32.

 

「ねぇ、何でそうあの娘に執着するわけ?確かに見た目は極上だけれど、戸籍の上では妹じゃないの」

 くす、と笑いを漏らしながら。

 甘い声が部屋の中から聞こえてきた。咄嗟にドアノブに触れていた右手を引っ込める。その聞き覚えのある声から、またあの人だ、と認識して。目の前が暗くなった。

「・・・血のつながりは無いんだ。何の問題もない。それに両親もアルジェを本物の娘として育てているからね。どこかに嫁に出すよりは、息子が貰い受ける方がいいだろうさ。同じ理由で僕の嫁も外から貰うよりはね」

 彼の声が紡ぎ出される。

 彼らは自分の事を話題にしているのだ。立ち聞きは良くないと思いつつも気になって、どうにもこの場を去る事ができなかった。

「ふーん。ま、あのお嬢ちゃんなら、操り甲斐もありそうね。あなたの言う事なら何でも聞きそうじゃない?ベタ惚れなのが良くわかるわ」

「まあね、ルーは僕しか見てないよ。と言うか他の男と触れ合う場も機会もあまりない様に育てられてきたんだ、この家にいたから。必然的に一番近くにいる歳の近い男がルーの恋愛対象になる。つまりこの僕だ」

 何か得意げな彼の声。

 それは普段自分に話しかけるようなものではなく。その聞き慣れない、この家の次期頭首である彼らしくない空気に、冷たいものが背筋を這った。確かにその通りなのだけれど、いつもの優しい声で同じ言葉を出されていたら、何の疑問も上がらなかった。けれど、今の彼の様子はまるで別人のようだ。

そう、この間、自分をベッドの上に押さえつけた時のように、全く別の男の人に感じてしまう。

 

「そう仕向けたのはあなたでしょ?かわいそうに。優しいお兄様が実はこんなに計算高くて、自分を利用しようとしてるなんてね。おまけに妙に執着してる」

 かわいそう。

 彼女の口から出たそれに、素早く頬に熱が上るのを感じた。次いでその後の言葉に愕然とする。とてもそのままを信じられるわけがなく、嘘だと言い出したいのを我慢して、彼の否定の言葉が出されるのを待った。

 長くて真っ直ぐな赤銅色の髪に、女性らしい曲線を描く体。ヴァーベイン家と付き合いのある由緒正しい家の娘である彼女が、昔から苦手だった。同じ歳であるせいか一緒にいれば、2人はいつも楽しそうに笑いあっていたから。自分が除け者にされる気分を否応なしに味わうから。

 

 くす、と。

 彼女が発したのと同じ種類の意地の悪い小さな笑い声が、耳に届いた。

「別に執着してはいないよ。ただ・・・ルーの存在はとても稀少なんだ、君は理解できないだろうし、信じないだろうけどね」

「何それ?どういう事?」

 途端に声音の変わる彼女、ベッドの軋む音。

 彼の部屋にいる男性は、本当に自分の知っている人間なのだろうか。

「アルジェが孤児院にいた訳を知っているかい?」

 はしゃいでいるように、随分と興奮した声。

 一体何を。

 彼は何を話し出そうとしているのだ。

 信じられない言葉を一気に聞いてしまって。その上更に自分の知らない何かが明かされようとしていた。彼に対する信頼が揺らいでいる今、とても聞きたい話だとは思えないのに。それでも目の前の扉から少しも動くことが出来ない。

 

「アルジェの母親は地方の、閉鎖的な部族の人間だった。同じ部族の男と結婚し、子を産んだ」

 養父母から聞かされていた、実の親に関する事。

 それはほんの少しの情報でしかなかったし、自分自身でもあまり覚えてはいない。物心ついた頃には既に孤児院にいた気がするし、そこでの時間はかなり楽しい思い出でもあるので、それ以前の記憶が曖昧なのだ。

「それがあの娘でしょ?」

「ああ。だけど子供の髪がめったに見ない色をしていた。珍しいものは有難がるか、もしくは忌み嫌われるかのどちらかだ。さて、閉鎖的な部族の人間がここで取った行動は何だと思う?」

 喉から胸にかけて、何か重いものを入れられたような感触が駆け抜けた。

 

手を引かれて歩いた、冬の冷たい空気が思い起こされる。

 ―――お前のせいで、私は行き場を失ったの。お前なんか厄介者以外の何者でもない。・・・私の前から消えてなくなればいい。

 寒くて。充分な防寒着を纏わずに歩いていた外の風はあまりに寒くて。指先は凍えそうな程に冷たかったのに。背中に走った痛みは、恐ろしいほどの熱を持っていた。けれども、そんな痛みよりも。たった一人自分が頼っていた母親に捨てられたのだという事実が、心臓に大きな楔を突き立てた。狂ったように泣いて、そうして暖かいベッドで目覚めたら、優しい顔がいくつも自分を覗きこんでいたのだ。

 

 何故、その事を忘れていたのだろう。

 彼の言葉に思い起こされた、実の母親の記憶は目を瞑りたくなる位、忌まわしいものだった。

「追い出したんだよ。母親と、その汚らわしい子供をね。部族にとっては彼女は悪魔の申し子だ。そして母親にとってもそれは同じ。だから捨てられたアルジェは孤児院へ。そこから我がヴァーベイン家へ。銀の髪のアルジェは天使と謳われてめでたしめでたし。そうだろう?」

 この声は。言葉は。

 本当に彼から発せられているものなのだろうか。もしかしたら、彼の部屋に全く違う男がいて、そこでこんな意地の悪い声で話をしているのではないか。ドアを開けて確かめる勇気はなかった。決定的な事実を目の当たりにするのは嫌だ。跪いて、自分の指に綺麗な指輪をはめてくれた彼が、実はこんな声で話をするなんて知りたくなかった。

 一度に得た大量の情報に混乱して、優しい腕に抱きとめてもらってゆっくり話を聞いて欲しいのに。まさかその相手がこの部屋の中にいる男だと、信じたくない。

 

 

 震える両手の指先を、きつく組み合わせた。

 今の自分はとても惨めだ。一体何を信じればいいのだろう。

 ようやく固まっていた足を動かして、廊下の先の自分の部屋へと踵を返した。そうする事で、何かが良い方向へ動くとは思わないけれど、ベッドの中にもぐりこんで、寝てしまいたい。

 起きたら最悪な世界が一変していた、小さな頃のように。

 きっと。目覚めたら彼の優しい顔を目に入れる事ができるはずだ。

 

 

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