26

 

 夜が更けた。

 適度な量以上のアルコールを摂取して、フェンネルと門番達はご機嫌でクレナタの朗読する詩に野次を入れていた。何となく、アルジェがいる事に気を取られて、酔いの中へと自分を持っていけず、皆が酔っていくのを一人傍観していた。

 1時間程前に、飲み続ける彼らに飽きて、シンはアルジェを2階へと誘った。蒼羽の部屋で見つけたチェスをやろうと半分引きずるように連れていったのだ。それに緋天もくっついて行き、俄に花のいなくなった1階では少し卑猥な話も飛び交う。

 当たり障りのない言葉で微笑とともに、食事の間の話を続けた彼女は明らかに疲れていて。シンがそれを言い出し、その腕を引っ張った時、ほんの一瞬、ほっとした表情が見えた。相手が緋天とシンならば気を遣わずにいられるのだろう。事実、彼女が1番避けていたのは他でもないこの自分だ。何を言われるのだろうと怖れていたはずだ。3週間程前、自分は間違いなく彼女の心を覗いてしまったのだから。

 それでも、3人が何をしているか気になり、温かい飲み物でも持って様子を見に行こうと。フェンネル達を横目に3つのカップに甘いチョコレートの飲み物を入れる。

 リリリリ、と甲高い電子音が響いた。

 胸ポケットに入れた、自分の携帯電話の着信音だと気付く。これを鳴らせる事ができるのは、外にいる蒼羽か緋天だ。急いで手に持っていたトレーから手を離し、携帯を取る。ディスプレイは相手が蒼羽である事を告げていた。

「ベリル?緋天が携帯に出ない。今日はベースにいるんだろう?」

 耳に携帯を当てるなり、蒼羽の焦った声が入ってくる。

 何かと思えば、と自然に口元が緩む。彼は出発する日の朝、ぎりぎりまで緋天を腕の中から放そうとせず、彼女よりも不安に駆られた表情を見せた。この1週間、緋天の1日の予定を細かく把握し、完全に彼女が安全だと確かめる事を怠らず。今も、毎日だいたい同じ時間に電話をかけてそれに応答していた緋天が、今日初めて呼び出しに答えなかったので、不安を見せているのだ。

「いるよ。さっき2階にシンたちと行ったから。遊びに夢中で気付いてないのかも。今、ちょうど見に行こうと思ってたんだ」

「・・・ああ、それならいいんだ」

 明らかにほっとした吐息とともに発せられたその声に、言葉を返す。

「じゃあ切るよ。緋天ちゃんから電話するように言うから」

 通話ボタンを押して、元の位置に携帯を戻す。

 先程離したトレーをもう一度手にして。2階への階段を上った。

 

「ん゛〜〜〜」

 開け放されたドアの向こうからシンの唸る声が耳に入る。完全に段を上って目に入ったのは、眉をしかめチェス盤を見る彼と、入り口側に背を向けているアルジェ。毛足の長いラグの上に楽な姿勢で座り、2人ともくつろいだ様子でゲームに集中していた。その横で、ベッドにもたれてクッションを抱きしめている緋天の姿。彼女の目は閉じられていた。

「・・・緋天ちゃん、寝ちゃったの?」

 声をひそめて言いながら部屋に入ると、2人がはっとして自分を見る。集中していたので驚いたのだろう。

「うわ、なんか静かだと思ったら。よっし、顔にラクガキしてやろうぜ」

「しっ。起こさない方がいいわ」

 嬉々とした表情でシンがそう言い、アルジェは厳しい口調でそれをたしなめた。

「きっと、最近良く眠れてなかったんじゃないかしら・・・」

 静かな彼女の声に、内心驚きながら。トレーをチェス盤の横に置いて、緋天の前に回りこむ。ゆっくりとした呼吸を繰り返す緋天は、間違いなく眠っていて。アルジェの言うとおり、あまり起こしたくはない。

「シン、上掛けめくって」

 このままここで寝かせば風邪をひいてしまうだろう。そう思って緋天の背中に手を回しながら、アルジェの言葉に不服そうな顔をするシンに指示する。

「起こせばいいじゃん。ってうわ、お前・・・」

「いいから早く」

 細い体を持ち上げて、その軽さにかなり驚いてしまう。シンにカバーと上掛けをめくらせたベッドの上に緋天を降ろす。頭を枕の上に置くと、その体が身動きした。

「蒼羽さん・・・?」

 結局目を覚ましてしまった緋天から出たその言葉に、自然と笑みが漏れる。上掛けを引き上げて彼女の体に被せてから、ぼんやりしたその声に答える。

「今日はもう寝ようね。明日の朝、電話すればいいよ」

 頬にかかっていた髪をどけてやり、眠そうな目に手をのせた。微笑んだ彼女から手を外すと、大人しくその目が閉じられていた。

「おやすみ」

「・・・お前、蒼羽に殺されんじゃねえ?」

 あどけない寝顔を眺めていると、後ろから声がかかる。

「え?・・・っあ、そうか。いつもの癖で」

 シンの言葉に我に返る。自分の妹にしてやっていたように、小さな甥や姪にしてやるように。思わずその額にキスを落としてしまっていた。目を閉じた緋天があまりにあどけなかったので、深く考えていなかったのだが。確かにこれは蒼羽の怒りメーターに間違いなく触れる事だろう。

「口止め料」

 にやりと笑ったシンが右手を差し出す。

「・・・全く。しっかりしてるね、君は。まあ、それはいいとして、ここから出るよ」

 ベッドの緋天に視線を投げて、そして一応声は出さずに目で抗議するシンに手振りで階下に行くよう示す。

 黙ってアルジェが立ち上がり、彼の背を押してから靴を履いた。ロングのスカートから見える細く白い足に、一瞬目を奪われる。焦げ茶のハーフブーツを履き終えて、それに従ったシンを彼女は嬉しそうに撫でた。一瞬抵抗を見せたものの、アルジェの手を振り払わないとは一体どういう事か。昼間は同じ事を自分がすると、あんなに嫌がっていたのに。呆気に取られながら一度置いたトレーを持って、彼らと一緒に部屋を出る。

明るい室内の照明を落とした。アウトサイドに合わせ電化しているとはいえ、照明だけは自由に明るさを調節できるという利便性を取り、石を使用していてスイッチが要らない。

 

 

 何やら盛り上がっている様子の門番とフェンネルは、もう完全に酔っていて、少しもこちらを気にしない。

「もう10時ね。・・・私、そろそろお暇します」

 壁の時計を眺め、彼女が切り出す。

「えー。もっといろよ。泊まればいいじゃん」

「うーん。ごめんなさい、続きはまた今度ね」

 苦笑してシンに答えるアルジェがこちらを向いた。

「あ、帰る前にこれ、飲んで」

 手にしたトレーを持ち上げて見せて、彼女の言葉を遮る。フェン達は絶対にこれを口にするとは思えず。カウンターに座るように促した。

「はい。熱いから気をつけてね」

「・・・いただきます」

 カップを口に持っていって。彼女は一瞬、ふわりと微笑む。

「あ、ベリル。オレ、自転車欲しい。買って」

 作られたものではない笑顔に。どきりとして思考を奪われた。ほんの少し、自分に対しての警戒心を緩めてくれたのだろうか。思わずまじまじと彼女の顔を見てしまって。シンの唐突な言葉に我に返った。

「・・・何?いきなり」

「だから、口止め料。嫌ならいいよ。オレ、蒼羽に言うから。ベリルが緋天をお姫様抱っこで運んで、その上、でこチューなんかしてた、って。ちなみに、すげーニヤついてた、って言うから」

「・・・。嫌な言い方するね。それなら君もさ。緋天ちゃんにさんざんやりたい放題言いつけてたじゃないか。結局お寿司も全部作らせてたし。緋天ちゃんが抵抗しなくても、それを知った蒼羽は何て言うかな」

 得意げな顔でカップを傾けていた彼に反撃する。たちまち口からそれを離して、シンが舌打ちをした。

「しょうがねぇな。今回は黙っててやるよ」

 

 諦め顔のシンを横目に携帯を取り出して、蒼羽を呼び出す。

「・・・緋天は?」

彼女に電話させると言ったのに、自分が電話した事に、またしても蒼羽は焦った声を出す。

「上でうたた寝しちゃってたから。ベッドで寝かせたよ。起こした方が良かった?」

「いい。起こすな。明日の朝、また電話する」

 何故そんなに落ち着きがないのだと、思わず笑ってしまい、それを向こうも悟ったのか今度は憮然とした声に変わっていた。

「・・・・・・狂いそうなんだ」

 少しの沈黙の後、ぼそりと蒼羽が声を発した。

「何か嫌な感じがする。置いてこなければ良かった」

「そ、」

「ただの思い込みならそれでいい。だけど確認してないと気が済まないんだ。声を聞かないと安心できない」

 溢れ出る焦燥感を何とかして抑え込もうとする、その声に。蒼羽の『嫌な感じ』という感覚が的を外した事がないという事実を自分に思い起こさせた。気軽な慰めは何の意味もなさないのだと、背筋が冷やされる。

「・・・判った。充分気を付けて見ているから」

「ん。頼む」

 短く答えた彼と通話を終えた。

 一種の勘のようなもの。

 けれども決してそれを軽視できないのだ。蒼羽の鋭敏な感覚は緋天を置いていくべきではなかったと、警告を発していた。

「今の蒼羽?何だよ、また緋天の心配?毎日電話してんだろ?よくやるよな。ほんと、理解できねーな。あれのどこがいいんだよ」

「あら。緋天さんの良さが判らないなんて、まだまだね」

 黙っていたアルジェが苦笑しながらシンの顔を覗き込む。飛び出したその言葉に賛同する以前に、またしても彼女の素の部分を垣間見た気がして。

「別にいいよ。オレはアルジェの方が絶対イケてると思うけど」

「・・・ありがとう。でも誉めても自転車はあげないわ」

 一瞬。悲しげな表情が見えた。横に座るシンはそれに気付かなかった。次に現れた笑顔に。作られた笑顔に。彼は満足そうに頷く。じっと見ていた自分にしか、今の表情は目にしていなかった。

 

 

「あ。オレ、送る」

 カップの中身を飲み終えたアルジェに向かってシンが口を開く。

「え?いいわよ、一人で帰れるわ」

「夜だから危ないじゃん。遠慮すんなって」

「紳士ね。ありがとう」

 嬉しそうに立ち上がってこちらを見る彼の顔には、ついてくるな、という無言のメッセージ。

「サー・クロム、お招きありがとうございました。これで失礼します」

「・・・ああ、うん。気をつけてね」

 偽りの笑みを浮かべた彼女が口にした、最近はあまり聞いていなかった自分の名前に。違和感、そして苛立ちに似た感情が掘り起こされた。頭を下げた後、前後不覚の一歩手前の男達に同じ様に挨拶をしたアルジェは、もう一度礼儀正しく頭を下げ、廊下へと消える。

 

「・・・はあ」

 彼らを見送って、どこからともなくため息がこぼれた。今日、ここに彼女を呼んだのは、やはり失敗だったようだ。シンが呼びたいと言うのでそれに応じたのだが、結局アルジェを疲れさせただけのような気がする。

「なーんか。ベリルさんらしくないっすね。すげー、堅かったですよ、アルジェさんも。やっぱ上司と部下だから?」

 こちらのことなど気付きもせずに、楽しく飲んでいるとばかり思っていたフェンネルの声が背中にかかる。その意外としっかりした声に驚いて振り返ると、彼はにやにや笑いながらこちらを見ていた。

「・・・オレらもアルジェさんに飲ませていいのか判んねぇし。何すか、あの微妙な空気」

「・・・。さあ。私もどうすればいいか判らないよ」

 酔っているのか、いないのか。

 彼の言葉は暗に自分を責めているような気がして。

 ひとつ残った、緋天が飲むはずだったカップを手にして、山積みの問題を今日はひとまずどこかへ放ってしまおうと、体の奥へ、その甘い液体と一緒に追いやった。

 

 

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