40.

 

「おはようございます・・・」

「おはよう〜」

 正直、今日はじっとしていたかった。じっとしていたいと言うより、センターに行きたくない、というのが本音。その願いが聞き入れられたのか、起きてすぐに耳に届いたのは雨音だった。それが向こうに流れるかはまだ判らないけれど、流れない、とははっきり言われてないので、ベースで待機する事を望んでしまう。

「今日はさ、ここにいようね」

扉を開けて、ベリルの明るい挨拶を聞いて。ほっとしたところで彼の優しい声が降ってくる。

「はい」

 昨日の事が原因なのか、それとも本当に雨が流れるからなのか。どちらかは判らなかったけれど、それを聞く気にはなれなかった。

「シン君は・・・?」

「外だよ。ちょっと今微妙なんだよね。だからさ、明日もここで待機ね。で、アルジェがもうすぐ来ると思うから、2人でいる事」

 一気にそう言った彼は、またふわりと微笑んでソファに導いてくれる。

 きっと。気付かれている。昨日の事も、今の自分の気持ちも。

「はい。これ飲んで」

 すっと手渡されたカップを受け取ると、チョコレートの甘い香り。冷たくなっていた指先がじわりと温まっていく。

「ありがとうございます・・・」

 口の中でとろけていく甘さに肩の力も抜けていった。頭上でそれを確認したのだろうか、ベリルが笑った気配がして。蒼羽がいなくてもまだ均衡を保っていられる事に安堵した。

「おはようございます」

「あ、来たね」

 少し遠くで聞こえたアルジェの声。ベリルが素早く玄関の方へ向かう。

「・・・おはようございます」

「おはよう。・・・・・・」

「・・・・・・」

 2人の交わす挨拶。その後も廊下の奥で小声で何かを言い合って。なかなかアルジェの姿は見えない。

「・・・緋天さん?」

「・・・あ、・・・おはようございます」

 ぼんやりと焦げ茶色の液体を見ていると、上から声がかかる。ほんの数秒の間なのに、こうして自分以外の周りから隔絶していたような状態に陥っていた。先程は、蒼羽がいなくても、と思っていたくせに。自分でも薄ら寒いものを覚えて、飲んだばかりの甘いそれが逆流しそうだった。

「っ、・・・ぁ」

「緋天ちゃん!?」

 驚いたベリルの声が耳に届いて。顔から血の気が引いていくのが判った。寒いのに、嫌な汗が額に滲み出る。

 頬に触れる大きな手に右を向かされた。カップを持った両手にも、ベリルの手が重なる。知らない間に小さくかたかたと震えていたそこから、ゆっくりと抜き取られるカップ。暖かいそれが、唯一の救いのように思われていたのに。代わりに両手の上に置かれたベリルの手が、温もりを発する。

「大丈夫だから。深呼吸しよう。・・・息、吸って。吐いて」

 視界には、とてもきれいな青い目。でも、求めているのはその色ではない。

 自分の呼吸が自分のものではないような、そんな感覚。息苦しさも、どこか他人事のように感じられた。

「大丈夫。大丈夫だから。もう一度。吸って。吐いて・・・」

 やんわりと響くベリルの声に合わせて呼吸をする。大丈夫と繰り返す彼の言葉を信じた。

「・・・貧血かな。ちょっと横になろうか」

 どくどくと早鐘を打つ心臓の鼓動を感じながら、ベリルの腕が背中を支えてクッションを後ろに当ててくれるのを、ソファの向こうでアルジェが心配そうにしているのが見えた。上体を斜めにして、楽な体勢になって。頬にかかった髪からいつも使っているシャンプーの香りがした。それにほっとして、ようやく落ち着く。うるさいほど聞こえていた心臓の音がだんだん小さくなっていくのを確かめた。

 

「う〜〜〜、寒いっ。あ、アルジェ来てんじゃん。おはよ」

 ぱたぱたという足音とそんな声。

「何?緋天なんで寝てんの?」

「ちょっとね。・・・緋天ちゃん、具合が悪いなら帰る?家にお母さんいるよね?」

 いつも通りのシンに短く返事をして、ベリルがソファの前で膝をついてまた目を合わせてきた。

 帰りたい。帰った方がいい。気分が悪いのは、本当なのだから、ベースにいても邪魔になるだけだ。それなのに、蒼羽がいつ戻ってくるか判らないから。できるだけ、ここにいたい。

 黙ってじっとしていると、ベリルは少し困ったように笑ってから立ち上がった。

「じゃあ、もう少し様子見ようね。シン、緋天ちゃんと一緒にいて。アルジェ、ちょっと」

「あ、はい」

 遠ざかっていく、2人の足音。廊下へ続く扉が閉められたのだろう、ぱたん、と小さい音を響かせて。それきり何も聞こえなくなった。

 

 

「っ・・・何だよ・・・」

 苦虫を潰したような呟きが聞こえて、それからシンは隣のソファに乱暴に座った。

「・・・お前、何してんの?」

「え・・・?」

 少しだけ、上体を起こす。シンの方を向くと、彼は怒りの視線をこちらにぶつけていた。

「何でそんな弱っちいワケ?昨日だって、そうだろ。ぼーっとしてるくせに、一人でふらふらしてっから簡単につけこまれるんじゃん」

 苛立った声の、その言葉。2週間程前と同じように、まっすぐ自分を見て。彼はストレートに言葉を吐いた。

 昨日の事を。彼も知っている。やはり皆が判っているのだ。

 蒼羽でない、他人と。キスをしてしまった事も知られているのだろうか。

「・・・ただの飼い犬って事を自覚しろよ。弱いアウトサイドのくせに蒼羽の恋人気取りでいるから、余計反感集めてるって判ってる?実際、蒼羽がいなきゃ何もできないよな。それとも何?弱いふりして蒼羽に構ってもらうの待ってるわけ」

 昨日、言われた言葉。蒼羽がいなければ何もできないという、その言葉。

「お前のせいで、アルジェもベリルもオレも。迷惑してんだよっ」

 

自分の存在が、異質だなんて。とっくに判っているから。

 いらないなんて、それだけは言わないでほしい。

 

「・・・泣くんだ?そうやって泣けば誰かが慰めてくれるって思ってるんだろ。女ってずるいよな」

 

 暖かい腕の中に入れてほしい。耳の上で大丈夫だと囁いてほしい。

 

「蒼羽だってもうお前にはうんざりだよ。こんな面倒かかる奴、いらないって」

 

 昨日の夜、聞いた言葉は本物だから。それを反芻する。

 噛み締めた唇が痛かった。流れる涙は冷たい。

 

 左を向いて黙り込んだシンの横顔が。蒼羽の苛立った表情に重なって見えた。

 

 

 

 

「・・・家に帰した方がいいかと思ったんだけど・・・」

 険しい表情を浮かべて彼が呟く。招き入れられた部屋は、ベリルの私室のようだった。扉を閉めるなり、外に声が聞こえないように細工をして、そう口を開いた。

「私もそう思います・・・」

 先程の緋天の様子を見ていたら、何だかもう、ぎりぎりのラインを越えそうな気がして。貧血だなんて、言い聞かせるかのようにベリルはそう言ったけれど。あれは、そんなものではなく、緋天の不安が彼女自身を圧迫した、その結果だろうと、口に出さずとも判っていた。ここにいて、他人に囲まれるよりも、家族といた方が彼女は落ち着くのではないかと思う。

「緋天ちゃん、帰りたくなさそうな目、してて・・・」

 いつもと、違っていた。人の中心にいる時のような、明るい笑顔でもなく、昨日見たような激しい怒りを表したような表情でもなく。ただ、戸惑って不安そうな、そんな彼。

「・・・あんな・・・ちょっと突いたら崩れそうな緋天ちゃん、見てられない」

 そんな顔をするなんて反則だ。部下に対して、そんな不安な顔を見せるなんて。ベリルは正気だろうか。決断できない彼など、それこそ緋天と同じように見ていたくない。

「私は」

 息を深く吸い込んで、吐き出した。

「ここにいるよりも、帰した方がいいと思います。彼女の為には」

 蒼羽がいないのだから。彼も充分判っているはずだ。唯一緋天の安定材料である蒼羽がいないのに、ベースに残す危険は冒せない。

「・・・そうだね・・・ごめん、ちょっと今、混乱してた」

 静かな声でそう言って。簡単に謝ってくる彼に、苛立ちが走る。

 目の周りを指先で揉み解すベリルを見ていたら、ただの男性のようだ。家柄も、地位も。そんなものは、本人の飾りで、今のベリルに自信だとか落ち着きを取り戻す助けにはならないのだ。

「サー・クロム」

 何を、言おうというのだろう。口をついて出た、彼の視線を自分に向ける呼びかけは、発した後に自分を驚かせた。

「・・・今の緋天さんには、あなただけが頼りです。昨日も、先程も。緋天さんはあなたを拒否しませんでした。それだけは、確かだと思います」

 驚いた顔で、見下ろしてくる、彼の青い目を。何故だか今はしっかりと見返す事ができる。

 

「ですから。いつものあなたで、いてあげて下さい」

 

 幽霊でも見たかのような、そんな彼の表情がおかしくて。

 笑みがこぼれるのを、少し、抑えられなかった。

 

「行きましょう」

 急いで背中を向けて、彼が鍵を解除するのを待つ。ぱちん、と小さな音を立てた部屋の扉を開けた。

 頬が少し熱を持っていて、後ろを振り返る事ができなかった。

 

 

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