35.

 

 ガラス扉を開けた途端、鼻先をかすめる紫煙。

 

「・・・え?」

 

 目の前に見えたのは、ソファに背中を預けて、煙草を燻らすベリルの姿。

「え!?ベリルさん!?」

 初めて見た。煙草を吸う、彼のその姿も。焦点の定まらない、彼のその表情も。

「・・・ああ、緋天ちゃん。もうこんな時間か。おはよう」

「おはようございます・・・あの、それ」

 細身で、自分の知ってる一般的なものよりも長い紙巻煙草。ふう、と息を吐いてそれを手元の灰皿らしき缶に押し付ける彼は、知らない男性に見えた。

「緋天ちゃん、煙草嫌いだったね、ごめん」

 立ち上がって、気だるそうにそう言うベリル。何だか近寄りがたくて身が竦んでしまった。濁った空気が部屋を満たす。

「な、んで・・・」

 最後まで言葉が続かない。今まで、煙草を吸う習慣があるなんて、一言も口にしていなかった。眠そうで、ぼんやりとした表情の彼は薄く笑う。

「ごめんね。ちょっとストレス解消。煙たいかな?」

 明らかに、いつものベリルとは違う。

 蒼羽の名前を無意識に呼びそうになって、飲み込んだ。呼んでも彼は出てこない。

「はい、お弁当。今日は一日センターだよね」

 頷いて、肯定の意を告げる。頭の上でくつくつと笑う声がした。

「っ、行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい」

 足早に、外に向かう。背中に届いた返事はいつも通り。それでも何か怖かった。

 一体何があったのか、と聞く勇気はなかった。

 

 

 

 

 あれは自分の油断なのだろうか。

 それでいいよ、と響いた声が、いつまでも耳から離れない。

 拒絶する言葉も出せなかった。息もつけなかった。

全部、彼が押さえつけたから。飲み込まれたから。

恐怖も怯えも、全て。彼に飲み込まれた。

 

あんな風に口付けられたのは、初めてで。拒否しようにもできなくて。

怖かった、というのが本音。

解放された時に動いた、自分の右手にも驚いたけれど。

それ以前にやっぱり。彼の行動の訳は一体何だったのだろう。

 

 

 

 

「・・・あら。緋天さん、帰らないの?」

「えっと、マルベリーさんとお話したくて・・・」

アルジェの部屋を出て、廊下の角まで彼女がついてきて。いつもと違う方向に曲がろうとしたら、そう問われた。ベリルが変だから、蒼羽に言われた通りにオーキッドに話を聞いてもらおうと、今朝ベースを出てすぐに決心して。けれどすぐに彼に会えるとは思わなかったので、これまた蒼羽のアドバイスに従いマルベリーに頼る事にした。

「そう・・・私に言いにくいなら無理しなくてもいいんだけど・・・」

 曖昧な言葉で、自分がオーキッドに相談事があると彼女は一瞬で理解したらしく。同じように言葉を濁しつつ、心配そうに自分を見ていた。

「あ、何て言うか・・・あたしの事じゃなくて。ベリルさんの事だから・・・」

「・・・サー・クロムの?・・・そうね、それじゃ私は力になれないわ。ごめんなさい、引き止めて」

 きっと誰が見ても、今のベリルの様子は変だと思うのだろうけど。それをアルジェに言ったところで、彼女を困らせるだけだと判っていた。何となく、それを彼女も察してくれたのか、ベリルの名を口に出したところで驚いたように目を見開いて。そして一拍おいてからその目を伏せた。

「いえ。じゃあ、また明日。お願いします」

「ええ、気をつけてね」

 いつものようにふわりと笑ってくれたのだけど、その笑顔をどこか違う人のように感じてしまった。1人で帰る時はいつも、気をつけて、と言う彼女だが、その声も遠くに聞こえた。この違和感は、何だろう。今朝のベリルにも感じた、うっすらとした恐怖。

 この場にいる事が、突然。

 何かの間違いのように。

 空気が薄く感じた。自分の存在そのものが歪んだ物体なのだ、この空間において。

 

「・・・・・・蒼羽さん」

 自分を見送るアルジェから見えない廊下の角まで足早に歩いて。すぐ傍の壁に左手をつく。朝は音に出せなかった蒼羽の名前がこぼれ落ちて、吐きそうなくらいの気持ちの悪さから脱出できた。いつのまにか浮き出ていた額の汗をぬぐって、深く息を吸い込んだ。それを吐き出してから、マルベリーがいつもいる部屋へ向かう。幸い廊下には人がいなかった。

 

 

 

 

「すみません、今は出かけてていないんです」

「え!?お出かけ、ですか・・・」

 困った顔で、どうしよう、と呟く緋天は何だか不安そうに見えた。目の前の、自分よりもかなり年下のこの女の子の世話をするのはマルベリーと決まっていた。正式に辞令が出ている訳ではないのだが、それはそれでいつの間にか収まっていたものだから。彼女も自然と彼を頼っていたのだろう。センター内で見かければ、蒼羽にがっちり守られているか、マルベリーがくっついているか、アルジェと一緒にいるか、のどれかだった。

「あの、多分1時間もすれば戻ってくると思いますから。宜しければお待ちになりますか?」

 子犬のような空気を発する彼女に、急に母性本能が湧き出してきて。そっと伺ってみた。言葉を崩す勇気はまだないのだけれど本当は、安心してと言ってあげたい。彼女は室内を見回して、そして首を振る。

「・・・図書室に行ってます。1時間後にまた来ますね」

 硬い顔でそう言って。踵を返す彼女の背中が寂しそうで。

「帰ってきたらそちらに向かうようにさせますからっ」

「あ・・・はい。お願いします」

 思わず出した大声に、緋天が振り返って、少しだけ。

ほんの少しだけ、微笑んだ。

 

 

 

 

 ここに入るのは4度目。

 初めて来た時は、蒼羽が連れてきてくれた。ひんやりした空気と、独特の紙の匂い。それは昔から自分が慣れ親しんだもので、すぐに夢中になって手当たりしだいに本を出し入れした。気象関係のものから普通の小説まで当然のように日本の書物が大量にあって、それにプラスして同じくらい英語の本。

蒼羽が傍にいるのも忘れるくらいに時間が経った頃、そろそろ帰ろうと苦笑しながら彼が声をかけてきたのだ。室内に置かれた大きなソファにゆったりと座った蒼羽が口の端を上げて自分を見ていて、それともここに2人で泊まっていくかと問われて頬に熱が上ったのを覚えている。ついでに彼が立ち上がってキスを落としたのも。

ついこの間の事なのに、何年も前の事のように感じてしまうのは何故だろう。

2回目と3回目はアルジェと一緒に来た。1人で来たのが初めてだからなのか、受付にいた女性が一瞬驚いた顔を見せる。それに応える気力はどこにもなくて。次の瞬間には、別段大した事ではないのだ、という顔をお互いに見せて室内に入った。

 

今日はよく蒼羽の事を思い浮かべる。

ここ最近のベリルの様子、それはどこかぼんやりとしているようで。そして今朝の煙草を吸っていた彼、自分をからかったそれは、何かの箍が外れたみたいだった。近付いた瞬間、ベリルを怖いと思ってしまったのだ。

蒼羽が隣に立っていたら、と。

強く思って、そして実際に自分の横で微笑んでくれる彼を、何となく夢想してしまう。それで少しは落ち着きを取り戻せるのだから不思議なものだ。

手に取った、布張りの本。

前回ここに来た時に見つけた、少し古い童話集。それをめくると、冷たい黴の匂いが広がった。マルベリーの用事が終わるまでは、これで時間を潰しておこうと、旧字体の残る文面に目を落とす。

冬の夜に読んだ記憶がある。

暖かい部屋で毛布にくるまって、静かで悲しいその物語を読んだ。

読み終えた時に、ものすごく背中が寒くて、心臓が縮こまっていて。ぽかぽかと暖まった部屋と、そこにいる自分の状況は、本の中とはあまりに対照的で。泣きそうになってしまったので隣の部屋にいる司月を訪ねたら、甘いココアを作ってくれた。そういえば、その夜は兄のベッドで寝たような気がする。それ以来、何となく気後れがして同じ本を見かけても開く事はなかった。前回も、手に取る事はしたが中を開くところまでは至らなかったのに。

今日はなぜか、それに引き寄せられた。自分が寂しいからだろうか。だから、すんなりと表紙を開き文字を追い始める事ができた。そう考えるのも悪くない、と思う。約10年ぶりに読み出した話は、意外にもあっさりと深いところへ自分を呼び寄せる。

 

 

かたり、と何かが動いた音が耳に届いた。

そして。鼻先をかすめる、甘くて濃い匂い。

何かの花の芳香だろうか。図書室の、いつもの匂いは完全に消えていた。

 

 

「緋天」

 

 

腰にまきついた、腕。

背中に触れる、暖かな体。

何よりも、頭の上から響いた自分を呼ぶ声。

 

 

「・・・・・・蒼、羽、さん・・・?」

「随分驚いた顔をするんだな」

 

 

そんな事はないだろう。

彼は、遠いところにいるはずで、まだ帰っては来ない。そんな予定はない、聞いていない。

何かの夢ではないかと思うのに、こぼれ落ちた問いかけに、小さな笑い声と答えが返ってきた。

 

「・・・どうした?嬉しくないのか?」

 

 次いで聞こえた言葉には、首を振るのが精一杯だった。

 

 

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