34.

 

 もしかすると、これは非常事態かもしれない。

 

「・・・でいいですかね?」

「え?」

 聞き逃した言葉。問い返すと困惑げな視線を向ける、若い男。

「ごめん、もう一回言って」

「あ、はい・・・警備隊の巡回はやっぱり17時前後1時間を強化という事で申請します。いいですか?」

「ああ、うん。宜しく」

 短くうなずいてやると、彼はほっとしたように小さな息を吐いた。

 危ないと認識したそばから。またもぼんやりとしてしまっていた。ダメだと判っているのに、どうしても感覚が鈍っていく。目の前で何か言いたそうにしている彼の視線が突き刺さる。

 

昨日、自分がやってしまった事。

それはどう言い訳しようと、一方的に自分が悪い。そう思う。

何故、あの時彼女の口を塞いでしまったのだろう、とか、それより以前に彼女が小さな子供みたいに見えたとか、無闇に彼女を追い詰める様な真似をしてしまった、とか。

そして、繊細で極上の、柔らかな果実みたいだと感じた、その唇の感触。

全てが頭を支配して、昨日から何も手につかない。こんな状態で、今からアルジェを含めた数人で会議が行われる。どうすればいいのか。謝罪しても到底許されるべき事ではないと判っている。

 

「ベリルさーん、そろそろいいっすか?」

「・・・今行く」 

 廊下の先からマルベリーが顔をのぞかせて。会議の始まりを告げる。

「それじゃ、僕はこれで」

 あっさり片手を挙げて目の前から去っていく男を、時間稼ぎに引き止めたかった。そんな事は一時凌ぎだと充分理解してはいるが。

 重い両足を引きずりながら移動する。いくつか楽しそうな声がもれる部屋へ体をねじ込んだ。

 

「じゃあそれでお願いするわ」

「はい、お任せ下さい、ご主人様」

 目の前に飛び込んできたのは彼女の笑顔。ふざけて頭を仰々しく下げた男にさらに笑い声を立てた。

 何故そんなに笑っているのだろう。昨日の事が気にかかって、自分の顔を見ないように、黙ってうつむいて座っているのだろうと思ったのに。

「あ、ベリルさんは飲み物何にします?」

 彼がアルジェの前から退散して、入り口に立ち尽くす自分に気付いて声をかける。

「・・・何でもいいよ」

「えー、作りがいがなくなるからやめて下さいよー、それ。今日は新鮮なフルーツいくつかあるんで、スペシャルジュースができるんですよ、ね?」

「ええ」

 振り向いた彼にまたも笑顔で頷くアルジェ。まるで自分もそれを注文しろと言わんばかりに。

「何でもいいよ、本当に」

「判りましたー」

 彼女の顔に浮かぶ作り笑い。何故誰も気付かないのだ、こんなにもはっきりしているのに。それにあっけなく騙される男達も何だというのだろう、この目の前の給仕の彼のように。

「・・・始めようか」

 ため息と同時に吐き出した言葉に、部屋にいた全員が反応して雑談をやめる。アルジェが手元にあった紙束を順番に配ってまわった。今日の目的は、それぞれの部署の業務報告といったところだろうか。主題は緋天の事なので、必然的にアルジェの報告が一番となる。

「・・・私がここに着任してから色々緋天さんからヒアリングを行ってきました」

 口を開いた彼女に全員注目する。堂々とした口調。誰も彼女の事を仕事のできない人間だとは思っていない。

「以前から指摘されていたように、彼女の精神的な脆さについて少しお話ししたいと思います」

 

 

「緋天さんが混乱して周りが見えなくなるという状態を皆さんの前で出したのは、雨が彼女に惹きつけられるという事象を確認する為の実験の場であったと聞いています」

 アルジェの言葉に何人かが頷く。あの時の事を思い出したのか、顔をしかめている者もいた。

「・・・けれどその日に。彼女は小さな頃の記憶を取り戻しました。その時点で、彼女はある程度自分を理解したというか、そんな気持ちになって、得体の知れなかった恐怖に対しては向き合えたというような事を言っていますし、私もその点は既に解決していると思っています」

 そこで一息ついて、この場の皆にその事実を消化させる時間を作る。彼女の話し方は完璧だ。

「この日を境に、緋天さんがそれまでずっと抱えていたものは消えているんです。ご存知のように、ここのマスターである、サー・ウィスタリアは彼女の事を特別な存在として見ています。マスターが仰るには、それでも彼女は同じような状態に陥っていると」

 

一気に室内がざわつく。

ああやっぱり、という顔をしている者、それがどう彼に影響するのかという反応をする者。

 

「・・・恐怖の対象はシフトしています。ただ、そんな風になるのは彼女が不安を抱えている時だとマスターは断言しています」

 6月の事件については伏せている人間もいるからか、それが何なのかという事についてアルジェは言葉を濁した。その代わり、蒼羽の存在を使い全員に納得させる。

「これは私の主観ですが。緋天さんは・・・ものすごく敏感なんだと思います、周りの視線、特に悪意に対して。考えてもみて下さい。いきなり知らない世界に連れてこられて、自分の存在を研究対象にする場の人達は、ほとんどが遠巻きに見ている。これではどんな人間だって居心地が悪いと思いませんか?」

 少しだけ、語気の強くなった言葉。

 銀の光が目に届いた。まさか彼女がこんな事を言い出すとは思ってもみなかった。その横顔に肌が粟立つ。先程とは違い、まぎれもなく彼女の本心が表情に出ているのだ。瞳の、その水色に惹きつけられる。

「蒼羽に、マスターに傍にいてほしいと願うのは当然の事だと思いませんか。マスターがより一層彼女を大事にするのは必然だと思いませんか。誰にも傷つけられないように。必死になるのはそんなにいけない事でしょうか」

 

 訪れた静寂。

 緋天が蒼羽にどう影響するか。ロボットのように動いていた蒼羽が、そうではなくなった事に。いくらか不満を持っていた者は確実に存在する。

 

「・・・・・・できれば普通に対応してほしいと。緋天さんはそう言ってました。自分が変な存在だからしょうがないとか、そういう風に言ってるんです。それで、蒼羽さんが迎えに来たりすると、ものすごくほっとした顔をしてます。それを見たら・・・何だか緋天さんにとって、ここは良くないんじゃないかって思ってしまう」

 沈黙を破ったのは、マルベリーの低い声。

 オーキッドの、つまりここの最高権力者の命じた、緋天の非公式のお傍付き。暗黙の了解でそう認識されている彼の発言に、空気が動く。これで充分だろう。

「私が今日言いたかったのは・・・もう少し、緋天さんに対して柔軟な態度で接して下さるように、という事なんです。そういった事なら前例がありますよね、ここは」

 

まっすぐに向けられた視線。

 無機質、と感じた昨日の声。それとは違う。自分を拒絶した空虚な色の目、それとも違う。

 目が逸らせない。神々しいとすら思える、その姿にまたも鳥肌が立つ。

 

「・・・確かに。皆、少し遠巻きにしすぎじゃないか。一番近い君達がそれじゃ、下の者達もそうなってしまうし。緋天ちゃんは縦の役職にどうこう言う子じゃないし、それに対して蒼羽が何か言うような事もないから。その辺は安心していいよ。但し、彼女に嫌な思いをさせるような奴らは絶対近づけないように。そこはちゃんと部署ごとに管理して」

 自分に刺さる、複数の視線を受け止めて笑ってみせた。

「できるよね?それだけ優秀な人間しかここには集めていないつもりだよ」

 硬かった空気がほぐれていく。笑みを浮かべた面々が見えた。

 これでいい。自分が接しやすい位置にあると、ここの連中は認識してくれているのだから。

 

 

 

 

「・・・始めは挨拶からでいいと思いますよ」

「そうですね。ありがとう、今日は何だか目が覚めた気分ですよ」

 先客。

 無事に、和やかに会議が終わって。

 本当は自分がやらなければいけなかった事を、アルジェが今日してくれたその礼を。そして、昨日の謝罪を。彼女に言うべきだと、足が動いた。開かれたドアへノックをしようとしたら、彼女と、弾んだ男の声。

 知らない間に体が動いて、そっと彼女の表情を伺ってしまう。案の定、笑顔。

「アルジェ。ごめん、ちょっといいかな」

 右手でドアを軽く叩いて、彼らの注意をひく。出てきた声はあくまでも穏やか。

「あ、じゃあこれで失礼します」

 さっと目線で挨拶をして、自分の横をすり抜ける男。彼を笑顔で見送る彼女。

 

 ぱたん、と。

 小さな音を立てて、後ろ手にドアを閉めた。それでも彼女の顔には笑みが浮かぶ。

 

「・・・それ、何?」

「何、というのは?」

 口にした言葉に、問い返される。

まだ浮かび続ける彼女の笑顔に、苛立ちという感覚が生まれた。

「その笑顔。何で私にまで笑ってみせてるの?」

「・・・サー・クロム。申し訳ありませんが、質問の意図が判りません」

 サー・クロム。何故、そう言い続けるのだ。

「そう・・・判らないって言い張るなら、思い出してもらわないとね」

 募る苛立ち。

 普通に、傷が外に見えないように。必死で演技し続け、今日も他人に笑ってみせる。そう決めたならそれでいい。けれど昨日まで自分に対しては、それが上手くできずにいたくせに。何で今日は周りと同列に扱う事をしたのか。

「・・・っ」

 一歩、彼女に近寄った。

 反射的に彼女は後ろに下がる。一瞬のぞいた怯えの顔。

「ほら。簡単に弱みを見せる」

「そんな事・・・っ」

 思った通りに。あっという間に自分の顔から視線を外して、うつむく。

 もう一歩を進めれば、びくりと肩を震わせる。

「・・・今日は緋天ちゃんの事話してくれてありがとう、って言いたかっただけだよ」

 ふ、と力の抜けた肩先。

「それと。昨日はごめん。何であんな事したのか、正直自分でも判らない」

 

「・・・・・・いえ。何でもありませんから。気になさらないで下さい」

 

 口元に浮かんだ、微笑。

 まっすぐな、視線。

 

「・・・それ、私の前でやらないで」

 

 苛々する。

 本当は何でもないなんて、言えるほど強くもないくせに。

 そんな嘘の笑顔と視線は欲しくない。

 

「・・・や、っ」

 細い腕を掴んだ。自分の右手が楽に回る程の、細い二の腕。

 

「んっ、・・・っ」

 簡単に腕の中に納まる、細い体。左手に触れた柔らかな髪。

 彼女がみせる抵抗なんて、何の力も持たない。暴れる体を更に自分に引き寄せる。

 口付けたそこから非難の声は届かない。届く前に、全てを飲み込む。

「っ、・・・ふ」

 角度を変えたらどちらのものとも判断つかない唾液がこぼれ落ちた。同時に彼女の涙も。

 頬を押さえていた親指でそれを拭う。自分を支配していた苛立ちという名の感情は、どこかに消えていた。唇を離して顔を覗けば、上気した頬と潤んだ瞳。

 

 ぱん。

 小気味いい音が部屋に響いた。

 左頬を走る痛みがそれを追う。

 

「・・・それでいいよ」

 怒りの表情。

 目に入れたそれに、ようやくどこかほっとした。

 

 

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