31.

 

「あ。お帰りなさい」

 家に帰り着くなり、ふんわりと甘い香りが鼻腔を刺激した。外はもう暗くなっているというのに、カウンターの奥から笑顔の緋天が出迎える。

「なんかいつもと逆ですねー」

 くすりと笑って肩をすくめる彼女が眩しかった。あまりにも純粋で。

「・・・緋天ちゃん、どうしたの?」

 壁の時計に目をやると、6時を少し過ぎたところ。いつもなら家に帰っている時間だ、特にここ最近は蒼羽がいないせいで彼女はここで時間を潰さない。

「誰もいなかったから・・・。4時くらいに帰っていいってマルベリーさんがアルジェさんの所に迎えにわざわざ来てくれて。それで帰ってきたらベリルさんいなくて、お留守番してようかなって」

 湯気が上る鍋、胃に訴えかける香り。待っている間、緋天が夕食を作ってくれていたのは一目瞭然だ。家に帰ると誰かが笑顔で出迎えて、そして夕食が待っているというのは、何という贅沢なのだろう。

「ああ・・・緋天ちゃん。ありがとう」

 アルジェと話をする為に人払いをしたのだから、緋天はさりげなく連れ出されていたのだ。その指示の元は自分なのに、彼女の事がすっかり念頭から外れていた。そんな小さなズレにため息がこぼれ落ちる。

「・・・大丈夫ですか?」

 自分らしくない。

 心配そうにこちらを見上げる緋天が口を開く。

「なんか・・・ベリルさん、変ですよ」

 何度となく聞いた事のある、その自分に向けられた言葉。からかう訳ではなく、彼女は本当に自分を心配してくれていた。

「なんだろうね・・・自分でも良く判らない事をしちゃったんだけど・・・。緋天ちゃんの顔見たら目が覚めたかも」

 彼女の心遣いがありがたいと思った瞬間、ついつい本音がこぼれ落ちる。首を傾げながらもこちらの気持ちの整理がまだついていないと悟ったのか、深く聞こうとはしない緋天がたまらなく愛しかった。蒼羽だけでなく、彼女の存在は自分の中でも相当な位置に列挙されている。最早、ただのアウトサイドではなく、家族同然。だからこそ、アルジェを何とかしたいと思っていたのに。

「・・・栗ごはん、作ったんですよ。あとね、野菜いっぱいスープと、さんまの塩焼き。シン君は嫌がるかもしれないけど」

「大丈夫、ちゃんと食べさせるから。魚も食べさせないとね、ほら、肉ばっかり食べてるから怒りっぽいんだよ、きっと」

 微笑んで話題を変えてくれた彼女に答える。

「遅くまでごめんね。お母さん心配してるんじゃない?」

 緋天の方も今蒼羽がいなくて寂しいのを外に出さないようにと、気を張っている毎日なのだ。こうして蒼羽のいないベースで、一人、彼の為ではない食事を作っていたのは少なからず緋天に負担を与えただろう。

「電話したから平気ですよ?でもベリルさん帰ってきたからそろそろ帰ります」

「あ、うん・・・」

 ソファにかけてあった薄手のジャケットに手を伸ばす緋天をぼんやり見送る。何故か彼女を引き止めたい衝動に駆られた。何となく、もう少し緋天の柔らかい空気の傍にいたかったのだ。

「気をつけてね。もう暗いから」

「はーい」

 緋天を送り出して空を見上げると、ひとつも星が見えていない。シンの帰りは遅くなるのだと思い知らされて、気分が重くなった。

 

今は一人でいたくない。

 

 

 

 

――― ルー、君のせいじゃない。・・・おいで、ほらそんな顔をしないで。僕が悪かったんだ、これは天罰だ。こんな事になって君は僕が嫌いになっただろうね・・・。

 

 あの頃の自分はとても純粋だった。

 だから緋天を見ていると、たまに苦しくなる。彼女と時間を過ごす事はとても楽しいけれど、その素直さを利用する悪人が出てくるのではないかと、自分のようにいつか騙されてしまうのではないかと。苦しくてたまらなくなるのだ。

 

鏡の中にいる自分の顔は少し疲れて見えた。

早足で家に帰ってきたので、頬が紅潮している。

「・・・っ」

 唇を噛みしめた。小さな痛みが走る。

 彼の目的は一体何だというのだろう。

突然触れた唇は何か現実的な、昔の記憶に対する暗く重い気持ちを忘れさせるような力を持っていた。そうでなければ、いつものように取り留めなく涙が溢れる時間はまだ続いているだろうに、こうして乾いた頬で鏡をのぞく自分が存在するわけがない。

例えその力が怒りという感情を引き立てるものであっても。

 

腹が立つ。

悪戯半分にキスをしたベリルに腹が立つ。

髪、瞳、それらが合致するのに、その上最悪の行動を起こすところまでが記憶の中の彼に重なった。そして善人ぶって謝罪までして。

それでも彼は自分の上司だという事に変わりはない。次に顔を合わせても平気な顔で言葉を交わさなければいけない。

 

気分が悪い、吐き気がする、男なんて根本ではみんな同じ。

 

鏡の中にいる自分の顔は今、静かな怒りをたたえている。

 

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