37.

 

「・・・やっぱりいない」

 落胆と憔悴の混じったマルベリーの声が、ぽつりと静かな部屋に響いた。夕焼けに染まった図書室は、うっすらと冷たい空気を閉じ込めていた。10月も半ばを過ぎた最近は、日が暮れればかなり冷える。暖房設備が動いているはずなのに、どうしてこんなに寒さを感じるのだろうか。

 自分達3人以外に人影は見当たらない。異様に静かな部屋の中をベリルは奥に進んで、そしてひとつの棚の後ろへと姿を消した。急いで後を追うと彼は床に膝をついて、ダークグリーンの布張りの本を手にしている。そこでやっとある事実に気付く。ここは日本語の本があるエリアだ。

「緋天ちゃんは・・・本を置きっぱなしになんてしない」

「ええ・・・床に落ちている本をそのままにしておく事もしないでしょう・・・」

 彼の言葉を引き継いで、軽い悪寒が背筋を走った。下から自分を見上げたベリルの目の光が、あまりにも鋭かったからかもしれないが。

「ベ、リルさん・・・ごみ箱に、これが」

 後ろから、震えを抑えたようなマルベリーの言葉がかかる。カチリ、と何かのスイッチが入った音が聞こえた気がした。それ程までに、ベリルの表情は豹変していたのだ。夕焼けの色を灯した金の髪が燃えているように見える。

 圧倒される、というのだろうか。そこだけ空気の密度が濃いように感じられて。とてもその目を見る事はできずに、1歩引いてマルベリーに向き直る。

 

彼が手にしていたのは、暖かい茶の皮の手提げと、白いジャケット。

 

「センター内全館に伝令」

出された声は穏やかだったが有無を言わせない鋭さを含んでいた。

その言葉にマルベリーとともに体が硬くなる。

「緋天ちゃんの居場所を知っている者がいれば早急に申し出る事。前2時間を目安とする。これを私発の最優先威令として扱う。君は受付係を招集して緋天ちゃんが外に出たかどうか確認、同時にベースに人をやって当直の門番に同事項を確認し、報告」

「はい・・・っ」

 一番手近な化粧室には見当たらなかった。緋天の読みかけだと思われる本が床に落ちていた。彼女の持ち物が捨てられていた。図書室に常駐しているはずの受付は他部署に呼び出され、緋天がこの部屋から出た事を確認していない。

 彼女が自分の意思でどこかに行った訳ではない。それはもう、誰の目にも明らかだった。続けて発せられた命令に従い素早く踵を返すマルベリーを、彼は手で制す。

「・・・他に緋天ちゃんの知ってる場所は?」

「っ、情報部と屋上、中庭、会議室・・・それと、蒼羽さんの部屋です」

「私達はそちらを回る。緋天ちゃんが外に出ていなければ、絶対にこの中だ・・・」

 天井を見上げた彼の言葉の最後は低い。

 これが、普段陽気に振舞うベリルと同じ人間なのだと見せ付けられ、痛い程の緊張が走る。

やはり、只者ではないのだ。

 

 

 

  

 センターの最高責任者である、オーキッドがいない。そんな中で出されたベリルの指令は、瞬く間に館内を動かし、そして次々と報告が彼の元にもたらされた。その中に有益な情報は無く、日が落ちていくにつれベリルの横顔に炎が灯る。そんな彼を見て、報告に来た者達の多くは息を呑み、逃げるように退出していった。

「・・・あとは蒼羽の部屋か」

 彼とセンター内を回る間、その多くの報告に足を止めていたせいで、図書室を出てから30分が経過していた。一人で回ればマルベリーの指示した部屋は既に調べ終えていただろう。けれど彼にそれを言い出す事は憚られた。怒りを発するベリルに声をかける事ができなかったのだ。

 彼が呟いたところで背後から声がかかる。振り返ると臙脂色の制服を身に着けた、見覚えのない顔。門番隊だと一目で判り、肩の階級章に目をやれば幹部クラス、中隊長の印。

「ベースには戻っていません。念の為、緋天さんの帰途を中心に捜索するよう手配しました」

 息を乱した彼が一気にそう告げるのを聞いて、対するベリルは、そう、と一言だけ返した。ベースから彼がやってきたその迅速さに驚かされる。きっとマルベリーは鳥を使い用件を報せ、そしてそれを知ったこの門番隊長は最速の乗騎を奔らせた。初めて目にした、このセンターの統率力、つまりはベリルの指揮下におかれた駒の動きは並大抵のものではない。

 緊張した表情の男はベリルの横を離れず、片手を口元に持っていきベリルに顔を寄せる。背の高い彼は少しだけ上体を屈めて、隊長の言葉を聞いて首を振る。

「それはまだいい。何となく違う気がするから。蒼羽にはまだ知らせるな」

 はい、とそれに答えた彼はこの場を離れずに留まる。そしてぼんやりと彼らを眺めていた自分に会釈をした。歩き出したベリルの後を2人で追って、上層部の人間が使う個室の並ぶフロアへと出る。

 

 蒼羽の部屋が見える通路に差し掛かって、体に微量ながら電気が走ったように感じた。同じ事を感じたのだろうか、思わず隣の男を見やると彼も自分を見て何か言いたげにしていた。許可を持つ自分達ならばここを通れるはずなのに、どこからかそれを拒否されている。

「・・・サー・クロム」

「警告を受けました・・・所長の部屋でしょうか」

 3歩先でぴたりと止まったベリルの背中に。先へ進めない事を告げようとすると、隊長がその先を続けてくれた。留守中であるオーキッドが、厳重に鍵をかけたのかもしれないが、彼はそんな事をしないだろうと容易に想像がつく。自分達ならばともかく、ベリルを拒否する訳がない。彼が先へ動かない理由は、こちらと同じなのだと思う。

 

「・・・下がって」

 振り向かないままのベリルから、低い声が発せられた。黙ってそれに従う。今この状況で邪魔でしかない自分は、従わざるをえない。

 ふう、と。

 本当に小さなため息。

 耳に届いたそれは、この場にはそぐわなかった。これだけの異常事態なのに、何故ここでため息が出てくるというのだろう。

「蒼羽」

 1歩、ベリルが足を進めて。青い光が通路の壁を駆けた。彼が進むと同時に苦笑交じりに出した声は、今日顔を合わせてからは一度も出していなかった、柔らかい声。

「お前は・・・やり過ぎだろう、いくら何でも。これは無関係の人間まで巻き込むレベルだ」

 バチバチと絶え間なく明滅し、奥へ進むベリルに襲いかかる青い光。それが彼に触れる寸前で中和されていく。薄い緑に発色した、似たような光に包まれた彼の力がそれを相殺しているのだと、ようやく気付いた。気付いたのはそれだけでなく、ここにはいない蒼羽が部屋を守っているという事実。

「中に、緋天さんが・・・」

 力の抜けた声で隣にいた門番隊長が呟いた。経験豊富な彼にとっても、この光景は珍しいものなのだろう。食い入るようにベリルの背を見ている。

 力場の解けたフロア。ドアの前に辿り着いた彼を追った。蒼羽の部屋の中に緋天がいるとしても、その無事を確かめなければ安心する余地がない。

「緋天さん?」

 思わず大声を出して、ドアに呼びかける。それでは意味がないと悟り、美しい木材のそこを叩く。

「っきゃ!?」

 叩いたつもりだった。ドアに触れる寸前、全身を打つ痛みに弾き飛ばされる。

「・・・怪我は?」

反対側の壁に打ち付けられてしまうはずだったのに、暖かな腕に抱きとめられていた。目の前に、鮮やかな青い瞳。まともに正面から顔を合わせてしまい、何も言えずに首を振る、その自分の行為が恥ずかしかった。口から出た、弱い小娘のような悲鳴も、消してしまいたい。

「大丈夫ですか?」

 優しく立たされて、自己嫌悪の波に侵されている所へ後ろから心配げに声がかかる。それにもまだ答えられずに頷くだけなんて、どれだけの馬鹿に見えているだろう。

 再び激しい音を生むドアに、そっと手を当てて。ベリルはすぐに最後の鍵を解く。

 かちゃり、と自ら開いたドアノブに手をかけ、彼は大きくそれを動かした。

 

「・・・っ」

 中央のソファに横たわる彼女。

 それを視界に入れて、焦りが回る。

「・・・大丈夫。寝てるだけだ・・・」

 一番先に動いたベリルが、ソファの前に膝をついて呟いた。

 竦んでいた足が、ようやくその言葉で動く。無事を確かめるのは、自分の目でなければいけない。

「っ、・・・これは、何・・・」

 クッションに半分うずめた顔。時折震える肩。覗ける範囲の左の頬に、涙。

 無事だったのかもしれないが、これは何かが起こった後だ。

「緋天、さん・・・」

 あまりの痛々しさに、最後にやってきた男もそれだけ呟いて言葉を失う。

「何なのよこれは・・・ただ寝てるだけではないじゃない!」

 

 自分らしくない。

 先程からそう思うのに、抑制がきかない。緋天はどれだけ嫌な目に遭えば許されるのだろう。センター内で何かが起こったのなら、犯人は関係者だとしか思えない。苦手だったはずの上司に向かって八つ当たりのように吐いた言葉は、咎められはしなかった。

 びくり、と。自分の声に反応するように動いた緋天の細い肩。静かに、と右手を自分に向けたベリルは、そのまま掌を彼女の頬に下ろす。

「緋天ちゃん」

 濡れた頬をぬぐってやって、そっと呟いた彼の声は薄暗い部屋に優しく響いた。

「・・・緋天ちゃん、起きて」

「・・・・・・ん」

 ゆっくりと開いた目は、ベリルをぼんやりと眺める。

「ベリルさん・・・?」

 びく、と再び肩を震わせる緋天を何とかしてやりたい。

「こんな所で寝てちゃ駄目だよ。風邪ひくよ?」

「・・・ベリルさん、煙草・・・」

 何か言いかけて、口を閉ざしてしまう彼女にベリルは苦笑する。

「もう吸わない。朝は意地悪してごめんね?・・・迎えに来たんだ。一緒に帰ろう」

「は、い・・・あの、・・・蒼、羽さんは、まだ帰ってきてない、ですよね?」

 起きれるかと問いかけながら、背中を支えたベリルが緋天の上体を助け起こして。それにされるがままになった彼女は、まだどこかぼんやりとした目で彼を見て口を開く。甘い香りがどこからか漂っていた。

「うん、まだ帰ってないよ。あと4日我慢しようね?もうちょっとだから」

 緋天の乱れた髪をそっと撫でて直す彼の手は、先程まで人を寄せ付けなかった彼と同じだと思えない程、とても優しかった。以前、ベースの蒼羽の部屋で見たのと同じ光景。こくりと頷く緋天を愛しそうに見てから、ベリルは何の問題も起こっていないかのように立ち上がり、様子を伺っていた自分達に目を向けた。

「さっきの指令は解除ね。あ、そうだ緋天ちゃんマルベリーと約束してたでしょ?あいつ、用があるんだって。今日は遅いから今度でもいい?」

 あっけなくセンター全体を動かす用命を取り消して、すぐに緋天を見下ろし、こちらも明るい声で引っかかりそうな用件を通過させる。素直に返事をした彼女を横目に入れて、彼は自分の腕にかけられた緋天のジャケットと鞄を受け取ろうと手を伸ばした。目線は、今は何も聞くなと圧力をかけて。

「・・・あ、れ?」

 ベリルの肩越しに見えていた、ソファから立ち上がろうとする緋天の体が、かくん、と崩れ落ちる。他人事のように不思議そうな顔で両足を見る緋天に、門番隊長が素早く駆け寄ってそれを支えた。

「っ、あ・・・やっ!!」

 バリ、と青い光が音を立てて彼を襲う。全てはベリルが自分から彼女の上着を受け取っている間に起きて、目の前の彼は緋天の悲鳴に反応して後ろを振り返り、そして事の次第を理解した。

 隊長に触れられる事に怯えた緋天。それを感知した蒼羽の加護。

「や・・・ぁ、あ、ごめん、なさい・・・」

 震えながら涙を流して謝る彼女に、腕を押さえた彼は首を振る。

「・・・びっくりしただけだよね?泣かなくてもいいんだよ、ほら、一応隊長なんだから丈夫だし。ね?」

「そ、そうですよ!緋天さんの力じゃ全然痛くもないですし。普段、馬鹿みたいにヒマを持て余した奴らを相手にしてますしね」

 2人の明るい言葉は何の力も発揮せず、大粒の涙が緋天の目から溢れ落ちて。重力に従って流れるそれを、ベリルの指が再び拭う。下がれと命じる彼の視線を受けて、隊長は気まずそうに部屋を出て行った。

 緋天の頬が乾くまで、静かな沈黙が流れた。目の周りを袖で擦る彼女に、それは痛くなるからやめなさいと母親のような口調でベリルが声を出して、それでようやく緋天は微笑む。今度はすんなり立ち上がって、ジャケットを着て歩き出した彼女のさらりと揺れる髪から、先程も感じた甘い香りが立ち上る。

「緋天さん、何かつけてるの?いい香りがするわ」

 彼女の気を紛らわせようと、咄嗟について出た言葉は彼女の答えが返ってくる前にベリルに遮られる。

「アルジェ、後は任せたよ」

 何を急に、と思ったところで気付く。怯えてこわばってしまった緋天の表情。彼女の事を考えて、あえて今日は緋天に何も聞かないというベリルの計画を壊すつもりはなかった。地雷を踏んでしまった自分は、なんて馬鹿なのだろう。今日は失敗ばかりだ。

「はい・・・」

 

 目を赤くした緋天の肩を押して去っていくベリルの背中が、とても怖かった。

 

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