・・・自分で、食べ、る」
「座ってるだけでふらついてるのに?」
緋天の方へと少し近い位置へと座りなおす。戸惑う彼女にこれ以上反論する為の余計な力は使わせない。固定したままのスプーンを更に近づけた。自分の強い態度の意味を、判っているのだろうか。遠慮がちに、引き結ばれていた唇が開いた。
「・・・美味しい」
小さく微笑む彼女に、もっと急かして食べさせたくなる気持ちを抑える。昨日から何も受け付けていなかった緋天の体の中に、こんな些細なものでも食べ物が入っていく事で、ものすごくほっとした。ベリルが作ったそれは、間違いなく、弱った体に効能のあるものが混ぜられているはずで、自分にとってはひとつの安心材料。
本当に少しずつ、ゆっくりと口に含んで飲み込んでいく緋天に、長い時間をかけて食べさせて。息を吐く彼女と一緒に肩から力が抜けた。
「夜は食べられそうか?」
「ん・・・」
疲れた顔を見せる緋天を横にする。眠そうにしているのに、その双眸は開いたまま。自分の背後で静かに座っているシンに目を向けていた。
「・・・それ、酷いの?」
視線の先は、シンの額の右上辺りを覆う、白いガーゼ。自分がベースに着いた時には既に存在していたと思う。ずっと緋天以外を視界の端に置き続けていたが、その傷はきっと、戦闘中に負ったものだろうと想像がついた。
「ただの掠り傷・・・・・・っ、平気だってば」
緋天の目元が、心配そうに歪められたから。居心地悪そうに彼は顔を背けた。
「・・・ごめん、ね」
「っなんで・・・!」
「・・・色んな、こと・・・」
ぽつりとこぼれた緋天の謝罪の言葉。
彼女が謝るような事は、何ひとつ無いのに。
自分と同じ位、シンもそう感じたのだろう。疑問を口に出し、逸らしていた目を戻して驚いた顔を向ける彼に、そして自分に。小さく呟いた彼女は、ゆっくりと目を閉じた。閉じてから、ひとすじ。涙が流れて頬をすべっていく。
「緋天・・・っ」
どうしたのだと、問いたい。
問いたいのに、どうしてもそれができなかった。強く彼女に問いかける事が怖くて、心臓の動きを不規則にさせる。緋天が嫌な思いを味わうだけの話を聞きだすのには、まだ早い。そう、自分に言い聞かせる。
緋天の頬を濡らした涙をぬぐって、前髪を撫でた。それだけでは物足りなくて、横になった耳の後ろの髪を梳く。
「まだ、いてね・・・蒼、羽さん・・・寝るまでいてね・・・?」
「・・・ずっといるから。緋天が寝てもここにいる」
震える声で。先程よりも更に小さく。固く目を瞑って、懇願するように発したそれは。
鼓動を早めていた胸の奥を、再度、じわりと締め付ける。
彼女を安心させたかった。もう何かを恐れる必要もなく、もし恐怖を感じてもすぐ傍に自分がついているのだから、と。そう言ったつもりなのに、どうして緋天は目を開けて自分を見ないのだろう。
「緋天」
強張ったままの顔。彼女の名前をできるだけ優しく紡ぐ事で、髪を撫で続ける事で。ようやくそれが解けていった。静寂が、眠りにつこうとする緋天と自分を取り囲む。
小さく、規則的に聞こえる寝息を確認した頃、背後で立ち上がる気配。
振り返ると、シンが目線で、ベースに帰ると告げていた。いつもなら考えられない程に、大人しく静かにしていたシンに、遅まきながら驚いた。文句も言わずに黙って部屋を出ようとする彼をただ見送る。
旅立つ前とは、少しずつ。
緋天も、シンも。何かが変わっているように思えた。
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