42.
それを目にした者の多くは。
まず、その醜悪さに恐怖を覚える。人間に似ているからこそ、余計に嫌悪感や畏怖を覚えるのだと、先人は言った。そもそもは、穴の向こうの人々のマイナス感情。だからこそ、鏡の中の自分達、人の本性を飾り無く具現化したようなその姿が、耐え難い恐怖を抱かせるのだ。
それでも、その双眸を覗きさえしなければ、つまりは目線さえ逢わなければ。自失する確率は格段に下がる。目を見ても、常に己を保ってさえいれば、特別な武器も必要ない。かつて、猟師が弓を用いたように。
怪物化した雨と対峙するには、戦闘能力よりも先に、強い精神力を求められるのだ。
その全てを。自分は知っていたはずだ。
本部の養成校での基本中の基本知識。穴のある地域の人間なら誰でも知っている事なのに。
「・・・ルジェ!!アルジェ!!」
青い目が、視界に映っていた。
その目にかかる、長めの金色の髪の束は水分を含んでいる。
両肩に走る痛みは、どうやら目の前の人物に摑まれているせいらしく。濡れた芝生の上に、自分が座り込んでいる事にようやく気付く。それから、がちがちと歯の根が合わない事実と、その理由も。
「・・・ぁ、っ、あ、・・・っ、キーディス・・・っ」
何故もっと早く来てくれなかったのだ、と。
口にしようとして、身の内側に巣食う恐ろしさが甦って涙がこぼれていった。早く暖かい腕で抱きしめて欲しいのに、彼は厳しく口元を引き結んだまま。
「アルジェ!!落ち着け!!緋天ちゃんは!?」
鋭い口調で、そう問われて。
目の前の彼は、自分が愛していた彼ではないと気付いてしまった。
それから、今の状況にも。
「っっ!!・・・あ、あ、サー、ク、ロム・・・っ、緋、天さんが・・・っ」
「どっちに行った!?」
「・・・っ、わ、判、りません・・・っ」
先程から、うるさく鳴り続ける歯列。止めたいのに、止められなくて。
一緒にいたはずの緋天に既に何かが起こっていたら。恐ろしさで流れていた涙も止まらない。
ぱん、と。
乾いた音と共に、左頬に痛みが走って。
「しっかりしろ!君の仕事は何だ!?自分から選んだものだろう!?」
その声が聞こえたのは、上からで。
見えていた青い目が、一瞬強い光を残して。
彼は素早く立ち上がった。視界に映る足が、あっという間に去っていく。
「・・・っ、ま、待って!!」
もう。ヴァーベインのお嬢様ではない。誰にもそう呼ばせない。
二等究理士のアルジェ。それだけで生きていけると証明してみせる。
震える膝を押さえつけて立ち上がり、見えなくなった彼の背中を追いかける為に足を動かした。
雨はとっくに上がっていて。庭を出て、周囲を見渡せば丘を斜めに上がるベリルの姿が見える。途切れていた記憶が、堰を切ったように脳に流れ込んできた。
「・・・っ、サー・クロム、っサー・クロム!!」
出来る限りの速さで足を動かし、声を上げて彼を呼ぶ。縮まった距離を一気に駆けて、その顔を見ずとも緊張している事が判るベリルの背中に追いつく。
「っ、二体いるんです!!・・・っそれから、貴方が来る前にシンが追いかけていきました」
言い切って、服の外に出したままの結晶に目をやる。
そこには、始めに見た時と変わらない、濃くて禍々しい赤と紫。
少しだけ振り返った彼の顔に、苦渋と焦りが満ちていた。自分が呆然としている間、緋天はその二体の内のどちらかに連れ去られた。けれども、そのしばらく後に、シンの小さな体が確かに自分の横を駆け抜けて行ったのだ。それだけが、今の自分達に残された希望だろうか。
怖くない、怖くない、と。
震える声で繰り返していた緋天の細い体。怖くない訳がない。彼女がこの世で最も畏れているのは、あの異形のものなのに。
激しく胸を焼く後悔の念。何も出来なかった自分を守ろうとして、彼女はあんな行動に出たのだから。
「っ、シン!!」
背の高い、ゆらゆらとした蜃気楼。限りなく、人間に近い形をしていて、人間の暗い部分を顔に持つ、それ。
「・・・っ」
それらに対峙していたシンが、泣きそうな顔で振り返る。
両手にナイフ。鮮やかな赤い柄をした1本と、箸のような細さの茶色の得物が、右側のそれの肩口と腹部に刺さっていた。けれども両方とも致命的な打撃ではなく、おまけに左の一体は全く無傷で。
対するシンは額から血を流している。
「っ、・・・っオレ、緋天、そのまま置いて・・・っ外で気付いたんだ!!・・・っ、でも間に合わなくてっ」
掠れた声が。ベリルと自分の上がった息を整える隙間をぬって響く。
突発的なもので、予測するのは不可能な事件。
それでも、シンの小さな体に重責と悔恨と、それに恐怖がひしめいて。
「判ったから!!先に始末するんだ!!」
涙を浮かべた彼に叱咤を浴びせて、ベリルはその目を二体に向ける。
同じ失敗を繰り返す事が怖くて、とても彼の様に堂々と視線を上げる事ができなかった。地面付近から周囲を探る。黒髪が、枯れかけた草の上を這っていた。
「緋天さん!!」
「動くな!!こっちが先だ」
ナイフの生えた右側のそれの、更に右背面。緋天がほとんど顔を下にして横たわっているのが見えて。彼女を呼べば、ベリルの声。
「シン、右をやれ。左は引き受けるから」
いつの間にか。
ベリルは両手にナイフを握っていた。横顔に走る緊張、そして鋭い目線。無傷で蠢く、ゆらゆらとしたそれに、素早く右手が動く。真っ直ぐに飛んだ細身のナイフが、眉間の位置に吸い込まれて。
一瞬で。
淡く溶け出すように消えた、その空間。
光を放った結晶と、吸い込まれたナイフが地面へと落ちる。
「シン!!何してる!?」
「・・・っ、あ、っ・・・」
小刻みに、震えている彼の右手を、必死で左手が押さえ込んでいた。ベリルの声に応えようとしているのは見て取れたが、シンはもう、完全に冷静さを欠いていた。先程の自分と同じように。
「・・・シン」
この状況で。
下準備も何も。予測すら不可能だった最悪なこの状況で。
「シン」
優しく響く、ベリルの声。
「落ち着け。出来るはずだ」
動かない標的は、既に与えられた2本の凶器が制止を命じているのだろうか。
「真っ直ぐだ・・・そう・・・そのまま・・・・・・撃て」
穏やかで安定した彼の声に合わせて放たれた、3本目のナイフ。
長めのそれは、確実に急所に収まった。
シンの目から、静かに涙が零れ落ちて。
「・・・良くやった」
ベリルの大きな手が、小さな頭に置かれる。
「緋天ちゃん!」
一拍置いて、緋天へと走った彼に続く。青白い頬の彼女を抱き起こしたベリルは、ほっとした顔をしていた。目立つ外傷は見当たらない。
「・・・緋天さん」
呼びかけに答えるかのように、緋天の肩がびくりと跳ねる。目を開けた彼女の顔に怯えが走っていた。
「・・・っ、や、・・・、っう・・・っ」
予想はしていた。
今まで何度か聞いていた、彼女のこんな様子。
「・・・緋天ちゃん。大丈夫だよ。もう大丈夫」
目に映るものは、現実ではなく恐怖。
激しく体を捩って、ベリルの腕を突っぱねて。泣きながら、助けを希う彼女。
「・・・やぁあっ、や、やぁ!!」
先日、センターの蒼羽の部屋で見た、静かな恐怖よりも。更に胸の内を抉る、痛みを誘う彼女の様子に。目を背ける事しかできなくて。
「っう、あ、あ、っっ」
「大丈夫。怖かったね・・・大丈夫だから」
どこか苦痛を伴うベリルの声だけが。
静かに。青い空に吸い込まれた。
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