43.
冷たい空気が喉の奥から体の中へと入り込む。
拭いきれない焦燥感は、ベースの扉に手をかけた時点でついに零れ落ちた。許容量は既に超えている。
「っっ!?蒼羽さん!?」
「緋天はどこだ!?」
扉を開けて、目に入ってきたマロウの姿。腰を下ろして休憩している様子は微塵も窺えず、うろうろと忙しなく足を動かしていた。歩く事を止めて目を瞠るマロウは、昼休み前なのにここで何をしているというのだろう。
「緋天は?」
「あ、2階に・・・っ待って下さい!」
引き止める素振りを見せるマロウの横をすり抜け、階段を上がる。
センターにいるだろうと予測していた緋天が自分の部屋にいる、その理由は。
「っ緋天!!」
「蒼羽!?」
開け放たれた扉の、部屋の奥。
ベッドを取り囲むようにして立つベリル、アルジェ、シンの姿。振り向いたベリルの顔に驚きが見え、それから、視線を逸らされた。ベリルがそんな行為をする事で、何が起こっているのか気付いてしまう。
「っっ緋天・・・!」
どこかで。
判っていた。
自分の手が届かない範囲で、彼女が何かに傷つけられる事。
判っていて、それを放置した。放置した自分を、彼女は許してくれるだろうか。
「・・・ぁ、オレが、っ緋天、置いて、それで・・・っ、・・・っオレのせいだ・・・!!」
遠くから、シンの泣き声交じりの贖罪が聞こえて。
それに怒りをぶつけられる事が出来たら、どんなにいいだろう。
握りこんだ左の拳を、のろのろと開く。
「緋天・・・っ」
毛布にくるまって。壁を向く震える体に、指で触れる。
「緋天」
涙を残した頬に、左手を移した。途端にびくりと跳ねる肩。
「緋天・・・っ、緋天」
指先から伝わる熱。発熱している事が、一瞬で判ってしまう。
頼むから。
あの、自分を把握しない目だけは向けないでくれ、と祈りをこめて、彼女の瞳が開くのを見守った。
「・・・ぁ、・・・蒼、っ」
潤んだ双眸が、自分を見上げる。
「っ蒼羽さ、ん・・・!!」
小さく求めてくる、彼女の声に。ようやく、硬く握ったままの右手も伸ばす事が出来た。
「おかえりなさい・・・っ」
そう言って、今まで溜め込んでいた涙を流し始めた緋天を抱きしめる。
どうか。許しを請い願う自分に。
罰を下して。それから、再び傍にいる権利を与えて欲しい。
「・・・連れて帰る」
泣き止んで、ぐったりとする緋天をベッドに寝かせた蒼羽。
濡れて冷たくなった服を、着替えさせはしたものの。寒さからか、精神的な疲労からか、熱を出してしまった彼女を蒼羽のベッドに横にして落ち着かせた時に、彼が帰ってきたのだ。予定よりも早いその帰還に驚きを隠しきれない自分達を一瞥して緋天を抱きしめた蒼羽に、一番安堵したのはベリルではないだろうか。
何故こうなってしまったかという事を、ベリルが静かに話すのを。こちらに怒りをぶつけもせずに、黙って聞いているその背中が怖かった。一言、ぽつりと呟いたその声は、低く響く。
「・・・蒼羽、っ、ごめん、オレ・・・っ」
「言うな。吐き気がする」
緋天の前髪を撫でていた彼の背中に、シンが俯いて口を開けば。即座に返ってきた厳しい声。
やはり、彼は激しい怒りを外に出さないだけなのだと、背筋を這った冷たい感覚と共に知った。そのままこちらを向かずに、彼は赤く染まった緋天の頬に指先を当てる。
「・・・ベリル。車、外まで回してきてくれ」
「あ、うん、判った」
鍵を受け取ったベリルが階下に消えて、再び沈黙が部屋を満たす。
隣でうなだれるシンの背中を引き寄せた。謝罪すら許されない事実、一番尊敬していた蒼羽に拒否された事にショックを受ける彼が痛ましくて。堪えきれずに溢れていく涙。彼の年齢を考えれば、今日のこの出来事は仕方のない事だった。
「・・・・・・お前のせいじゃない」
彼を抱きしめて、頭を撫でていると。黙っていた蒼羽がこちらを見上げていた。
そこには。
苦渋に満ちた表情。シンのように泣きたくても泣けない、そんな表情を浮かべていて。
「お前のせいじゃない。気にするな」
それだけ言って、再び緋天の髪に触れる彼を。
できる事なら緋天が抱きしめてあげられれば、と切に願った。
「ごめんなさいね、帰って来たばかりで疲れてるでしょう?」
「いえ・・・」
緋天の家に着いてすぐに、玄関から出てきた母親が戸惑った顔を見せた。
「・・・緋天」
助手席で目を閉じる緋天を毛布ごと抱き上げる。車に乗せる時もそうしたのだけれど、恥じらいを見せる前に余程気分が悪いのか、黙ってされるままにする彼女が愛しくて。扉を開けながら驚いた様子を見せる母親を目で制してから、家の中へ上がる。
「緋天ちゃんたら・・・せっかく蒼羽さんに会えたのに、こんな時に熱なんか出さなくてもいいじゃない。・・・あ、それとも知恵熱かしら?上手くやったわね」
何故か嬉しそうにする母親の後について、緋天のベッドへ寝かせた。毛布をかけなおして、更に元からあった寝具をかける。
「・・・それ、なんだか高そうな毛布ね、いいのかしら?」
眉根を寄せてそう言う彼女が、余計な心配をする緋天に重なって見えて。思わず苦笑がもれた。赤い頬の緋天の前髪を流してやると、口元が少しだけ笑みの形に変わる。
「寒くないか?」
小さな幅で首を振るのを確認してから手を額に乗せれば、ベースを出た時よりも更に熱くなっている気がした。
「今日はお薬は駄目ね・・・緋天ちゃん、ご飯食べれないでしょう?とりあえずこれ貼っときなさい」
白い熱冷ましの湿布を額につけて、大人しく目を閉じた緋天の髪の先を弄ぶ。
触れたくても、緋天の具合が悪い事にはどうしようもできなくて。3週間ずっと幻影だった彼女が目の前にいる事、それなのに自分のせいでこうして好きなように触れられない事が罰なのかもしれない。
「・・・蒼羽さん?お昼食べてないわよね、私、用意してたのよ!」
断る理由もなく、笑顔を浮かべる母親に頷く。
「あの、申し訳ありませんが・・・今日はここにいてもいいでしょうか?」
少なくとも、緋天の熱が下がるまでは。
傍にいて、きっと夢の途中で泣きながら起きてしまうであろう彼女の髪を撫でていたい。
「まぁ・・・何だか役得ねぇ・・・あ、もちろん大歓迎よ」
その言葉に礼を述べてから。
部屋を後にする前に、緋天の頬に唇を落とす。
少しの間だけでも傍を離れる事への謝罪をこめて。
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