33.
覚えていたのは、この辺りの人間が身につけているのとは違う、民族衣装。凛とした美しい横顔。そしてその顔が涙に濡れて歪む場面。
それが、母親の記憶の全てだった。
彼女は死んでしまったと聞かされていて。それを当然の事のように受け入れた。そしてお前の家族は私達だと言われ、同じ様にそれも受け入れた。それきり、母親に関する記憶は何故かそれだけしか思い出さず、彼女が自分を捨てた事や、その際に自分を傷付けた事など、きれいに忘れていて。
そうして幸せな日々を過ごしてきたのだ。
昨夜までは。
横になった姿勢から、ベッドの周りを覆う薄い紗のカーテンの隙間に青い空が見えた。
「・・・お嬢様。どうなされたのですか?奥様がご心配なされていましたよ?・・・本当に大丈夫ですか?」
「いいの。・・・ただちょっと眠いだけ」
自分を気遣うメイドの優しい声に、涙がこぼれ落ちそうになる。
目覚めても、何も変わらず。ただただ嫌な記憶を真っ先に思い出しただけだった。そのきっかけとなった昨夜の出来事と一緒に。
「では・・・何かあったらすぐにお呼び下さいませね?」
「うん。ありがとう」
暖炉に新しい薪を補充し終えた彼女は静かに一礼して出て行く。誰かにこの訳の判らない状況を説明して、どうにかして欲しかった。けれども自分が知っている頼れる相手は全てがこの家の関係者。
一体どうすればいいというのだろう。
何でも自分の力でやれると思っていたのに、こうなってみれば檻に囲われた鳥のようだ。確かなものが何もない。
「・・・お母さん」
ぽつりと呟いてみたその言葉。相手は自分を捨てた実の母なのか、それとも何不自由なく優しく育ててくれた現在の母親なのか。どちらかは判らないけれど、激しく胸をえぐるような郷愁。こぼれた涙が冷たく頬を伝っていった。
「ルー、入るよ」
いきなりの呼びかけの後、かちゃり、とドアが開く音がした。
その聞きなれた声に反応した頭は、驚くことに彼を拒否していた。咄嗟にどこかに隠れる間も与えられず、彼の足音はすぐそばに近付いてくる。
「どうしたんだ?母上が心配していたよ」
優しく響くその声はいつも通り。
「具合が悪いなら医者を呼んで・・・」
ふわりと上げられた薄布。躊躇いもせず、彼がベッドの上の自分を覗き込んでくる気配がした。必死で背を向けていても、頬に残った涙は隠せなかった。
「ルー、どうした?何かあったの?」
伸びてきた指に触れられた頬に鳥肌が立つ。次いで訪れる唇の感触。どうしていつものように幸せな気分になれないのだろう。
「・・・まだ怖い?だったら僕はここにいない方がいいね」
小さな溜息を吐いて彼が離れていく。全身に走っていた緊張が少し収まった。声を発する事ができなかった自分に驚く。
大好きなはずなのに。
もう、その気持ちが本当なのかどうかという事が判らなかった。
「・・・蒼羽さん」
控えめな声、その呼び方。
思わず反応して振り返ってしまう。視線の先には長い髪。
「あの・・・これ宜しかったら・・・」
舌打ちをしてしまう。
その髪の色は明るい茶色で。求めていた相手とは違っていた。こんな場所に彼女がいるはずがないと判っていながら、それでも反応してしまった自分が忌々しかった。
自分を呼び止めた、頬を染めた目の前の少女の様子に何の感慨も沸かず、一瞬高揚した気分が急速に冷えていった。差し出された紙袋に手を触れずに踵を返す。
募る苛立ちを持て余しながら建物の外に向かう。総会という名の研修、そして繰り返される議論の2週間目の終わりを前に、今日ふいに生まれた自由時間を穴の外で過ごすつもりだった。
「ちょっと!!蒼羽っ!待ちなさいよ!!」
ちょうど建物を出たところで後ろから声が追いかけてくる。覚えのあるその声と口調にまたひとつ息を吐いた。ポケットから携帯を取り出して画面に目をやる。アンテナが3本立っている事と、現在時刻を確認した。
「今のは何!?あの子泣いてたじゃない!!」
午前11時。日本時間は午後8時。
「蒼羽ってば!いい加減にしなよ、いつまでもそんな王様みたいにしてても通用しないんだから!」
「うるさい。静かにしろ」
耳に届くコール音がすぐ傍で作られた大声にかき消されそうになった。
「電話なんか後にしなさい!だいたいかける相手がいないでしょ!?」
「・・・・・・緋天?」
「あ、」
小さくそう言ったのを最後に、それ以上の騒音が生まれる事はなく、代わりに待ち望んでいた声が左耳をくすぐった。
「蒼羽さん」
とがっていた何かが溶け出すのを感じた。先ほど耳にした声と同じ様な控えめで、同じ音で。それなのに決定的に違う絶大な効果がある。
「今日はいつもより早めのお昼なの?」
「ああ。急に予定が変更になってもう何もないんだ。だからゆっくり話せる」
「え・・・ほんと?」
気の抜けたような吐息が微かに聞こえた。それが愛しくて、ほぼ24時間ぶりに口元が緩んだ。
「ん。・・・何をしていたんだ?」
「えっとね。洗濯物しまってたの」
小さな笑い声が響いた。近くにあったベンチまで移動して腰を下ろす。気持ち的にも落ち着いて、いつの間にか穏やかな声が出ている事に気付く。
「・・・どれぐらいなら話してても平気?」
「緋天が話したいだけ」
躊躇いがちに出された言葉に、直接その耳元に答えてやりたいのに。
「あ、あのね・・・最近ベリルさん変なんだけど」
「あいつはいつも変だ」
紡ぎだされたそれは、ベリルの事で。戸惑いながらも少し腹が立った。
「う〜、そうじゃなくて・・・なんかね、上の空なの。ぼんやり考え事してる時が多いし・・・元気ないと思ったらやたらハイテンションだったり」
どうしたのかな、と呟いて黙る緋天の顔が曇っていくのが判った。
その言葉が本当ならば、それはかなり珍しい事だ。上の空だと評される様な素振りを緋天の前でベリルが見せているという事態が異常だった。それが演技でない限り。
「・・・緋天。ベリルは何も言っていないのか?」
「え、うん・・・どうしたんですか?って聞いても笑ってるだけ」
「シンは?何か言っているか?」
「・・・ううん。あんまり会わないし・・・それにね、門番の人達がいる時とかはベリルさんも結構普通だし。1人の時にぼんやりしてる感じ」
「そうか。まあ、あまり気にするな」
「う、ん・・・」
緋天に不安を覚えさせるベリルに更に腹が立ったが、それよりもその様子に引っかかりを感じた。
「緋天が気になるなら、適当に聞いてみる。あとは、そうだな、オーキッドに言えばいい。マルベリーに言えば話が通じるから」
「ん、そうしてみようかな・・・蒼羽さん、何か判ったら教えてね」
「ああ・・・緋天は明日センターか?」
「うん。あ、そうだ。明日の夜はね、京ちゃんの家にお泊りに行くの。佐山さんが、あ、佐山さんっていうのは京ちゃんの彼氏でね。それで佐山さんも出張でいなくて京ちゃん週末ヒマだから泊まりにきて、って」
「判った。でも電話はするからな」
彼女の無事を確認していないと気が済まないここ最近の日課を、今更止める事は考えられずにそう答える。
「うん」
嬉しそうな緋天の返事が緩く喉をしめつけた。何か口に出そうと思っても、耳に届くその声や呼吸を聞いているだけでどうにかなりそうだった。
「・・・蒼羽さん」
束の間流れていた沈黙を破って、緋天が口を開く。
「蒼羽さん、大好き」
息が止まる程の威力で、体の奥をその言葉に絡め取られた。痛みを伴って何かが焼けていく。
「だから・・・っ、お仕事頑張ってね」
言いかけた言葉が途中で飲み込まれた。緋天が口にしそうになったそれは、きっと自分が聞いても。ここにいる今は、彼女の願いを聞き入れられない種類のものだと想像できた。そして、もし本当にそれを耳にしたら、全てを放り投げてしまうだろうと、自分で確信が持ててしまう。
「緋天、・・・」
少しでも彼女が安心できる為に。夜しか紡いだ事のない言葉を音にのせようとして、隣に部外者が座っている事に気付く。先程までうるさくしていたのに、静かに自分を観察している様子が目に入った。それが歯止めとなって、結局何も言えなくなってしまう。
「時間ができたからこの後買い物に行くけど。何か欲しいものはないか?」
「ん、お茶とね。あ、あとお城の写真とか見たい」
「他には?」
「思いつかないよー」
欲のない緋天があまりに可愛くて、いっそのこと、手当たり次第に彼女の喜びそうなものを買いに行こうかと考えがよぎる。
「あ、お母さんが呼んでる・・・寝る前に電話してもいい?」
その言葉通り、緋天の声の後から微かに彼女の母親の呼び声が聞こえた。それでも伺うように付け足された言葉が、通話を終えるという虚しさを補う。
「ああ。じゃあまた後でな」
「うん」
電話が切れた事を知らせる機械音を確認して、携帯を閉じる。
「・・・本当だったんだ」
「何が」
「兄様も姉様も、蒼羽が別人みたいって言ってた」
まじまじと自分を見てそう言ったそれは、もう何度となく聞いた言葉で。
「今、すっごい優しい声出してたっ!ある意味気持ち悪いかも」
言い返す気にもなれず、彼女を無視して立ち上がる。
「あ、ちょっとどこ行くの!?さっきの話、気になる」
耳聡く、自分の兄の名前を会話の中から聞き取っていた彼女が、またも後ろから追いかけてきた。
「コーディア。お前、何か聞いてないか?」
「ううん。でもね、ベリル兄様が深刻になってるのってあんまり想像できない」
くすりと笑って首を傾げる彼女に思わず笑みがこぼれる。妹にまでそんな風に思われているベリルの楽観主義がおかしかった。
「ふう、さっきの子の事叱ってやろうと思ってたのに。なんか、今の蒼羽の会話聞いてたら、そんな気失せちゃった」
相変わらず後を追ってくるコーディアを放って街の中心へと向かう。とにかく今日しかゆっくりできる時間はないと確信しているだけに、緋天の笑顔を引き出す力のある物を買い求めたい。
「ねぇねぇ。年末のパーティーに緋天ちゃん連れてきてよ。早く会ってみたいもん。冬休み、家に帰るからさ」
「・・・緋天が行きたがるならな」
「うわぁ、本当に緋天ちゃん中心だよ。信じらんなーい」
わざとらしく驚いてみせるその仕草は、コーディアがベリルの妹だと改めて実感させるほどに似ていた。
「っていうかその冷たい目は何?まあ、いいや。あたしも買い物一緒に行く。緋天ちゃんにあげるお土産買うんでしょ?」
「付いてくるな」
「い、や。女の子の意見があった方が絶対いいよ。だって、蒼羽は本当にお茶と写真だけで終わらせるつもりじゃないよね」
「ああ」
「3週間も彼女をほっぽってるんだよ?そんな時にね、お茶なんかがお土産だったら、普通キレるって」
コーディアの言葉に首をひねる。その通りだとしても、きっと緋天は笑顔で礼を口にするだろうに。
「あたしに任せなさい。女の子が喜ぶものは決まってるの!!」
得意げに自分を見上げる彼女を、本気で拒否する事ができなかった。ベリルの末の妹であるコーディアに、振り回されるのは彼女の兄姉たちだけではない。
横に並んだコーディアを見て、それが緋天だったらいいのに、と思ってため息がこぼれた。
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