29.

 

「ようやく重い腰を上げたか」

 彼女の部屋を出て、私室のある階へと足を踏み入れた、その廊下の数歩先。叔父が何とも言えない、嫌な笑みを浮かべて立っていた。

「・・・相変わらず、情報通なようで」

「私を誰だと思ってる。それで?どうだった?」

 核心をつくその発言には、判ってはいたが驚く。自分がたった今、階下で何をしていたのか彼には筒抜けなのだ。

「その前に。ひとつ聞いてもいいですか?叔父さんは彼女が何故ああなったのかご存知なんですか?」

 少し前から気になっていた事。

 蒼羽も叔父も、アルジェを何とかしろと自分に促してきたが、その複雑な彼女の心を縛る原因については何も言わなかった。蒼羽は別にしても、彼女を昔から知っているのだと言った叔父には、それが何か判っているのではないかと思う。

「いや。良くは判らないんだ。それがいつからなのかは判るんだけどね。誰が聞いても頑なに口を開こうとしない」

 彼は珍しく曖昧に言葉を濁して、その視線を少しずらした。

「想像上のものでしかないが、それで良ければ話そう。でもそこまで知るなら、お前はもう途中で放り出す事はできないよ。昔のようにね」

 気付けばまたその強い眼差しに射抜かれている。

 叔父の言葉は的確に自分の罪悪感を抉り出した。かつて、蒼羽と顔を付き合わせる事が苦痛となって、自分には荷が重過ぎると一時逃げ出した事があるのだ。結局、それを悔やんで彼に謝り、許しを請い願ったが。その時点で蒼羽を更に深い闇へ押しやり、そしてそこから自分が彼を引き上げる可能性をゼロにした。

「どうする。お前はどうしたいんだ。お前の仕事にはさほど支障はないだろう。放っておけばいい。壊れたらまた代わりを連れてくればそれでいい」

 普段の彼とかけ離れた口調、言葉。淡々と自分の体に染み入る。

「そう言っていたのはお前だろう。精神的な欠陥を持つ人間より、普通の人間の方がいいじゃないか。いくらでも代わりはいる」

 

 逃げ出して、旅行に出かけた。その時のとてつもない罪悪感、後悔、情けなさ。そして美しい景色を見てもそれを楽しめず、何も手につかない居心地の悪さ。当時の感情がまざまざと甦る。

「悪戯に振り回しても相手に迷惑だ。別にお前の義務でもない。忙しい中、時間を割くのに値する事でもない。ただの一研究者だ」

 染み入った言葉は体の内側を這い回り、そしてその通りだと自分の同意を呼び起こした。だいたい蒼羽の事も途中で放り出したのだから、どうせ同じ事をしてしまうだろう。今更過去の罪を拭う為に、別の人間を実験台にしてしまう程、お前は偉いのか。そこまで立派な人間なのか。

 怯えた目、細い首筋。あの弱々しさが網膜に焼き付いていた。

 美しい澄んだ水色の目が、本当に心から笑う時はどれほどのものだろう。

「どうする。お前はどうしたい。私はお前の決定に従おう」

 先程と同じ言葉。こんな時に何てずるい言葉だと。そう思う。このセンターを出て、他の場所で仕事をしていくとしても、気の許せない相手に毎日仮面をかぶり続け、きっといつかアルジェは崩壊してしまう。彼女の運命が自分にかかっていた。

 蒼羽が何とかしろとサインを送ってきた。責めるような視線と言葉。不満を訴える表情。自分にどうしろというのだ、彼自身を救えなかった自分に。緋天が嬉しそうにアルジェの話をする。結局のところ、彼はそれを守りたいのだ。緋天相手なら彼女は少しでも本当の心を見せるから。崩壊する前にそれを全て本物に変えてしまえばいいとそう願っているのだ、緋天の為に。

 

「・・・緋天ちゃんが・・・」

 荷が重い。

「緋天ちゃんが彼女をかなり慕っていますから・・・」

 自分には荷が重過ぎる。それなのに。

「新しい誰かが来ても、その人間に今のように何でも話せるかどうかは判りません。緋天ちゃんが心を開けなければ、相手に価値はない」

「ほう・・・」

 叔父の目が面白いものを見るように見開かれる。

「やってみます。途中で投げ出すような馬鹿な真似は二度としないと約束します。緋天ちゃんの為に」

 視線を受け止めた。両肩に降りかかる重責。

 緋天の為だと自分に言い聞かせた。それとは別に、アルジェの本物の笑顔を目にしたいとどこかで思う。10数年前、蒼羽が心から笑うところを目にしてやろうと決心したのと同じように。美しい造作の子供が屈託無く笑うのはどれだけのものだと、その時もそうやって期待を抱いていたのだ。緋天を目の前にして笑顔を浮かべる蒼羽の穏やかな姿は、泣きたい程の嬉しさを自分にもたらしたのだから。

「緋天さんの為、か。中々殊勝な事を言うようになったじゃないか」

 相変わらずの笑顔。今はそれが少し重い。

 くるりと背を向けて彼は自室へと向かう。ついて来いという無言の圧力。これに従えばもう後戻りはできない。もう一度自分に言い聞かせて後を追う。

記憶の中の小さな蒼羽が笑った気がした。

 

 

「彼女を初めて見たのは孤児院だった」

 それはお前も知っているのだろう、と叔父の目が問いかける。確かに自分で調べたアルジェの経歴には、4歳から8歳までの4年間を孤児院で過ごしたと記録されている。

「かなり目立っていたな。あの髪の色だから。近所の者はアルジェを天使だと言って随分可愛がっていた。とても明るい子で誰にでも分け隔てなく接していたから、他の子供達にも人気だった」

「それでヴァーベイン家に引き取られたんですよね」

「ああ、彼女が孤児院に入ってからすぐに、かなりの数の家庭から引き取りたいとの声があったんだが。あの容姿だからね。半分以上が善からぬ事を企む人間だった。それで引き取り手の選定にかなりの年月を要したんだよ。私が院長から相談を受けたのもそのせいだ。ヴァーベインなら大丈夫だろうと太鼓判を押したのは私だよ」

 ヴァーベイン家はかなりの財力を持ち、優秀な人間を輩出する一族だった。善良な性格の者が多く、慈善事業にも力を入れている。叔父や自分の一家とも昔から親交があった。アルジェを引き取ったのは、彼女がいた孤児院の地域の分家で。この地域からは結構な距離がある。本家に引き取られていたのなら、今まで自分とも面識があっただろうと思う。

「本部の養成校に入る為に家を出たのが16。その時は既に以前の彼女ではなくなっていた」

 本部での彼女は氷姫と呼ばれていた。そこに来る前は天使と呼ばれていたのに。それでは原因はヴァーベインにあるのではないか。

「今お前が思っている事を私も思ったよ。けれど違うんだ。彼女の養父母は本部に行く1ヶ月ほど前に、アルジェが豹変したと言っている。実際私もその2ヶ月前に彼女に会っているんだ。その時は何ともなかった」

「じゃあ何が・・・?」

 もともとの気質は明るかったのだから、急にがらりと態度が変わるというのは余程の事だ。しかも未だに解決されていない。

「アルジェが一度家を出てから・・・8年が経つが。その間に彼女は3回しか帰っていないそうだよ。しかもここ5年は、ヴァーベインの養子である事をやめたいと、縁を切ってくれと言い張っているそうだ」

 叔父の顔が苦笑に歪む。

「想像でしかないけどね。やはり原因はヴァーベインにあるようにしか思えない。養父母がどうという訳ではなく、別の何かだ。彼らは本当に気持ちのいい人達だから」

「・・・。正直、それを聞いてもどうすればいいか判りませんが。初めは蒼羽と同じだと思っていたんです。そういう印象を受けました、無表情で、殆どの事に無関心で」

 他人との馴れ合いなんてとんでもないと、全身で拒否していた。自分の仕事相手である緋天を目の前にして、蒼羽に悪態を吐いて。

「でも違うみたいです。以前の蒼羽に比べれば、彼女のあれは一過性のものにしか見えないし、他人の目を気にして明るく優秀な人間を演じてる。それに少なくとも蒼羽と緋天ちゃんには普通に接してるように見えます。シンに対しても。だいたい顔見知りの相手と話している時は、割と素の状態なのだと思うのですが」

 そしてたまに心を閉ざすのだ。何かの拍子に彼女は仮面を被る。作られた笑顔と、当たり障りのない会話。他人と決して深く関ろうとしない。

「・・・完全に遮断していたのは本部にいた時だけか。8年経って少しは薄れているか、それとも余計にこじれてしまったのか、どちらとも言えないな」

 頷いて首をひねる叔父は、少し口元をほころばせる。

「まあ、確かに緋天さんと2人で何やら楽しそうにしていたのを見ているしなぁ。もしかすると、緋天さんには色々と話しているのかもしれない」

 そう言われて、緋天はアルジェの複雑さに気付いているのだろうかと思い至る。緋天はアルジェと話した事などを嬉しそうに自分に教えてくれるが、それはいつも他愛無い話で。仕事関連の話よりも、そちらに重点をおいて報告してくれる方が多いのだ。その様子からすれば、とても緋天が何か重大なアルジェの秘密を知っているようには思えない。

「どうでしょうね。まあ、それとなく聞いてはみます」

「ああ。頼むよ、お前しかいないんだから」

 穏やかな口調で紡がれた叔父の言葉は、別の何かも示唆しているように感じた。肩の荷は相変わらず重い。

「シンはどうだ?」

 話題を変えようと、少し明るく彼は問う。それも少しばかり頭の痛い問題なのだが、今の話に比べればいくらか解決に向かっている。

「相変わらず緋天ちゃんをライバル視してますけどね。少しは収まったみたいですね、露骨に避けることはしなくなりましたから」

「あの子もなまじ頭がいい分、癖があるからな・・・蒼羽に比べればマシか、それでも」

 そう言った叔父と2人で笑みがこぼれた。自分達は、問題を抱える人間の比較対象はどうも蒼羽になってしまうから、厄介だと思いつつも結局は何とかなるだろうと楽観的にもなれる。

 

「本領を発揮してくれよ、一等擁佑士、サー・クロム」

「はい」

 

 半ばからかうように、けれどもその裏に脅しめいたものを含ませて。

叔父が役職名を音にのせた。

 

後戻りをする道は、もうどこにも残されていない。

 

 

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