36.

 

 待ち望んでいたもの。それが突如として現れる。

 誰かを、こんな風に寂しさを抱えながら待つ事も。果てのない幸福感に包まれる事も。蒼羽に出逢わなければ、きっと一生知る事がなかっただろう。

 背後から回された腕に促されるまま、彼へと向き直る。そしてその口付けを受け止めた。

 静かに触れた唇は、少しだけ冷たくて。それでもゆっくりと口内を探る舌は、あっという間に熱を灯した。蒼羽のいない間味わった感覚を払拭させる熱。もっと欲しい、とせがんでみる。終わらせたくない暖かさ、キスをねだる。

 

 全身が弛緩して立っていられなくなる寸前。胸の上をすべる彼の右手に気付いた。

 ふ、と鼻で笑う音。それが首筋から響く。

「蒼羽さん・・・」

 誰が来るか判らない。こんな場所では彼の願いを聞き入れられない。そうした事を蒼羽の名を呼ぶことで伝える。ところが彼は黙ったまま、その手を止めようとはしなかった。首元で、小さな笑いが響く。それはどこか冷たい音をしていた。

「っ、蒼羽さん、やだよ」

 口に出した否定。はっきり言えば、いつもは止めてくれるのに。自分の言葉を完全に無視する蒼羽は、右手で器用に服を脱がしにかかる。ぞくり、と背中に冷たいものが走った。首筋を舐める彼に感じるこの感覚は何か違う。

「やっ!!」

 あまり力の出ない両手で目の前の体を押す。

 ぱちん、と同時に静電気のような衝撃が互いの体の間を走った。

「・・・逃げるな」

 不快そうに顰めた顔、冷たく響く低音、再度伸ばされた腕。これは違う。

「・・・や、来ないで」

 脳の奥まで届きそうなほど、甘く濃い香り。頭がくらくらする。目の前の彼の姿は霞んで見えた。

 肩に触れそうになった、その指先は。

 

蒼羽のものではない。

 

「っ、・・・待て」

 先程感じたものより強い衝撃が、彼が触れたところから発せられた。バチ、と音を立てたそれは、青い光を伴って彼の指を弾く。右手を押さえる彼から後退して、部屋の入り口に走った。そこにいるはずの受付の女性の姿はどこにもなかった。

 廊下に出て、すぐの階段を駆け上がる。とにかく人のいる所まで行かなければ、と思った瞬間、後ろから足音が響いてきた。自分を追うそれは、随分とゆっくりなのだけれど、確実に近付く。同時に小さな笑い声も。

 上へ。

 今更下へは戻れなくなって、上階へと進む。広いこの建物で、自分の知る場所はごくわずかだ。上りきった先は横に伸びる、見覚えのない廊下。運のないことに、そこには人の姿が見えなかった。まっすぐ進んで、T字の分岐点を右に曲がる。そこからまたすぐに廊下は折れ曲がって、同じ幅、同じ模様の床が続く四差路になっていた。見える範囲はどこも同じ風景。自分がどこを曲がったかなど、彼には判らないだろう。

 左の廊下へ進み、再び走り出す。自分の足音がやけに大きく響いて聞こえた。後ろから来る彼にも届いてしまうほど。

「・・・っ」

 髪にまとわりついた甘い香りは消えそうにない。どうして彼を蒼羽だと思ってしまったんだろう。

 蒼羽があんな風に、冷たく静かにキスをする事など一度もなかったのに。

音を響かせる、硬質の石の床。自分の走る音と、彼の速足気味の音が共鳴した。行き止まりの角にまた階段。心臓がどくどくとうるさい位に動いて、それを宥めながら右足は段を踏んで上に向かう。手摺が、磨かれた上質の木材だった。細かい模様が刻まれたそれは、どこかで見た覚えがある。こうして豪奢な造りの場所は、特別の人間が使う場所ではなかっただろうか。

響いていた音がひとつ消える。足元は柔らかな絨毯、廊下に並ぶのは磨かれたドア。一度だけ来たこのフロアは、蒼羽の私室があった場所だ。マルベリーに連れてこられたのは、別の通路からだったが、蒼羽の部屋に繋がっていればいい。

左に曲がって奥だと思われる方向へ進む。突き当たって右へ。廊下の幅が広くなった。左手の大きな窓には見覚えがある。やはりここだったとそれは少しだけ自分を安心させた。記憶を辿ってさらに奥へ進んで現れたドア、鈍く光る銀のノブ。おいで、と言ってくれたいつかの蒼羽と同じように、ドアは自分を拒まなかった。手をかけて、音もなく開いた扉の横を通って部屋の中に入る。

 

何かが自分を包み込んだ気がした。

安心してドアを背に座り込む。あまりに静かでこめかみの辺りから脈の打つ鼓動が聞こえた。じっとして、荒い息が落ち着くのをやり過ごす。

 

「・・・・・・本当に蒼羽がいなければ何もできないんだな」

 

そろり、と冷たく忍び寄った声に。緩んでいた体に緊張が走る。

ここまで追っては来ないだろう、という勝手な思い込みと、蒼羽の部屋だという安心感がすっかり体を支配していた。鍵をかけなければ、と震える足で立ち上がり、そして振り返ってドアノブに目をやる。そこには鍵など存在しておらず、一瞬で焦りが這い回った。横になっていた銀色の、その棒がゆっくりと下に傾いて、ドアを開けられてしまう、と認識した瞬間。

「っっ!!何だ!?・・・まさか」

 壁が振動したように感じられた。図書室でも見た青色の光がバチバチと激しい音を上げて部屋の壁を駆けた。稲妻のようなそれは、目の前の壁だけでなく左右を走り、部屋の中を青い色で満たす。

「・・・っ、蒼羽の加護か。価値も判らないくせに・・・くっ!!」

 聞こえてきた声が悔しそうに響き、そしてもう一度音を立てて光が明滅したと同時に痛みを抑えた叫びを残した。それきり何も聞こえない。

「蒼羽さんの・・・?」

 何かが、働いた。

おそらく、蒼羽のこの部屋の鍵の変わりになるようなものが自分を守ってくれたのだと悟って、もう大丈夫なのだと知る。柔らかい青に変わった部屋がふわりと消えて、ここに入った時と同じ、通常の状態へと戻る。細かく全身が震えていた。導かれるように、蒼羽が前に座っていたソファへと進み腰を下ろす。

「・・・っ、ふ・・・っう・・・っ」

 抑えられていた涙がこぼれ落ちて、冷たく頬を撫でた。

 

 

 

 

「・・・あれ、てっきりアルジェさんの所だと」

 ノックの音にドアを開けた途端、こんにちは、という声に続いてそんな言葉が頭の上から降ってきた。少し目線を上げるとマルベリーの姿。彼はさらに肩から上を左右に動かして、部屋の中の何かを探すようにしている。

「あ、すみません。緋天さん、こちらに来てませんか?」

 狭い部屋なので、彼女がいないとすぐに判ったのだろう。怪訝そうな顔で口を開く彼に首を振ってみせる。

「いいえ。3時過ぎにはここを出たのだけれど・・・あなたの所に行くと言っていたわ」

「ですよね・・・実はその時間、僕は出かけていて。それで緋天さんは図書室に行くと伝言していったそうなんです」

 少し焦りの入った声。背の高い彼を見上げると、心底困惑した顔をみせていた。

「・・・・・・図書室にいなかったのね?」

「はい・・・でも」

「緋天さんが黙って帰るなんて事、ありえないわね・・・」

「そうなんです・・・」

 その小さくなっていく声を聞いて、緊張が押し寄せた。彼も6月の事件を知っているからこそ、これだけ焦るのだろう。

「もう一度図書室に行ってみましょう。もしかしたら、化粧室に行っているだけかもしれないから」

「はい」

 ドアを閉めて、マルベリーを促す。それに少しだけ微笑を浮かべる彼に、こちらも気持ちを落ち着かせる為に笑みを返した。とりあえず、2人で廊下を先へ進む。角に差し掛かって、奥から速足で歩いてくる人影が見えた。

「あ!!ベリルさん!!」

 一目で彼と認識したが、自分からその名前を口に出したくなくて。大きく発せられた声に気付いたベリルは、一瞬だけ驚いた表情をして自分に目をやる。そしてその長い足であっという間に目の前に立っていた。

「・・・緋天ちゃんは今どこ?」

 気まずそうに目線を泳がせながら彼の口が開く。一応は、昨日の事を悪いと思っているのだろうか。それともただ単に自分が手を上げたから、その事実を隠したいと思っているのだろうか。

「あの・・・それが」

 見当たらないんです、と。忙しないベリルの口調にマルベリーは消え入りそうな声で答えた。

「どういう、」

「図書室で彼を待っているはずなのに、いなかったそうです。緋天さんが何も言わずに帰る事も考えられなかったので、今から2人でもう一度見に行こうと」

 右の眉を上げてマルベリーの返答に反応した彼の言葉を切ってやった。そうしてすらすらと現状報告する時間は、不謹慎ながら満足感を覚える。

「私も行くよ。一緒に帰ろうと思って迎えに来たところだったんだ」

 はい、と従順に答えた声はマルベリーと重なった。もちろんベリルはマルベリーが不安に思っている事も想像しているはずだ。踵を返す横顔が硬くなっていたから。何て事はないと言わんばかりに気軽な声を出して、さりげなく率先する行動はさすがと言うべきだろうか。

 何にせよ、もう彼に対して油断はしないとそっと決意して後を追った。

 

 

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