30.

 

 ヴァーベイン家のお嬢様、と呼ばれる事に慣れ過ぎてしまっていた。

 

 惜しみなく与えられる愛情、あたたかい笑顔、何不自由ない暮らし。

 上流階級の娘らしく長い髪をつややかに保ち、上等な生地の服を身につけて。毎日が輝いていた、笑みを浮かべれば天使だと賞賛のため息が聞こえた。

自惚れてはいけなかったのだ、己の立場をわきまえていなければいけなかった。自分に流れている血がどこから来ているのかを、心に留めておかなければいけなかった。

 そうしていれば、こんな思いを引き摺らなくてもすんでいたのに。

 

 

 

 

――― ルー、愛しているよ。

 

耳元で、そう囁かれて。

幸せだった。くすぐったさを隠して自分の腕をさらに伸ばして彼の背中に置いた。首の後ろの髪を温かい手が掬い上げて、甘い口付けが降りる。大人の女性として扱われていた気がしたし、何より小さな頃から一番身近にいた男性にそうして愛情を与えてもらうのは、安心感を伴っていた。

本当は何も判っていなかったのに、彼に甘え続けたのだ。キスの先に何が待っているかを理解していれば、誰も傷付くことはなかった。

 

――― ごめん、急ぎすぎたね。

 大好きな人の、少し強引な態度、知らない男性のような鋭い表情に。途方もない恐怖を感じて、泣きながら許しを請い願った。子供のように泣き叫ぶ自分を、彼はそう言って放してくれたのだ。そして今なら少しは理解できる。そんな状況で燻った高まりは、抑えようがなかったのだと。それを他の女性で解消する事も致し方なかった。

なぜなら彼は婚約相手に拒まれたのだから。

 

――― 私ならあなたを満足させてあげられる。

 彼のベッドの上にいた女性は妖艶に微笑んでいた。

――― アルジェ・・・っ。

 必死な声が背中を追いかけてきた。それを振り切って逃れようとした。大通りに飛び出して。同じ様に飛び出した彼は馬車に撥ねられた。

そして。全てが狂った。

 

 

 

 

帰る前にもう一度。彼女の様子を見ようとそう思い、その扉の前に立つ。何しろアルジェを追い詰めるような問答をしてしまったので、どうにも後味が悪い。遠慮がちにノックをして、その扉が5cmほど開いているのに気付く。中から小さな歌声が聞こえた。スローテンポでどこかぼんやりするようなメロディー。間違いなく彼女の声なのだ。

「失礼」

 歌うくらいの元気があるのかと、少し驚きながら扉を開く。

 途端に静寂が訪れる。そして一瞬で室内を把握できるほどの小さな部屋なのに、自分の見る限り彼女の銀色の髪を確認できなかった。

「・・・アルジェ?」

 たった今まで聞こえていた小さな歌声は、どこから発せられていたのだろうか。部屋の奥に向かって足を進める。きれいに片付けられた机の横まで来て、ようやく部屋の主を発見した。

「っ、・・・そんな所で座り込んで。風邪をひくよ?」

 窓の下で膝を抱えて小さくなっている、彼女の姿は子供のようだ。自分が戸惑っている以上に、アルジェも驚いているのだろう。もう帰ったと思った自分がまたやって来たのだから。

「アルジェ」

 爪先に目線を落としたままの彼女は口を開かない。どうしていいのか判らないのだろう。自分もまさかこんな所を目撃してしまうとは思わなかった。

「・・・さっきは。やり過ぎだった、ごめん」

 この奇妙で気まずい空間に、何とか元に戻る道を作ろうと。先ほどの事を謝り、膝を落とす。それでも長身の自分の目に写るのは、彼女の銀の髪。

「私達は君の負担を取りたいだけなんだ。傷つけようとしている訳じゃない。君の味方だよ」

 

 潤んだ瞳は何もかもを拒絶する、空虚な色を湛えていた。

「っ、・・・ごめん」

 泣いているのにその感情を吐き出せない。追い詰めたのは自分だ。

 突如として湧き上がる罪悪感と、そして彼女の反応のなさがあまりに恐ろしくて。濡れた頬に触れる。

 

「・・・サー・クロム」

 どこまでも無機質な、その声。何の感情も表に出さない、その顔。

自分が触れる事に不快感すら覗かせない。

「サー・ク、っ」

 

他人行儀なその呼び名を。このセンターの中で口にするものは、もうあまりいない。そうするように、自分が頼んで回ったのだ。幹部だからといって遠巻きにされるのは不愉快だし、自分の役回りにはとても邪魔なものだったから。ベリル、と気安く呼んでくれと。センター中を回った。

 

 

そうしなければいけないと、体を突き動かす訳の判らない命令。

何かが乗り移ったように、体は動く。

 

サー・クロム。

その名を2回繰り返す前に。消してしまえ、と。

出てくるアルジェの無機質な声を、遮った。

 

 

 

触れた唇は、やけに柔らかい。

彼女の脆さそのものを表しているかのようで。

 

 

 

「・・・ああ、えっと、ごめん、その。そういう訳じゃなくて」

 目を見開く彼女を前にして、出てくる言葉は意味を成さない。

 我に返って、自分が今何をしてしまったのかと考え直す前に、充分すぎる程にうろたえた声が飛び出してくる。壁に手をついて立とうとする彼女をぼんやりと見送って、何をしているのだと自分を叱咤し、こちらも立ち上がる。

「ほんとにごめん」

 ゆっくりとした動作のアルジェより先に立ち上がって、まだ中腰の彼女に何気なく手を伸ばして支えると。出した右腕を無言で押しやられて、口をついて出るのは馬鹿のひとつ覚えのように謝罪の言葉。

「・・・出て行って」

 ようやく出された声は、当然のごとく自分を拒絶する。

「ごめん」

 そうしてまた同じ言葉を出すと、彼女の目に怒りの色が見えた。

 無表情ではなく。敵意の視線を自分に向ける。

 

 

 黙ったまま、扉に向かう。

 とんでもない事をしてしまったが、彼女の表情を取り戻したのかもしれない。

 

 

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