39.
吐き出した息が、白い塊に変じる。
ベースの中が暖かかったせいか、外の寒さが余計に身にしみて。鳥肌が立った。
「寒い?これ着る?」
ベリルがふわりと纏う、その狐色のジャケットの袷を示す。
何故、彼は何事もなかったかのように優しく振舞うのだろう。自分には、そんな事するなと言ったくせに。
「いえ、大丈夫です」
急いで首を振れば、またもくすりと笑われる。完全に彼のペースに巻き込まれてしまう。
「・・・今日さ、緋天ちゃんから甘い香りしたでしょ?」
「あ、はい・・・申し訳ありません」
今日の、最大のミス。
緋天の恐怖を蘇らせるような真似をしてしまった。それがどうして地雷を踏む事になるのかどうか、彼はどこで判断したのだろうか。
「うん、それはもう済んだ事だし。気にしないように」
さわさわと、風に揺れる草の音が耳に届く。少し先を歩くシンは、こちらの話を聞いているのかいないのか、いつものように笑って話しかけてはこない。左側に並ぶベリルから落とされた言葉は、夕刻にセンターで自分を咎めたような声で発せられなかった。むしろ、とても静かで穏やかな声。
「あの香りがね、なんか引っかかってて。どこかで嗅いだ事があるんだけど・・・多分、本部の研修か何かで」
「・・・え、っと、つまり・・・あの香りは何かの薬物、という事ですか?」
緋天が目を覚ました時、どこかぼんやりとはしていたが。別段、薬物からの大きな影響があるようには見えなかった。それとも、あんな風に怯えていたのが、その影響なのだろうか。
「うん、覚えはないかな?緋天ちゃんの様子がおかしかったのは確かなんだけど、それがあの香りのせいだけだとも思えないんだよね」
甘くて、いつまでも漂う濃密な、そんな香り。
毒草を中心とした薬学系の知識は、それこそベリルの専門なのだけれども。彼がすぐに思い出せないという事は、何か特殊なものなのだろう。その手の講義は基本的なものしか受けていなかったので、手がかりさえつかめない。
「私は、そんなに詳しくないので・・・あ、でも」
途端に血の気が引いていく。
大変な事が、念頭から外れていた。
あの香りがこちらの薬物なのだとしたら。
「緋天さんは、アウトサイドです。もしかしたら・・・こちらの人間よりも強く効いてしまったのかもしれません」
「そうか・・・」
基本的に、アウトサイドの体力はこちらの人間より劣るとされている。特に顕著なのは男性で、筋力などは差が出るようだ。また、治療薬などもアウトサイドには効きすぎる。それを裏返せば毒薬などもそうなのだ。
緋天を攻撃した人物が、そこまで考慮していたのかどうかは判らないが、もし知らずにやっていたとするなら元々はそれ程影響のないものだったと言える。考えたくないのはその逆で。彼女には強い効果があると知って、敢えて薬を選んでいた場合だ。
そうだとしたら、犯人は確実に緋天を追い詰めようとしていた。
「っあー!!もう一度嗅げば思い出せそうなのに!!」
同じ事を考えていたのだろうか。しばらく口を閉ざしていた彼が、急に髪をかき回して大声を出す。
「んじゃさ、お前本部に行って、サンプル全部調べてくれば?」
もどかしそうにするベリルを振り返って、シンがにやりと笑みを浮かべた。やはり聞いていたのかと思っているところへ彼は軽い足取りで隣に並んだ。ベリルから視線を外してこちらを見上げる顔は、少し真剣な眼差し。
「なぁ・・・もしかしたら、なんだけど。緋天がさ、蒼羽の部屋で泣いてたって事は、あそこに逃げてきたって事じゃねぇの?」
冷たい風が頬をなでる。
「緋天はバカだから、センターの構造理解しきれてねーんだよ。知ってた?」
そういえば。彼女はセンター内で方向感覚を失うと言っていた。だから普段使う場所以外は今も全く判らない、と。
「蒼羽の部屋にいたのだって、あいつが判ってて行ったと思えないし。しかも図書室からだろ?普通の奴だって辿り着くのきついんじゃない?それが緋天なら尚更だって」
「つまり・・・?」
斜め後ろからベリルの声がかかる。気の抜けたような、そんな声。
「だーかーら。薬効いてる上でさ、あそこまで行ったって事は。トロい緋天が自分で抜け出して、そんで動物みたいな本能で安全な場所に逃げたって事だと思うんだけど」
にやり、と。先程と同じ笑みを浮かべたシンは、自分とベリルを交互に見て。
「動物が危機的状況から自分で抜け出すにはさ、飼い主の武器を使ってみるんじゃねーの?」
蒼羽の力が、彼の部屋で発動するのは当然の事だけれど。
それ以前に。シンの言う通り、緋天が敵から無事に逃げる事ができたのは、何かがあったから。
「オレだったら、図書室なんかで緋天みたいな鈍いやつを簡単に逃がしたりしないね。っつーか、ありえないって」
張り詰めていた糸が、切れるような嘆息。
音につられてそちらを見てしまった。ものすごく、嬉しそうな笑顔。
「自分で発動させたんだろ、蒼羽のピアス」
「だね」
図書室で、追い詰められた緋天が自分でその状況から抜け出していた、と言うなら。彼女は何かが起こる前に自分の身を守っていたのだ。
「動物は動物なりに自力で切り抜けた、って事で。・・・安心した?」
自分を見上げる、シンの、その自信の満ち溢れた笑顔は。ベリルのものとは逆に、気持ちを落ち着かせてくれた。
「ええ・・・すごい、そこまで考えつかなかったわ」
ほっとして口元が綻んで。心なしか足取りも軽くなる。
冷たい夜風も、もうそんなに気にならなかった。
とうとう口に出してしまった、自分本位な希望。
判ったとあっさり言う彼に驚いて、今のは我侭だから本気にしないでと我に返って謝ったら。
緋天の我侭は我侭にならない、と笑い声と一緒に返ってきた。
蒼羽の部屋に迎えに来たベリルは、何をどこまで把握しているのだろう。
自分でも良く判らないのだが、図書室から追いかけてきた人物の目的が、今日果たされたとは思えなかった。ただ、全く知らない人間を蒼羽と思い込んで、そして唇まで重ねてしまった、その全てを。誰にも知られたくない。夕方のベリルが朝とは違って、いつものように近くに感じられた事と。安心感を与えてくれた事だけが、唯一の救いだった。
できるだけ、早く。
早く帰るから。
そう静かに言い置いた蒼羽の声を頭の中で反芻する。
あと少しだけ。じっとしてればいい。
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