27.

 

 冷んやりとした空気が部屋を満たしていた。少しだけ開けられた窓から入ってくる朝の風に、顔の上半分が冷たくなっている。暖かい布団にもぐりこんで、その心地よさにもう一度目を閉じる事にする。

 ふんわりと体を包み込む手触りのいい薄い毛布。さらりとした生地のシーツ。安心感を与えてくれる、陽だまりのような匂い。大好きな人の腕の中にいるような、その暖かさと匂いが。今自分がどこにいるのか、ぼんやりとした頭から眠気を追い出し、気付かせてくれた。

「・・・っ、電話・・・」

 昨日の夜、蒼羽からの電話を待たずに。いつの間にか眠ってしまった事を悟る。跳ね起きて、部屋の中を見渡す。隅に置いてあったカバンから、急いで携帯電話を取り出した。着信履歴に蒼羽の名前。今、彼が穴の外にいるのか判らないが、とりあえず短いメールを出す。昨夜、電話に出ずに眠りについた事の謝罪、そして良く眠って元気だという事。

「・・・はぁ」

 送信ボタンを押して、体から力が抜けた。座り込んだラグの、柔らかな毛足が膝から下のむき出しの肌に優しく触れる。もう一度、ディスプレイに目を戻すと、まだ6時前で。ベリルやシンが起きるまで、シャワーでも浴びようと立ち上がる。着替えずに寝ていたせいで、お気に入りのオリーブ色のスカートが、しわだらけになっていた。

 落ち着いたメロディー。オルゴール音で奏でられたその曲を鳴らすのは、たった一人だけだった。手放したばかりの携帯から、自分を呼び出す音が聞こえてくる。

「・・・っ蒼羽さん」

 慌てて耳にあてた携帯に、勢い込んで蒼羽の名前を呼ぶ。

「緋天」

 ほっとするような吐息と共に優しい声が耳をくすぐった。

「随分早く起きたな。まだ誰も起きてないだろう?」

「うん。昨日、あたしだけ早く寝ちゃってたみたい。すごいぐっすり。蒼羽さんのベッド気持ちよすぎだよ」

 窓の外に薄い色の空が見える。

「あっ、あのね。昨日シン君が名前で呼んでくれたの。ちょっと仲良くなれたかも」

 純粋に嬉しかった。昨日は避けられている様子もなく、名前で呼んで次はあれ、と手巻き寿司の具を指差して。そして自分の手渡すそれを、おいしそうに食べてくれて。

「それでね、蒼羽さんの部屋にあったチェスでアルジェさんとシン君が遊んでるの観てたの。ベッドの下から出てきたんだけど、何で知ってたのかな・・・っくしゅ」

「緋天?どこにいる?冷やすな、風邪をひく」

 風がかなり涼しいせいで、くしゃみが出た。蒼羽の心配そうな声がすかさず返ってきて、少し嬉しくなりながら答えた。

「蒼羽さんの部屋だよ。大丈夫、この後お風呂入るから」

「・・・ん、フェン達がいるなら、鍵かけろよ」

 眉をしかめた蒼羽の顔が浮かんで、笑ってしまう。そんな事を言い出すのは、きっと彼だけだろう。

「うん」

 笑い声のまま返事をして。蒼羽の言葉を待つ。耳に響くその優しい声をもっと聞いていたい。彼が話しかけているのは、今は自分だと認識していたい。

「今日はどうする?すぐに家に帰るのか?」

「う〜ん、どうしよう。とりあえずまだ皆寝てると思うし・・・朝ごはんでも作って帰ろうかなぁ。あ、図書館に寄ってから帰る」

「それから?」

「家で本読んでまったりする・・・」

 蒼羽がいないから、と心の中で付け足した。

この一週間、こうして細かく自分がどうするか把握しようとする彼は。心配しすぎだ、大丈夫だと何度言っても毎夜の電話でそれをやめる事はしなかった。

寂しいことは寂しい。けれども、そうやって電話をかかさずくれ、大げさな位に自分を大事にしてくれる蒼羽の声は、不思議な安心感と活力を与えてくれている。予定がなければ自分から外に出掛けようと思う程の元気はないが、それでも蒼羽がいなくなる前の悲壮感は既に消えていた。

「判った。夜、電話する」

 その言葉は、そろそろ会話を切る合図。

「うん。今日はちゃんと寝ないで待ってるね」

 忙しい合間を縫って、蒼羽が半ば無理やり電話をしているのは判っている。彼はそんな事を一度も口には出さないけれど。

「気をつけて帰れ」

「うん」

「・・・緋天」

「うん?」

「・・・っ。じゃあ夜にな」

「うん。じゃあね」

 目をつぶる。耳から携帯を手元に戻して通話ボタンを押す。

 蒼羽は決して自分から通話を切らない。切る瞬間、冷たいものが心臓を撫でる。この感覚を蒼羽も知っているのだろうか。蒼羽から切ってくれるのと、どちらが楽なのだろう。そんな考えが頭をよぎった。

 

 

「ここまで飲む意味あんの?」

「わっ、シン君」

 人の家のバスルームなのだが、本当に風邪をひきでもすれば蒼羽は要らぬ心配を増やすだろうと思い。バスタブにお湯を張ってゆっくりと朝の入浴を楽しんだ。髪を乾かして1階に降りると、3つのソファ、それぞれに死んだように眠る3人の男達。

 彼らの体には一応毛布がかかっているところを見ると、どうやらベリルだけはまともな思考の上で自分の部屋に向かって眠りについたらしい。

「腹減った。緋天、何か作れよ」

 どうしよう、とぼんやり彼らを眺めていると、背中からシンの声がかかった。振り返って目に飛び込んできた寝癖のついた髪が何とも可愛らしい。

「でもここでカチャカチャやってたら、皆起きちゃうよ?」

「いいじゃん、別に。どうせ家帰って寝なおすんだからさ」

「う〜ん・・・そうだよね、起きた時、ご飯ができてる方が嬉しいかな」

「そうそう。だいたいこれだけ爆睡してんだから、平気だろ」

 言い切る彼の言葉に、まあいいかという気になって。袖をまくってカウンターの中に入った。何故か彼には逆らえないという雰囲気がある。その奔放な態度が、たまに蒼羽に似ているからなのだけど。

 冷蔵庫を覗いて中身を確認する。簡単にサンドイッチでも作ろうと決めてから材料を取り出して、シンクに向き直った。

「・・・どうやって蒼羽と付き合いだしたわけ?」

 てっきり朝食ができるまで、彼が寝起きしているベリルの部屋の隣の空き部屋へと戻っているかと思っていたら。驚いた事に彼はカウンターに座って頬杖をつき、こちらを見ていた。彼から話しかけられる事は昨日までは考えられなかったのに。

「教えろよ。なんで蒼羽はお前を大事にしてんの?」

「なんで、って・・・」

「どっちが先に告白したんだよ?」

 真顔で、どこか苛立たしげな声で。問われた質問の内容に、まさか彼がそんな事を聞いてくるとは思ってもいなかったので、余計に戸惑う。

「早く」

 今度は本当に苛立った声で答えを促すシンに、正直に口を開く。

「蒼羽さん。蒼羽さんが先に好きって言ってくれたけど・・・その時あたしもそう言うつもりだったから。殆ど同時、かな」

 説明しながら、その時感じた天にものぼりそうな嬉しさ、幸福感、たまらない恥ずかしさ等も思い出して、自然と頬に熱が集まる。

「・・・ふーん。緋天は何で蒼羽が好きなわけ?」

 どうして急にそういった事を聞いてくるのだろう。

 不思議に思いながらも、その真剣さに真面目に答えなければいけないと感じて、ひとつ深呼吸をして、頭の中で答えを探す。

「・・・・・・何でだろう、わかんない。優しいから、とか好きなところは色々あるけど・・・。蒼羽さんといたらすごく幸せ、って思う。他の人だとそういう気持ちにならない」

 明確な答え、彼が納得してくれるような言葉。そんなものはどこからも出てこない。

「でも蒼羽さんじゃないと駄目だっていうのは、すごくはっきりしてるの。多分ね、もう誰も好きになれない。蒼羽さんが他の女の人を好きになっても、あたしは一生、誰とも付き合えない」

 漠然としていた想いを言葉に出すと、形のはっきりしていなかったものが綺麗に固められた気がした。これは真実だ。こんなにも蒼羽の存在が大きく自分を取り巻いている。

「・・・はっ。そういうのって蒼羽の負担になるんじゃねーの?」

「う、ん・・・そうだね」

 嫌そうな顔を見せて、彼はそう吐き捨てる。

「ストーカーみたいにさ、別れた後もそうやって引き摺られたら結構怖くねぇ?」

「うん。でも追いかけたりしないよ。余計嫌われちゃうから」

 シンの言葉は確実に、甘い理想を描く自分を冷静にさせた。

蒼羽と別れる事もひとつの未来として有り得るのだ。彼が与えてくれる幸福にただぬくぬくと浸っているだけでは、蒼羽は離れていってしまう。

「お前と付き合ってたら蒼羽が潰れる気がする。ただでさえ忙しいのに、その上お前の面倒も見なきゃいけないんだから」

「・・・。うん」

 こうして素直に思っている事をぶつけてくれるシンの言葉には、ひとつも希望的観測は含まれない。判ってはいたが、蒼羽がどれだけ無理難題に取り組んでいるか、改めて思い知らされた気がした。

「・・・ほんとに判ってんの?ったく、いつまでもトロくせーままだと捨てられるんだからなっ」

「うん」

 

それきりそっぽを向いて黙った彼に、何も言う事が出来ず。

ただ黙々と手を動かすことに専念した。

 

 

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